今日も君が鞄を開く
「ごめーん待ったぁ?」
半袖の制服に変えてからまだ一か月足らずというのに、立っているだけで汗ばんでくる陽気の中で長い間待たせてしまっていたら申し訳ない。
「お、陽向。俺も丁度来たところ」
そう言って優しい笑顔を浮かべるのは、幼稚園の頃からの幼馴染である修君だ。
いつも優しい彼だが、こういう時に本当のことを言ってくれているのかどうか分からないのが少し心苦しい。
「ねえねえ、今週のパリキュラ見た?」
少し勾配のある道を歩きながら、隣を歩く彼に声を掛けた。
「もちろん、リアタイで見たぞ」
頭の上から即座に答えが返ってくる。
「いやぁ、次が気になるところで終わっちまったよなぁ。次どうなると思う?」
私よりも背の高い彼が、私に視線を合わせながら問い掛けてくる。
「うーん、私的には前回から出てないあの子が来ると思うんだよねぇ」
「でもまだ特訓で覚えたっていう新技も出してないから、それも気になるんだよなぁ」
「あ、確かに……」
パリキュラとは毎週日曜朝にやるアニメで、女児向けのものとして製作されてはいるものの、私は未だに見続けている。修君は私がパリキュラについて熱弁することによってハマらせた視聴者の一人で、同級生の中でパリキュラについて語り合える唯一の人物だ。
今後の展開について二人であーでもないこーでもないと話していると、いつの間にか学校までたどり着いていた。
A組の教室に入ると、一番窓際にある私の席へと二人で歩く。
「ん」
そう言いながら片手を突き出す修君に私は自分の鞄を渡す。
私から鞄を受け取った彼はそのまま無造作に鞄を開くと、中にある教科書をおもむろに机の中にしまっていく。
全ての教科書をしまい終えた後、最後にお弁当箱が入った小さな袋を机の横にあるフックに掛け、反対側のフックには鞄を掛けた。
「ありがと」
「また帰りにな」
労いと感謝の言葉を掛けると、彼はそれだけ言って教室から出ていった。
そう、実は彼はA組ではなくB組の生徒だ。しかし、|鞄を開けることのできない《・・・・・・・・・・・・》私に代わって、鞄を開けるために彼は毎朝ここに来てくれる。
廊下に出ていく彼の背中を見送っていると、前の席に座る女子生徒が私の机の上に身を乗り出しながら話しかけてくる。
「いやー今日もアッツいねぇ」
「あ、透子ちゃん。昨日に引き続き今年の最高気温更新だって。今日、体育なくてよかったぁ」
ニュースに依れば今週一番暑い日だったはずだ。
「いやそういう意味じゃ……もういいわ。はぁ、あんたってホント……」
私が言ったことに何か間違いがあったのだろうか。
私の机に突っ伏してしまった彼女は一年生の時から三年生の今に至るまで同じクラスで授業を受けていたクラスメイトだ。
「あんたもあんただけど、あいつもあいつであんたにずっと付き合ってるってんだから相当変わり者よねぇ」
「っ!!」
透子ちゃんが腕にうずもらせていた顔を半分上げて、視線を廊下の奥に送る。
「付き合ってる」という言葉に反応しかけたが、思っていた意味ではないことに気付いて、勘違いしてしまったことに余計恥ずかしくなってしまった。
しかし幸いなことに、うつ伏せで視界が限られている透子ちゃんには赤くなった顔を映らなかったようだ。
「で、でもそれを言うなら透子ちゃんだってそうでしょ?」
誤魔化すために言い返した言葉は、なんだか自虐のようになってしまった。
「あはは、確かにそれもそっか。私じゃなきゃあんたみたいな子の相手なんてできないしね」
「あっ、今私のこと馬鹿にしたでしょ!!」
「エー、ゼンゼンソンナコトナイヨー」
「だったらその棒読みはなんなの!」
「べっつにー、なーんでも」
口を尖らせる私を見てひとしきり笑った彼女は、「トイレ」とだけ言って教室から出て行ってしまった。
(もう、みんな私のこと馬鹿にして……)
透子ちゃんや周囲にからかわれることは今に始まったことではない。
(でもまあ確かにそうだよね。変だよね)
幼馴染の修君は成績優秀で部活には入ってないものの、運動神経は抜群だ。
それに対して私は、成績は中の上で運動は苦手だし、手先が器用なわけでもない。
