55.柚子、メイドになる。
大豪邸に到着後、まず最初に、とても落ち着きのある初老の男性に軽く挨拶をされた。
初老の男性は、影井さんというらしく、この大豪邸の執事長らしい。
執事という存在を初めて間近に見て、本物だ、と私は月並みに驚いた。
その後は千晴の案内により、メイド専用の控え室へと移動し、千晴に指示された通り、そこにあった服に袖を通した。
そして私は今、由緒正しい雰囲気の黒と白で統一されたクラシックなメイド服に身を包み、千晴の部屋にいた。
「…うわぁ」
千晴の部屋のスケールに、思わず感嘆の声を漏らす。
広さはうちのリビングよりも広く、大きな窓にベランダまである。
1人で使うにしては大きすぎるベッドには、天蓋が付いており、大きなL字のソファとテーブルの前には、大きなスクリーンまであった。
さらにそのソファとテーブルとは別に、大きなテーブルと四脚の椅子まである。
その他にもたくさんのものがあったが、ごちゃごちゃしている印象はなく、むしろシンプルで高級感の溢れる印象があった。
ここは男子高校生の部屋ではない。
富豪の部屋、もしくは、ホテルのスイートだ。
あまりの異世界にしばらく呆けていたが、私は現状に気づき、慌てて首を横に振った。
いけない、いけない。
私は今、ここにバイトに来ているのだった。
見学に来ているのではない。
「それで?私の仕事って何?人手不足なんだよね?パーティーがあるとかで」
パーティーに人手がいってしまい、この部屋を掃除する人がいない、とか?
早速千晴に問いかけた私に、千晴は瞳を柔らかく細めた。
「パーティーはまたあとで頑張ってもらうから」
それだけ言って、千晴が私の腕を引く。
そうしてやってきたのは、1人部屋にしては大きすぎるL字ソファの前だった。
かなり大きく、そして長い為、普通にベッドとしても使えそうだ。
どんな仕事を言われるのだろう、と千晴の次の言葉を待っていると、千晴は、ぽすん、とソファに腰掛けた。
「先輩、ここ座って?」
自身の足を広げて、ポンポンとその間を千晴が叩く。
こんなにも広いソファで、何故そんな狭い所へと座らなければならないのか。
「他の所も空いてるじゃん。わざわざそこに座る必要はなくない?」
私は思ったことをそのまま口に、千晴の要求に首を振った。
しかしそこで素直に私の言葉を飲む千晴ではなかった。
「ここに座ることがメイドの仕事」
「はぁ?そんな仕事あるわけないでしょ?さすがに信じないわ」
淡々と変なことを言う千晴に、険しい顔になる。
いくら知らない世界でも、さすがにあんな雑な千晴の嘘には騙されない。
千晴は私の様子に、珍しく「わかった」と落ち込んだ様子で頷いた。
本当に珍しい千晴の姿に思わず拍子抜けする。
かなり説得しなければ、あるいは、そもそも説得は無理だと思っていたが、まさか私の話を聞き入れるとは。
珍しいこともあるものだ、と1人頷いていると、突然、視界がぐらりと揺れた。
確かについ先ほどまで千晴がいた私の視界には、もう千晴がいない。
代わりに背中にその存在を感じた。
千晴は私の一瞬の隙をついて、強引に自分の足の間に私を座らせたのだ。
「ちょ、ちょちょちょ、はぁ!?」
急な展開に、思わず叫んでしまう。
後ろにしっかりとした千晴の体を感じ、妙に胸が騒がしくなる。
ふわりと千晴の甘い匂いが鼻をかすめ、すぐ真後ろにいる千晴の存在を意識せずにはいられない。
心臓がバクバクと騒ぎ、苦しい。
相手はただの後輩なのに、こんな密着しただけで、こうなってしまうとは。
私は煩悩の塊なのか。
頬どころか、体全体が熱くなっている気がして、嫌になる。
「耳まで真っ赤じゃん。かーわい」
「なっ、だ、誰のせいだと…っ」
楽しそうに私をからかう千晴の声に、私は弱々しく不満をぶつけた。
本当はもっと強く物申したいのだが、どうもいつもの調子が出ない。
恥ずかしさで弱くなっている。
悔しくてぶるぶると震えていると、そんな私を千晴はぎゅう、と後ろから抱きしめた。
「…っ!」
突然のバックハグに驚きで目を見開く。
それから何と千晴は私の首元に顔を寄せた。
すんすんと、千晴が私の匂いを嗅ぐ、小さな息遣いが耳に入る。
後ろから抱きしめられて、首元の匂いまで嗅がれて、もう頭の中が真っ白だ。
「ち、ちは…」
もう勘弁してくれ、と訴えかけたところで、千晴は私を離した。
もちろん、抱きしめることをやめただけで、未だに真後ろにいるが。
千晴は私から離れると、ソファに置いてあった高級そうなふわっふわのクッションを私に渡してきた。
「それ、先輩が使って。いらなかったらその辺にでも置いてていいから」
「…はぁ」
千晴のまさかの気遣いに、間の抜けた返事をしてしまう。
意外すぎた思いやりに驚いたと同時に、自分の置かれている状況も理解した。
千晴は今、このクッションのように私を抱き枕にしているのだ。
…人間を抱き枕にするな。
今すぐにでも文句を言おうと思ったのだが、渡されたクッションがあまりにもふわふわでその思考はすぐにどこかへ行った。
布の触り心地、ふわふわの感触、全てが気持ちよく、私が普段触れているものとは、レベルが全然違うのだ。
「なんか観よ、先輩」
私を自身の足の中に閉じ込め、左手で私の腰に手を回すと、千晴はそう言って、リモコンを操作し始めた。
目の前のスクリーンに映像が映し出され、たくさんの映画やドラマ、アニメのタイトルが並んでいる。
「…それは仕事じゃないよね?」
「え?仕事だけど?」
私の疑問に、千晴は不思議そうにすぐに答える。
「柚子先輩は今日から明日まで俺のメイドでしょ?俺のメイドは俺と一緒に過ごすことが仕事だから」
至極当然のように言われた千晴の言葉に、私は首を捻った。
とんでもなくおかしな仕事だが、もしかしたらそういうものなのかもしれない、と。
「先輩はアクション映画が好きなんだっけ」
「…うん、そう。千晴はミステリーも好きって言ってなかった?」
「言った。覚えてくれてたの?」
「まぁ、そりゃね」
「嬉しい…」
「わ、こら!バカ!」
私をまた後ろからぎゅうと抱きしめた千晴に、今度は何とか抵抗する。
こんなやり取りを続けること、数分。
紆余曲折あったが、私たちは数ある中から、アクション映画を選び、見始めたのであった。
あの体勢のままで。




