手合わせた鏡の向こうに。
僕は、衝動的に行動できる人間なんだと思った。考えてもみて。病院から莉子を連れ出し、病院を背に立つ裏山に車を走らせていた。外出訓練なんて、言い訳。莉子は、他人の奥様で、リハビリも途中で、夫に連れ戻される。それは、夫の嫉妬なのか、所有欲なのか、わからない。僕は、莉子に希望を与えたかった。本当なら、この足は、動くし、動かせる。僕は、思っている。誰にも縛られない世界に、莉子を戻してあげたい。夫しかいない世界から、飛び立たせてあげたい。そもそも、莉子の大怪我の原因は、何だったのか?本当に転落だったのか?黒壁の話によると、その前後の記憶を莉子は失っていた。また、同じ事が起きるかもしれない。彼女を、夫のいる場所に、戻していいものか。僕は、少し、感情的になっていた。このまま、この車を運転して、実家に戻ろうか?父親や母親なら、力になってくれるだろうか?だが、なんて、言い訳する?ここにきて、親の力を頼るなんて。
「うわー」
裏山の頂上に着く頃、莉子は、邯鄲の声を上げていた。曲がりくねったカーブを幾つも、超えて、上り詰めた山道。木々の間から、遠く下に見えるのは、病院。その先には、少しばかりの街の灯りが見えた。
「こんな所があったのね!」
僕は、カーブの先にあった駐車場に、前向きに車を停めた。
「病院は、どれかわかる?」
「わかる。この真下ね。中腹あたり。」
「そうそう。その先、ずっと下に広がるのが」
「S市ね。」
「そう。震災の前はさ、もっと、灯りがあったらしいよ」
「そうだったんだ」
「でも、ここまで、君のお父さんが復興したんだよ」
「そう・・・ここまでの、景色を見た事がなかった」
莉子は、感慨深そうだった。
「昼間の事で、お父さんを恨んだりしてはいけないよ。いろんな感情を持つ人がいるけど、ここまで、壊れた街を、戻してきたんだ」
「それを、見せたかったの?」
「そればかりではないよ。莉子」
僕は、呼び捨てにしてしまった事を少しばかり、恥ずかしいと思った。
「もう、ダメだって、誰もが思った。だけど、ここまで、戻ってきた。莉子。僕は、君の足が、戻ると思っている」
「私の足?」
「本当は、動くんじゃないか?って」
「どうして、そう思えるの?」
「上半紙の動きに、下半身が答えようとしているから。多分、それは、君の体が、フラメンコの動きを思ているからなんだ。以前と全く、同じではないけど、ステージに立てる事はできる。僕は、そうしたいと思ってる」
莉子は答えなかった。
「このまま、帰すなんてできない」
「新先生・・・」
どこか、遠くで、花火が上がるのが見えた。いつも、見上げている花火を見下ろすなんて、不思議な景色だった。
「あの遠くの、地平線が黒いのは、水平線て事?」
莉子が、街並みの先に見える漆黒の地を指して言った。
「そうだよ。地面に見えるけど、海なんだ」
莉子が、僕の言葉に答えず、話を逸らしたので、僕は、気づかないふりをして、莉子に合わせた。
「地面だと思って、走って行ったら、落ちてしまうわね」
莉子は、何を言おうとしたのか、寂しく笑った。
「新先生。帰ろうか?」
「・・・・」
振り向くと、莉子の目が笑っていた。
「十分よ。新先生。私には、十分。歩けなくても大丈夫」
僕は、思わず、莉子に触れたくなっていた。手を差し出したい。だけど、僕は、じっと、堪えた。莉子は、何を恐れているんだい?昼間の明るい顔の影に、何が眠っているんだい?
「私は、私の居場所に帰る。新先生も、他に必要としている人がたくさんいる。その人達に、私の時間を与えて」
僕は、その時、何を思ったのだろう。思わず、僕は、莉子の髪に触れていた。
「あ!」
短く莉子が、声を上げた。その唇を僕は、塞いでしまった。
「ごめん・・・」
僕は、慌てて、元の位置に戻ると、車のエンジンをかけた。
「ごめん」
再度、僕が謝る。しばらく、莉子は、外の景色を眺めていた。
「子供よね・・・謝るなんて」
少し、怒った口調で、莉子が呟いた。