(そして何よりも……)
──私は鞄を開けない。
あまり考えないようにしてはいるが、周りからは注目されるし、おかしなことだろう。……私と修君の関係みたいに。
ネガティブな方向に流れていこうとする思考を堰き止めたのは朝礼まであと五分なことを告げる予鈴だった。
「そうだ、プリント」
朝のうちに済ませておこうと思っていたプリントがあったことを思い出す。
朝礼の時に提出のプリントで、まだ終わらせていなかったことをすっかり忘れていた。
「あれ……?」
しかし、プリントが入っているはずのいつも使っているファイルの中をみてもプリントが見つからない。
「あっ」
土日の間にどうしていたのか記憶の中を探っていると、いつものファイルではなく趣味で書いているラクガキ同然のイラストやオタクグッズが挟まれている方のファイルにしまっていたことを思い出す。
(そうだ、土曜日の夜に明日のパリキュラのことでファイルを使って、プリントと一緒に机の上に出しっぱなしにしてたから……)
場所が分かったことは良い。しかし、ここで新たな問題が発生した。
(ファイル、鞄の中だ)
普段使いのファイルと違って、日中使うことが無いそのファイルは鞄の中でも教科書を入れているところとは別の場所にしまっていた。学校の中や帰り道で使うときはその都度修君や透子ちゃんに出してもらっていたので、さっき修君に机の中に移してもらったものの中には含まれていない。
透子ちゃんがトイレに行ってしまったが、それなら他の生徒に頼めばいい話だと思われるだろう。でも、それができない理由が私にはあった。
(うぅ、あれを人に見られるのは恥ずかしい)
ファイルはパリキュラとコンビニがコラボしたときの物で、パリキュラに出てくるキャラがでかでかとプリントしてある。
透子ちゃんにはもう打ち明けた、というかバレているが、まだパリキュラを見ているということを他の何も知らない同級生に知られるのは正直恥ずかしい。
それにそのファイルは裏面が透明なのだが、逆にそっち側を見られる方がもっとまずい。
なぜなら先ほど言った通りそのファイルには私のラクガキが描かれた紙が入っているのだ。それが万一にも裏側の一番上にあったりした場合、あと一年近くある最後の高校生活を周りからのいたたまれない視線の中で過ごさなければいけない。
(どうしようかな……)
A組の教室は廊下の端にあるのだが、トイレがあるのはこちらとは反対の端だ。透子ちゃんを待とうとしても、しばらくは戻ってこないだろう。予鈴が鳴った今、時間に余裕があるとは言えない。
かといってわざわざ隣の教室まで行って鞄を開けてもらうのも周りの注目を集めて恥ずかしいだろう。私の事情については学年全体で周知の事実ではある。しかし、恥ずかしいものは恥ずかしい。こればっかりはどうしようもない。
迷いに迷った末、私は鞄を持って廊下に出た。
B組の扉の前で心の準備を整えていると、姿は見えないが修君とB組の生徒との会話が聞こえてきた。
「よっ、今日も姫の付き添い終わり?」
「おはよー。おう、さっきな」
「姫」というのは私の通称のようなもので、修君の方には「従者」というあだ名がついていたりする。確かに不釣り合いな私たち──もちろん私が下という意味──は恋人というよりかは何もできない姫とその従者のようなものかもしれない。
「毎日毎日ご苦労様です」
「よせよ」
茶化すような声音で言う同級生に修君は笑い交じりで答える。
「でもよ、正直どうなんだ?」
「……何が?」
「メンドくさくないか? いちいち付き合うのも」
その言葉に、胸を締め付けられるような感覚がした。
「そんなことない。ずっと前からやってるしな」
「それはただ単に慣れてるってだけだろ? お前が部活に入ってないのも陽向ちゃんのためだしさ」
修君の言葉に一旦は安堵しかけたが、続く同級生の言葉に再び息が止まる。
「……まぁ確かに、あいつが鞄を自分で開けられるようになったらな、とは思うよ」
それ以上は聞きたくなかった。
鞄を持っていない左手で胸を抑えながら、俯きながら早歩きで自分の席へと戻った。
(頼ったら、駄目だ)
いつまでもこのままではいられない。
