100.アナタだけを見れたら。
夕食後、私はみんなが洗ってくれた食器を大きな食器棚に一枚ずつ返していた。
同じ食器のところに同じ食器を片付ける。
しかしただそれを淡々と繰り返していた私の手は、最後の一枚で止まってしまった。
…高い。
私が下から睨む場所。最後の一枚を片付ける場所だけ、私が手を伸ばしたさらに先にあったのだ。
誰が一体あんな場所から皿を取ったのか。
呆れながらも仕方なくつま先を立て、食器棚に体重を預けるように左手を置く。それから最後の一枚を片付けようと、右腕を思いっきり上へと伸ばした。
わずかに震える手の先には、確かにこの皿を片付ける場所があるのだが、届きそうで届かない。
さすがに頑張っても無理だと諦め、手を引こうとしたーーーその時。
私の背後からスッと影が伸び、その影の主が私の手から皿を取った。
そしていとも簡単にその皿を片付けた。
背中に感じるほんのりと熱を持ったしっかりとした体に、私よりもずっと高い身長。ほんのわずかに見えた大きな手に、ふわりと鼻をかすめる、爽やかな香り。
…悠里くんだ。
そう気づいた瞬間、私の体温は一気に跳ね上がった。
「ゆ、悠里くん?」
おずおずと影の主の名前を呼び、ゆっくりと振り返る。
するとそこには、予想通り悠里くんが立っていた。
至近距離で私と目の合った悠里くんが、その瞳を優しく細める。
「あ、ありがとう、悠里くん」
そんな悠里くんになんとか平静を装って、笑顔でお礼を口にすると、悠里くんは「いえいえ」といつも通り柔らかく私に微笑んだ。
すぐそこにいる推しという存在が、私の心臓を忙しなくさせる。
この距離の近さなら、おかしくなった鼓動の音が悠里くんにも聞こえてしまいそうだ。
そう思うと気が気ではない。
このままではいけない、と落ち着くためにも、一度視線を伏せ、ゆっくりと深呼吸をしていると、その声は聞こえてきた。
「困ったときはいつでも頼って?俺は柚子の彼氏なんだから」
聞こえてきた声に、私はまた視線を上げる。
優しい言葉に、柔らかい瞳。
いつもと同じはずなのに、その瞳の奥はやはりどこか仄暗い。
本当に時折、悠里くんはこんな目で私を見る。
どこか苦しそうなその目の原因を、私は薄々わかっていた。
悠里くんは、私が自分と同じ気持ちを抱いていないことを、知っている。
それでも、私と付き合い続けることを選んでくれた。
傷つきながらも私と一緒にいたい、と。
違う好きでも互いに想い合っていることに変わりない、と。
だが、きっと、それが悠里くんには辛いのだ。
よく私は考える。
もし、悠里くんと私が逆の立場だったら、と。
同じ想いを抱いてくれていない恋人の存在は、想像するだけで、胸が苦しくなる。
悠里くんはきっと私が思っている以上に、辛くて、苦しいはずだ。
けれど、私は悠里くんと同じ想いを悠里くんにはあげられない。
千晴を好きになってしまったから。
暗くなってしまった私の表情にいち早く気づき、「どうしたの?柚子?」と悠里くんが心配そうに私の顔を覗く。
言えない。言いたくない。
推しを傷つける言葉なんてもう吐きたくない。
本当は心から悠里くんに笑っていて欲しいの。
「…何でもないよ」
この胸の内を絶対に悟られないように、無理矢理にでも笑顔を作る。するとそんな私に悠里くんは「…そう」とどこか意味深に呟いた。
そして優しく私の額に唇を寄せた。
「俺はいつでも柚子の味方だよ」
まるで王子様のように柔らかく悠里くんが笑う。
その瞳には私を気遣うものがあり、胸が痛んだ。
それでも悠里くんによって高鳴る胸の鼓動は止まらない。
近すぎる距離に、額に残る熱。
息をすることさえも、難しい、熱く甘い空間。
そこに囚われた私は、甘さと罪悪感に苛まれ、その息苦しさに溺れた。
申し訳ないと思うのに、ときめかずにはいられない。
私はどうしたら息ができるの?
甘い甘いツタが私の首に絡まって、ゆっくり、ゆっくり、締めていく。
逃げなければ、生きられない。
けれど、私はそのツタからの逃げ方がわからなかった。




