そばに居るのに、手の届かない人
莉子が笑っている。自分といる時に、あんなに感情の露出をしたのは、いつ以来だ?硬膜下血腫を取り除く手術の後、リハビリは実家近くのリハビリ施設がいいだろうと選んだのは、架自身だった。莉子の父親が、震災復興に、病院や製薬会社の誘致に力を入れており、都内の大学病院の系列のリハビリ専門棟をもつ、病院の誘致に成功していた。莉子の両親も、自分の手元に娘が戻ってくるのを、喜んでいた。迷わず、病院に、莉子を送り届け、現実から逃避する日々を送っていた。慣れない仕事ながら、少しずつ、親のやり方を覚え、軌道に乗ってきた。莉子とは、夫婦でありながら、冷めていた。それは、綾葉への後ろめたさなのか。綾葉は、架の右手になりたいと言っていた。莉子が、側にいるのを知りながら、陰で、支えると言っている。自分が、報いる事はできないと思いながら、莉子への想いを抑えるしか無かった。何度も、リハビリ中の莉子に声をかけようとしていたが、綾葉の思いを裏切る気がしていた。
「あの娘のいい時期を、無駄にするんですか?」
事故にあった時、莉子との結婚が決まった時、カフェであった綾葉の母親に釘を刺された。莉子と別れれば、全て、うまくいくのだが。何度か、別れを告げに行ったが、目にしたのは、莉子の穏やかな笑顔だった。向けられた側には、2人の若いリハビリ師がおり、そのうちの1人に、ただならぬ気配を感じていた。
「君は、誰を見ているんだい?」
気になりながら、莉子には、直接、逢えずにいた。病院に様子を見に来る時は、何故か、リハビリのある時間に、そっと影から、覗いていくのが、日課になっていた。莉子を見つめる目も、莉子が、見返す瞳も、2人が何を感じ、思っているのか、莉子の夫には、わかっていた。
「莉子は・・・」
自分には、心を開いていない。何故なら、あんな眼差しを向けられた事もないし、向けた事もない。
「架?」
綾葉は、莉子の居る病院に向かう架に、ついて行くといい、車の助手席を占領していた。架の心の揺れを察したのか、最近は、堂々と架に同行する様になっていた。
「すぐ、戻ってきてよ」
車から離れる時、必ず、綾葉は、そう言う。だが、今回は、違った。莉子の居る病院に立てこもりが入ったと聞いて、架は、単身、高速に飛び乗った。綾葉が、同行したいと言ったが、架は、聞いていなかった。慌てて、ハンドルを握っていた。病院に着いた時、すぐ、莉子の側に駆け寄りたかった。だが、莉子の眼差しは、あのリハビリ師に向けられていた。
「なんなんだ?」
胸の奥が疼いた。あれは、自分の妻なのだ。妻は、自分を忘れ、他の男を見つめていた。架の中で、何かが、変わっていった。