それもずっと前から分かっていたことだった。
ファイルが入っている鞄のポケットのチャックをゆっくりと開ける。
(と、とりあえず良し)
鞄の中に手を入れられず、チャックが開いたまま鞄を机の上でひっくり返した。
「きゃあっ!!」
鞄をひっくり返した途端、中から大量の虫が中から溢れ出してくる。
悲鳴とともに倒れてしまった私に、教室中の視線が集まる。
「アハハ、ちょっと足引っ掛けちゃった」
上がる息の中、急いで立ち上がってそう言うと、向けられていた視線は再びそれぞれの対象物へと戻っていった。
私も自分の席に向き直ると、鞄の中から溢れ出していた虫の姿はどこにも無く、近くに落ちていた鞄を恐る恐る拾い上げても、再び虫の姿が見えることは無かった。
息を落ち着かせるためにも席に座ったが、落ち着かない頭の中は過去の記憶を無意識に、そして強制的に掘り返していた。
「ねぇねぇ、陽向ちゃん!」
そう声を掛けてきたのは、クラスの人気者だった子だ。今では顔も名前も思い出せない。
「う、うん。なに? ××ちゃん」
しかし、小学生だった当時の私は地味で、休み時間はいつも教室の隅で本を読んでいるような子だった。今でも似たような感じかもしれないが、当時は輪に掛けて人と接していなかった。
「陽向ちゃんって算数得意だったよね? 次の授業の宿題見せてくれない?」
そんな私にクラスの人気者が頼ってきてくれたことが、素直に嬉しかった。
「えっと、昨日出されたやつで良いんだよね?」
「そうそう!」
初めてそんなことを言われたことに戸惑う気持ちはあった。しかし、確かその前の授業が体育で、着替えのせいで休み時間が短いから頼ってきたのだろう、と当時は考えていた気がする。
「……あれ、どこだっけ」
宿題を書いたノートが見つからず、ランドセルの中にしまったままかもしれないと思って、教室の後ろのロッカーに置いてあるランドセルの中に手を入れた時だった。
「いやぁぁぁぁ!!!!」
中には大量の蟲がいた。
カナブンのような甲虫から、何かの幼虫まで、名前も知らない虫がランドセルの中で蠢く。
手にはバッタが張り付き、ノートを取ろうと手を突っ込んだ時に潰れた何かの虫の体液が付いていた。
何が起きたのか分からないまま、錯乱状態の私は教室の床に座り込んでいた。
「うわ、ヒナタのランドセルきったねぇ!!」
近くにいた男子生徒が、虫が這い出てくるランドセルを無理やり閉じる。
聞きたくない音が私のランドセルの中から聞こえた。
それを最後に、その日の記憶は私にはない。
翌日。私は学校を休まされた。「された」とはいっても、私自身にも学校に行く気はなかっただろう。そしてそれが学校側の提案なのかそれとも私の親の判断なのかも分からない。もしかしたら、両方かもしれない。
虫が取り除かれて綺麗に洗われた赤いランドセルは、私が見たくないと言って親の部屋の物置にしまい込まれた。
学習机に置いたお気に入りのノートには、しっかり拭っても残り続ける虫の体液のシミがこびりついていた。
意図的な嫌がらせ。
明らかな悪意。
学校側がそれに対してどう対応するのか。
きっと私の親は最後まで抗議し続けてくれただろう。しかし、学校側の対応は私はもちろん、両親が納得いくものでは決してなかった。
数日経ち、私が学校に再び登校したときに全校集会を開かれた。そこで校長と生活指導の先生が事件の内容をぼかして話して、注意喚起をするだけに終わった。
私をここまで、否これからも苦しませ続けるであろう出来事が、そんなことであっさり終幕してしまった。
その時校長が言ったとある言葉を、私は今でも鮮明に思い出せる。
『……先日、学校内で嫌がらせがありました。』
いじめではなく、嫌がらせ。確かに誰がやったのかははっきりとは分からず、それがずっと続いているというわけではない。しかし、その単語が使われてしまったのを聞いた瞬間、今まで自分の中にあった教師という大人の像が崩れ去ってしまった。
あの日から、私は鞄を使わなくなった。使えなくなった。
今では鞄以外は平然としているが、当時は机の中や本を開こうとした隙間にすら恐怖を覚えていた。もともと本や漫画が好きだった私が今ではアニメ派なのもそういったことが原因だ。
