車椅子で、抜け出す夜に。
莉子は、僕を見上げながら、なかなか次の言葉を出せずにいた。今回の事件が広がれば、莉子だって、何か言われるに決まっている。そこそこ、名の知れた家族だし、夫がいる。
「新しい方法を考えたんだ」
なかなか言葉の出せない莉子に、僕は、話題を変えた。
「実は、フラメンコの事、少し、勉強したんだ」
「勉強?わざわざ、グーグル先生がいるのに」
莉子は、少し、僕を茶化して笑う。
「ブラソ(腕)の動きを知っているのに、何を勉強したの?」
「ふふん」
僕は、鼻を鳴らした。
「生で、見た事はないんだけど、踊り手の他に、ギタリスト、歌い手、パルマ、カホンといるんだってね。音楽に合わせると言うより、踊り手に音を合わせるんだって」
「そうね」
「わざわざ、拍手?みたいな事するんだ」
僕は、パルマの難しさを知らないから、拍手というと莉子が吹き出した。
「拍手?知らないとそう見えるかもね。難しいのよ。表と裏があって、足のリズムも、パルマに合わせて、表に入ったり、裏に入ったり・・・」
「床を打ちつけている様にしか見えないな。膝に悪そう」
「否定はしないわ。内に向かうエネルギーと外へ向かうエネルギー。私は、内に向かうエネルギーが好き。自分の感情を爆発できる」
「爆発するほど、溜まっているの?」
僕は、思わず聴いてしまった。自分の気持ちを素直に表現しているようで、莉子の心奥底には、押し殺した感情が眠っている気がした。誰が相手なら、この感情を表現してくれる?突然、聞かれて莉子は、急に黙った。
「どんな事にも、裏ってあるんだな・・・て思って」
思わず気まずい雰囲気になって、僕は、話を変えようとした。
「せっかく、フラメンコの事をもっと、知ってほしかったのにな」
莉子はため息をついた。
「ここを、さよならする事になった。」
僕は、頷いた。僕も、夫ならそういう決断をするよ。
「前の事は、あまり覚えてないけど、退屈で、苦しい生活をしていたと思う。こんなだから、もう、何ができるのか」
以前は、そのストレスを踊る事で、発散していたんだろう。
「新先生の、お手並みを拝見できるかと思っていたのに」
「僕も、結果を出したかった」
僕達、二人は、互いの言葉を待って、黙り込んでしまった。
「あの!」
二人同時に、声を発して、笑う。
「いつ、ここを出るの?」
「準備が整い次第って。そんなに、急ぐ事ないって、看護師さん達に言われてたけど」
「ふうん」
僕は言った。
「どうせ、色々言われるんなら、もう少し、言われてもいいか・・」
「何を?」
「見せたいものがある」
僕は、莉子の車椅子を押しながら、廊下へと飛び出していく。
「あら?新先生、もう、リハビリは終わり?」
看護師の安達がふうふう言いながら、リネン類を運んでいる。
「予定変更。外出訓練!」
「外出訓練?もう、夕方になりますよ」
ナースSTに、飛び込み、リフト車の鍵をポケットに放り込む。自分の上着を一枚、莉子に被せると、僕は、外へと出て行った。
「どこに行くの?」
莉子がまあるい目を更に、丸くして、声を張り上げた。
「リハビリだよ』
僕は、慣れた手つきで、軽リフト車のエンジンをかけた。リフトが下がり、車椅子を持ち上げていく。
「ここが、どんな所だったか、見せたいんだ」
僕は、病院のある裏山へと車を走らせていた。