あの日を忘れた事はない。
母親は、厳しかった。自分を一流のピアニストにするという夢があった。そもそもその夢は、母親の夢で、自分の夢ではなかった。が、いつしか、母親の夢イコール自分の夢になっていた。学業より、時間を詰めてレッスンに通うのが、辛くて挫折しそうだった。
「大丈夫?」
同じ教室に天才と言われる男子が居た。自分より、年上で、見るからに繊細な少年だった。母親に追い詰められた時に、一人、教室の陰で聞く彼の演奏が好きだった。何度も、声をかけたかったが、思うように、自分から、声を掛ける事はできなかった。だから、教室の隅にいるときに、声をかけられた時は、心臓が飛ぶ出るほど、嬉しかった、気にかけてもらえる。心陽の心に灯りが灯った。
「いつも、端っこで、聞いているんだね」
取り巻きがたくさんいるのに、自分にわざわざ、声を掛けてくれた。天にも昇気持ちであった。
「君が、心陽さん?」
「え?どうして?」
「上手な女の子がいるって聞いていて・・・今度、聞かせてくれる?」
たくさんいる取り巻きの中から、自分にだけ、声を掛けてくれた。元々、心陽は、人並み以上の腕を持っていたが、その頃の心陽は、まだ、幼く、地味であった。腕がいいとの噂もあるが、注目される事など、なかったのである。その少年が声を掛けた事によって、周りの心陽を見る目が変わった。
「今度、教えてくれない?」
突然、女性の友達が増えていった。全て、あの少年、架のお陰だった。綾葉が、架の恋人として出逢う、ずっと前に、心陽は、架と教室で逢っていた。その後、心陽は、父親の仕事の都合で、その血を離れる事になったが、遠い日の眩しい思い出として、心の奥底に残っていた。
「誰よりも、彼の苦しみを知っているのは、自分」
心陽は、そう思っていた。莉子よりも、綾葉よりも、自分が全て知っている。
「莉子が、意識を取り戻したのに、まだ、気付いてくれないの?」
心陽は、甘い声で、架に話しかけた。
「こんなに、そばで、尽くしているのに・・・酷いわ」
「そんな事ないよ。今は、僕がいても、力になれないから」
電話の向こうで、架が言う。自分の事が夫とは、理解出来ていないと言う。
「それは、辛いわね」
「いや・・・僕より、夫と思われているあいつの方が辛いだろう?現実は、そうではないから」
「あいつって?あのリハビリ師の事?」
莉子は、記憶が混乱して、新と架を間違えているらしい。それによって、架が莉子の元から離れている葉、嬉しい。
「あぁ・・・あの子ね」
フラメンコのライブの時に、冷たくされた男性の事だ。莉子のリハビリ師のようだが、それ以上に、守るようにそばに付いている。
「いっそのこと、莉子をその男の子に渡して仕舞えばいいじゃない?」
「何言うんだ。別れないさ。って言うか、一緒にいる必要はないが、莉子の親との関係は、続けて行きたいんでね」
「会社の為ね・・・架が、そこまで、仕事漬けだとは、思わなかったわ」
「他に何があるの?」
ピアノって、言いたかったが、心陽は、雰囲気を指して、言うのを辞めた。
「そうね・・・仕事よね。」
一息ついて、心陽は、言った。
「近くまで、北から、食事しない?どうせ、一人でしょう?」
そう言って、携帯を切った。