結局私は不登校になり、中学に入るまで家族とカウンセリングの先生以外誰とも喋らなかった。
中学で初めてのクラスに修君がいたのは幸運だった。もし彼と再会できていなかったら、精神的にまだ不安定だった私が中学に通うこともできなかったかもしれない。
「どったの?」
イスに座りながら小さくなっていた私にトイレから戻ってきた透子ちゃんが心配そうに声を掛ける。
「な、なんでもないよ」
我ながら弱々しい声だったが、透子ちゃんは気にした様子も無く私の机の上に置いてある鞄を手に取る。
「あのファイルっていつものとこ?」
「えっ。あ、うん」
「ほい」
何も言っていないというのに、透子ちゃんすべてわかっているかのように鞄から取り出したファイルを素早く私の机の中に入れる。
「ま、気軽に頼ってよね」
感謝の言葉を言う間もなく、透子ちゃんは自分の席に座って背中を向けてしまう。
──つくづく、私は恵まれていると思う。
修君に、透子ちゃんに、親に。みんなに助けられる度に自分が情けなくなっていく。
(私はみんなに何をしてあげられるんだろう)
しばらく自身の不甲斐なさに打ちのめされていた私は、プリントを終わらせるができないまま本鈴を迎え、先生から軽いお説教をもらってしまった。
一日中考え込んでも答えを出せないまま、下校の時間になった。
部活をやっていない人はそのまま帰路へ、部活がある人はそれぞれの活動場所へと教室中の生徒が一斉に動き出す。
教室から出ていく生徒の背中が大半の中、廊下から顔を覗かせる生徒がいた。
「どうも~」
「あ、鈴野さん。どうもです」
一直線にこちらへと歩いてきた修君に、真っ先に透子ちゃんが反応した。
「そういや陽向。今日、朝から先生に怒られたらしいな。聞いたぞ?」
いつものように話しかけてくれる修君に安心すると同時に、複雑な感情が心の中で渦巻く。
「ちょっとー、やめてよ」
私は心の中を見られないように努めて平然を装う。
「中、しまってくからな」
うん、と頷くと彼は慣れた手つきで鞄の中に教科書を移していく。
「……あ、これ。すみません鏑木さん」
机の中にしまっていた趣味用のファイルを見つけると、彼はまだ席に座っていた透子ちゃんに感謝を伝えた。
「いやいや、謝る必要無いって。わざわざ鈴野くんが隣から来るのはメンドくさいでしょ。この子的にもさ」
「う、うん。ありがとうね、透子ちゃん。それに修君も」
そうだ。普段から私が謝ることばかりで、この二人が謝るようなことなんて何もない。私だけが一方的に迷惑を掛けているだけだ。
「鏑木さんは今日部活はないんですか?」
「そそ。だから今日は家でゆっくり漫画でも読もうかなって。新刊出ても最近忙しくってさー」
「あー、ソフト部は大会出場に向けて最近頑張ってるらしいですね」
会話が盛り上がっている二人を眺めていると、お似合いのカップルのようにも見えてくる。
修君は言わずもなが。身長もそこそこあって、私の存在のせいで二年間の高校生活で告白されたことこそ無いものの、女子たちの中で人気が高いということは私が一番わかっている。
透子ちゃんも今日の朝のように気が利くし、運動神経抜群でソフトボール部のピッチャーを務め、ルックスもスタイルも抜群だ。私みたいなちんちくりんとは比べ物にならない。
二人の関係性の中には私がいた。しかしこうして二人で話しているところを見ると、私が邪魔な存在なんじゃないかという疎外感を感じる。
「じゃ、私は漫画の待つ我が家にさっさと帰るわ。じゃね」
話を切り上げた透子ちゃんが立ち上がる。
「また明日」
「ばいばい透子ちゃん」
修君に遅れて私も透子ちゃんに別れの挨拶をする。
透子ちゃんは鞄を肩に掛けるとこちらに手を軽く振りながら足早に教室から出ていった。
「うし、俺たちも帰るか、陽向」
会話を終えた修君がこちらに向き直る。
「うん……」
覇気の無い返事を返して、私もイスから立ち上がると彼から鞄を受け取る。
いつものように昇降口まで二人で歩くと、下駄箱の前で一旦分かれてから靴を履いて再び合流する。そこから校門を出るまで、私は一言も発さなかった。
