靴は、幸せの場所へと連れて行ってくれる。
ねぇ、これほど、僕を失意のどん底に突き落とす事は、なかったと思う。莉子が、晴れやかなステージに参加する事で、僕の気持ちは、奮い立ち、リハビリでやっていこうと思っていた。今まで、何人もの人が良くなり退院していった。または、低下する事なく、転院していった。けど、どうして、ここまで、気持ちも回復し、これからと言う時に、莉子の気持ちをどん底に突き落としたのは、いったい何、なのか?
「莉子がいないの」
その日、スッタフがマンションに迎えに行くと、莉子の姿は、なかった。携帯にかけても出ない。駐車場に、夫の車はなく、かといって、一緒に出かけた気配はなかった。夫は、会社に出勤しているのを管理人は、見ているし、莉子が外出した姿を見てはいないと言っている。莉子は、部屋にいる筈なのだ・・・。だが、彼女が、携帯に出る事もなく、夫も、藤井先生からの着信を無視しているようだった。
「こんな事なかった。何かあったとしか、考えられない。今まで、一度、だって、ステージを抜けた事は無かった」
藤井先生も、本番が迫っているので、莉子の穴埋めをすべく、ステージに立ち、パルマの代役を務めたと言う。莉子を探しに行きたい。だけど、状況的に、僕は、身動きが取れなかった。
「新?携帯が鳴っている・・」
探るように七海が言う。何か、莉子にあった事は、勘づいている。だけど、それに、僕が心奪われると、七海は、動揺するのだろう。早く、この時間が過ぎるように、僕は、祈る。あの時みたいな事は、起こらないよね。今すぐでも、駆けつけたいけど、君の夫が、普通に出勤したと言う事は、命に危険が迫ったとか、そういう事ではないよね。莉子は、今日のステージを楽しみにしていた。事故以来、久しぶりのステージの為に、新しいフラメンコシューズを購入していた。足首を飾る大きなリボンのシューズ。
「普通は、本番で、新しい靴は履かないけどね」
スタッフの一人が言う。
「何で?」
僕は、晴れの舞台だから、気合が入って、新しい靴で、望むのでは?と思っていた。
「持たないわよ。サパテアードに足がついていかなくなる」
要は、履き慣れていない靴は硬くて、フラメンコの床を打ち鳴らす動きに、足がついていかなくなると言う訳だ。
「私は、まだ、踊れないから」
莉子は、誰も、言えなかった事を自分で、言った。
「飾りよ。打ち鳴らせないなら、何でもいいと思ったんだけど、やっぱり、一つの区切りだと思って」
莉子は、目を輝かせて笑った。
「いい靴は、幸せの場所に連れて行ってくれると言うから、奮発したの。やっぱり、この靴を履いて踊りたい」
「そうよ。踊れるわよ」
藤井先生が温かい眼差しを向けていた。それなのに、マンションから出てこないなんて?
「新!ってば」
レストランについても、上の空になる僕に、七海が痺れを切らした。
「七海は、あの時にいた、君をスタジオに連れてきた女性をどう思う?」
僕は、あの莉子の友人という女性を信じてはいない。
「心陽さん?どうしたの?怖い顔」
「悪意しか感じられない」
「そんな事ないと思うけど」
「七海・・・」
僕は、レストランの前で、立ち止まる。
「君を傷つけるつもりはないんだ。だけど、どうしても、確かめに行きたい。もし、行かなければ、何かあったら、僕は、自分を許せなくなる」
「今日は、私と一紙にいてほしいの」
「七海。お願いだ。僕を嫌な奴にしないで」
僕は、七海の手を取莉、哀願した。やはり、何としても、戻らなくてはならない。莉子が、どこかで、傷つき泣いている。
「新・・・どうしても、行くの?」
「ごめん・・・」
僕が、迎えに行こう。莉子にあの靴を履いてもらうんだ。きっと、あの靴は、莉子を幸せに導いてくれるから。僕は、七海を後に走り出した。
「新!待って!」
走り出した僕は、後ろから七海の声と大きな衝突音を聞いた。それは、車のブレーキ音と辺りの叫び声だった。