28.望むこと。
「…お、恐れ多い、です。私なんかが沢村くんを下の名前で呼ぶなんて…」
あの沢村くんのことを気軽に下の名前で呼ぶなんて、例え沢村くんからのお願いであっても、どうしても私には無理な話だった。
沢村くんからのお願いに応えられず、罪悪感でいっぱいになる。
そんな私を沢村くんは少し困ったように見つめた。
「柚子は俺の彼女なんだし、恐れ多くなんてないよ?」
「…え、あ、そうだけど。で、でも…」
なかなか首を縦に振れない私を見て、沢村くんの表情がどんどん曇っていく。
私がそうさせてしまっているのは百も承知だ。
けれど、恐れ多くて本当に下の名前で呼べないのだ。
だが、推しである沢村くんにあんな表情をさせてもいいのか。
……良いわけがない。良いわけがないだろう。
呼ぶ、呼ぶぞ。
私は推しの名前を呼ぶぞ…!
何とか沢村くんの名前を呼ぼうと、口をパクパクさせる。
しかしなかなかその決意は声にならず、もどかしかったが、ついにその時はきた。
「ゆ、ゆう、ゆ、悠里くん…!」
「っ!」
やっと私から発せられた推しの神々しい名前。
私の言葉に沢村くん…いや、悠里くんは、その表情を一気に明るくさせた。
「…ありがとう、柚子」
嬉しそうに目を細め、私の名前を呼ぶ悠里くんに胸が暖かくなる。
大変だったが、呼べてよかった。
やはり、推しは笑っていなければならない。
推しの幸せが私の幸せなのだから。
「柚子、あと、もう一つお願いなんだけど…」
嬉しそうに笑っていた悠里くんが再び言いづらそうに口を開く。
今度は一体どんなお願いなのだろう、と先ほどとは違い、少し身構えていると、悠里くんから案外簡単なお願いが出てきた。
「…柚子のスマホのホーム画面、今、華守との写真だよね?それを華守との以外に変えて欲しいんだ」
そこまで言って、悠里くんは「勝手に覗いてごめん」と
本当に申し訳なさそうに謝罪した。
だが、私は勝手に覗かれたとは全く思っていなかった。
人のスマホのホーム画面など、一緒にいればどこかのタイミングで目に入る時もあるだろう。
そんなことよりも、悠里くんからのお願いが先ほどとは違い、とても簡単なもので私は安堵した。
これならいくらでも叶えられる。
「ホーム画面ね。あれ、勝手に千晴が変えてきて、変えても変えてもあれにするから面倒くさくてそのままにしてたんだよね」
そう言いながら私は服からスマホを取り出す。
そしてそのままの流れでスマホの画面を開き、さっさとホーム画面設定を触り出した。
「ホーム画面、さわ…ゆ、悠里くんの写真にしてもいい?」
たまたま目に入ったデートの時の悠里くんの写真を選び、悠里くんに見せる。
すると悠里くんはそれを見て、表情を綻ばせた。
「うん、ありがとう、柚子」
眩しすぎる悠里くんの笑顔に、危うく天に召されそうになったことは言うまでもない。
*****
まだ練習があるから、と悠里くんと別れた後、私は別行動をしていた雪乃と合流する為に、2階のギャラリーへと向かっていた。
そして体育館の廊下で、たまたま千晴と鉢合わせた。
「…先輩」
どこか不満そうにこちらを見る千晴に、何が言いたいのかだいたい想像がつく。
「なんで俺じゃなくてアイツの応援したの」
それから予想通りの不満を口にした千晴に、私は思わず苦笑した。
そう言うと思ったよ。
悠里くんじゃなくて、自分を見て、とか言ってたもんね。
私はあの試合中、ずっと千晴ではなく、悠里くんを応援していた。
しかしそれはどう考えても当然のことだった。
「私は元々悠里くんの応援にここに来たんだよ?だから悠里くんの応援しかしないよ。そもそも自分の高校の方を応援するでしょ?普通」
「…」
呆れながら説明しても、変わらず機嫌の悪そうな千晴に無言の圧をかけられ、さらに苦笑してしまう。
聞き分けの悪い子どもの相手をしている気分だ。
「…まぁ、アンタの応援は一ミリもしてなかったけど、アンタがめちゃくちゃバスケ上手いことには正直驚いたよ。経験者なのもよくわかった。絶対才能あるし、うちの高校で続けて、プロ目指した方がいいんじゃない?」
話題を変える為に千晴のことを、私は本気で真面目に褒める。
ただ話題を変える為にした話とはいえ、私は本当に千晴の実力に感服し、うちの高校でバスケを続ければ、プロへの道も切り開けると思った。
そんな思ったことをただ口にしていた私を千晴は先ほどとはまたどこか違う雰囲気で、まじまじと見つめてきた。
「かっこよかった?」
無表情ながらも、焦がれるような瞳で私の瞳の奥を覗く千晴。
まるで私を探るような千晴の視線に私は当然のように頷いた。
「うん。かっこよかったよ」
「本当?」
「本当」
変わらぬ表情で念を押すように聞いてきた千晴に、私は呆れたように笑顔で答える。
悠里くんのかっこよさには劣るが、それでも千晴にもたくさんかっこいいところがあった。
真面目にバスケに取り組む姿は、正直見たことのない姿できちんとかっこよかったし、女子たちが怖がりながらも黄色い声をあげてしまう理由もわかる気がした。
この男は綺麗で美人で、そして何よりバスケをしている時は、まるで1人だけ世界が違うように美しく、圧倒的なのだ。
私の答えに千晴は「…そっか」と噛み締めるように呟き、どこか嬉しそうに口元を緩めた。
それから今度は機嫌良く続けた。
「俺もう帰るから一緒に帰ろ、先輩」
先ほどの不満はどこへやら。
すぐに気持ちを切り替えた千晴に、私は思わず笑ってしまう。
「無理だよ。今日は雪乃と一緒だから」
「じゃあ、3人で帰ろ?」
「雪乃が了承したらね」
「やった」
呆れたように千晴を見る私に、千晴が嬉しそうに笑う。
そんな千晴に私は笑えば年相応で可愛らしいのだなと、思った。
「あ、あれが彼女だなんて!」
私たちを物陰から見ていた誰かの一言に、私は当然気づかなかった。