特に話すようなことが無ければ普段から一言も話さずにしばらくあることだってある。
しかし、その時には今のような気まずさはなかった。
校門から出た後もグラウンドで活動している早めに準備を終えた運動部の掛け声が聞こえてくる。
(小学校の時は修君もサッカー部に入ってたっけ)
朝の会話を思い出して心が苦しくなる。
(中学の時も部活入りたかったのかな……)
どんな顔をしているのか、普段だったら理由が無くても見つめることができた彼の顔を見ることができない。
修君は私に付き合うことで、中学生の時から朝も帰りも行動が縛られてしまっている。友達と遊ぶ約束だって、私のせいでしずらいだろう。
(……気まずい)
そう感じているのはもしかしたら私だけで、隣を歩く彼は何も感じていないかもしれない。
しばらく歩いて大通りの交差点に出た時に、彼は初めて口を開いた。
「わり、今日予定あるから駅に行くわ」
「あっ、うん。わかった」
いろいろ飛躍した思考を巡らせていた私は、彼の言葉に過剰な反応をしてしまった。
慌てて顔を何度も縦に振る私をみて、彼は笑い声を漏らしながら帰り道とは違う方向へと曲がっていく。
今までも帰り道の途中で駅に行くために別れることは度々あった。それは立場が逆の時にもある。
だが今日一日を通して傷ついていた私には突き放されたように思えて、独りでに涙が滲んでくる。
(駄目だな、私)
こぼれそうになる涙を袖で拭いながら、一人の道を早足で帰った。
翌日、私はいつもより早めに家を出た。昨日の夜はいろいろ考えてしまって、あまり寝られなかったことが原因だ。
もう一つ、理由がある。
それについて考えているうちに、修君との待ち合わせ場所に着いてしまった。修君が来るまでに心の準備をしようかと思っていたが、昨日よりも10分以上早い時間だったというのにそこには既に修君の姿があった。
(やっぱり……)
今までの修君の優しさが痛みを伴って心に沁みる。
「おはよう、陽向。早いね」
こちらが姿を認識した数秒後に、彼も私に気付いた。
「うん、今日はなんだか早起きしちゃって」
「おっ、奇遇。俺も昨日疲れてたせいで早く寝ちゃってさ」
「そうなんだ」
昨日別れたあとに何をしていたのかを聞く勇気は私にはなかった。
「あれ、それどうしたの?」
修君が私の肩に掛かっている鞄に目を向けた。
「あ、これ。カウンセリングの先生に提案されたんだ」
私はそう言いながら彼に見やすいように体をひねって鞄が掛かった方の肩を向ける。
今日持ってきた鞄は学校指定の鞄ではなく、エナメルでできた透明なものだ。
「これなら、私でも使えるから」
私が鞄を開けられない理由。それは中に何があるのか分からない。中に虫がいるかもしれないという恐怖からだ。
それ故にこのような鞄なら抵抗こそあるものの使うことができる。
「本当に大丈夫か?」
「うん。実は三年生になった時から病院のほうでは試してて、そこではもう問題なかったの。でも、先生が言うには学校で使うのはまた違うだろうけどって」
修君は相槌を打ちながら真剣に聞いてくれている。
「それでしばらく家でも試して、今週の日曜日にカウンセリングに行ったときにできるなら今週から学校で試してみようかって先生から言われて……。学校にも許可はもう取ってあるの」
昨日から使えたはずなのにそうしなかったのは、ただ単に私が怖かったからだ。しかしそれは修君に甘えていただけだった。
でも今は彼に私が一人でもやっていけるということを証明したかった。私は、彼がいなくても大丈夫だということを伝えなければならない。
今も、これからも。
彼の人生を縛り続ける鎖にはなりたくない。
「これで問題なかったら今度は色付きのやつで試して、だんだん色を濃くしていって最終的には普通の鞄を使えるようになったら、って。だから時間はかかるけど私も鞄を使えるようになって来たんだよ」
一息に言った私は、ここで彼の顔を見上げた。
その顔は複雑な顔をして何か考えこんでいたが、喜んでいることが分かった。
彼の顔を直視することができなくなって、私は再び顔を下に向けた。
「だ、だからね。修君がいなくても私は大丈夫だから、私に……」
私に付き合う必要は無いんだよ、そう言おうと思った私の言葉は、修君が手を打ち鳴らした音で遮られた。
「そうだ、鞄の中を見えにくくするって事ならこれでもいいんじゃないか」
彼はそう言って自身の鞄の中から小さなビニールで包まれた何かを取り出した。
「ほら」
そう言って取り出したものを私の鞄に押し当てる彼に私は一瞬固まってしまったが、すぐさま自分の鞄に目をやる。
そこには透明なビニールの袋に入れられたパリキュラの缶バッジが押し当てられていた。
「これって、確か昨日から始まった地域限定の……」
「そっ。実は昨日これを買いに行ったんだ」
彼は軽く言っているが、確かこれが買える地域はここからはかなり遠いはずだ。時間だけでなく交通費も馬鹿にならない。
「これ、いいだろ? 色付けるだけなんて地味だしさ。それにお前もこういうの好きだろ?」
私が今までそういったことをしなかったのは、鞄が嫌悪感の対象であるとともに、虫が入っているかもしれない鞄に私の好きなものを付けるということが精神的にできなかったからだ。
だが、憧れるものには憧れてしまう。
鞄に缶バッジやぬいぐるみを付けているのを羨ましそうに見てることはあったが、彼がそれに気付いているとは思っていなかった。
「修君の分は?」
「ほら、これ」
彼はそういって自分の鞄の裏側を見せた。
そこには私の鞄に押し当てられたものと同じものが付けられていた。
外から見える場所に付けないのは恥ずかしいというのもあるだろうが、自分の鞄を飾り付けられない私に対しての配慮というのもあるだろう。
私が迷惑を掛けたくないばかりに遠ざけようと思っても、彼はずっと私のためを思ってくれていた。
思わず、涙がこぼれてくる。
「えっ、ちょっ、ごめん。確かに鞄に着けるのはあれだよな。俺が考えれてなかったわ,これは普通にあげるからさ、部屋の中にでも……」
私が泣いているのを見て焦った修君が早口で言葉を並べる。
「ううん、違うの。嬉しくって」
挙動不審になっている彼にそう言葉をかけると、ひとまず落ち着いたようだった。
「……そんなにこれが欲しかったのか?」
伺うようにこちらを見る彼。
「うん。とっても」
──君の優しさが一番。
泣き笑いの私を見て、彼はようやく肩の力を抜いた。
「それならさ、俺、またこういうの買ってくるよ」
今度は恥ずかしくなったのか彼の方から目を逸らした。
「それでさ、いつかその鞄が全部埋まったら、今度こそ普通の鞄が使えるだろ?」
彼が言ったことを想像してみた。
全体が缶バッジに覆われ、中が見れなくなってしまった鞄。
私はその鞄を開くことができるだろうか。
「良いね、それ」
そんな鞄を学校に持ってくる自分の姿を想像して面白くなってしまった私が笑いながらそう言うと、同じことを考えたのか釣られて彼も笑う。
「俺、お前が鞄が使えるようになったらやりたかったことがあったんだ」
二人でひとしきり笑った後、修君がそう言った。
「二人で同じ鞄持ってさ、おそろいの鞄で一緒にパリキュラの映画見て、それぞれグッズ買ってさ。それでお互い鞄の中から相手のために買ったグッズを渡してさ」
話している修君の顔がどんどん赤くなっていく。
「デート……?」
思わず口から出てしまった私の声を聞いて彼の顔が一層赤くなる。
「バッ、おま、そういうのじゃ……あるんだけど」
否定しようとしてやっぱりやめた彼を見て、笑いが込み上げてくる。
「わ、笑うなよぉ」
普段の姿では想像できないような弱々しい声を上げる彼に愛おしさが溢れてくる。
「うん分かった。行こう、デート」
「良いのか?」
「もちろん! そしたら私もさっさと克服しないとね!」
そう言いながら学校へ続く坂道を走り出した私を、彼が慌てて追いかけてくる。
「おい、こんな暑い中走っていくのか」
「うん、だって待ち切れないんだもん」
「そんなにその鞄使いたいのか」
「いやぁ? なーんでもっ」
曖昧に誤魔化すと、彼が速度を上げて私の隣に並ぶ。
「はは、俺に運動で勝てるとでも?」
自慢げに言いながら私の鞄を代わりに持とうとする彼。
そんな彼との未来を想像して、私は前へ進む足に力を入れた。