26 龍
龍神の予想では、彼が出現する頃にはこの場にいる人間勢力は妖怪たちに敗北していて、地獄絵図が広がっているはずだった。
しかし、現実には人間側に大きな被害が出ている様子はない。
むしろ、やや有利といったところ。
単純に彼我の魔力量だけを比べれば妖怪側の圧勝だが、人間側――ふたりの少女の魔力運用や立ち回りがそれを覆している。
(というか、あれは人間なのか? 人間といっていいのか!? ――まさか、悪魔どもの狙いはこの悪魔候補に百鬼夜行を――その後は人間も食わせることか!)
龍神は、元凶と戦況、猫羽姉妹の戦闘能力と多くの後方腕組みおじさんたちの様子から、斜め上の解に辿り着いた。
「レティ、何か出てきたよ! 願いとか叶えてくれそうな雰囲気全然ない――っていうか、冗談も通じそうなさそうだから『ギャルのパ○ティ』で帰ってもらうこともできなさそう!」
「お願いを叶えてくれる能力なら姉さんの方が上だし、今更って感じだよね。それより、さすがにあれに背中を見せるのはヤバそうだし、ヤるしかないね!」
そんな龍神に対して、猫羽姉妹も戦闘態勢をとる。
龍神とはいっても、能力的には、異世界でシステム――種子の力を存分に注ぎ込まれた竜神どころか古竜にも劣る。
それでも、現在の姉妹の実力では非常に分が悪い相手である。
領域としての階梯は姉妹の方が上だが決定的な差というほどではなく、物量が圧倒的に違えばさすがに勝負にならない。
姉妹もそれを理解していて、背を向けて逃げるよりは前を向いて負けない戦いをしつつ何らかの機会を待つつもりだった。
(まさか、我に歯向かうつもりか!? 何様のつもりか! 身の程をわきまえよ!)
しかし、それが龍神の逆鱗に触れた。
龍神は「百鬼夜行に属する妖怪」ではなく「土地神」として顕現したため、百鬼夜行にあるような制限は受けていない。
そんな彼からすると、悪魔と妖怪と人間の区別はなく、彼の縄張りを荒らすものは等しく排除対象である。
そして、それは決定事項であり、諾々と従って死ぬか、神を冒涜したことを悔いて死ぬか、情けなく命乞いをするも甲斐なく死ぬかしかない。
それが、恐れるでも悔いるでも諦めるでもなく立ち向かおうとしているのだ。
龍神目線では不敬にもほどがある。
そうして、自らの偉大さを示すつもりで膨大な魔力を放出し、領域を構築していく。
そんな龍神の態度がユノの癇に障った。
妹たちに任せると言いつつもイレギュラーに警戒していたユノだが、さすがに可能世界の観測や制限まではしていなかった。
怠慢だとかそういうことではなく、妹たちでは対応できないイレギュラーが発生すればその時点で訓練を終了して交代すればいいだけのこと。
むしろ、少し痛い目を見る程度のイレギュラーは大歓迎だった。
しかし、出てきたのが龍神である。
また竜かと辟易しているところもあるが、妹たちでは勝ち目が薄く、かなりの痛い目を見るくらいは仕方ないとして、気持ち程度ではあっても神性を持つ存在というのが非常にまずい。
ユノも空亡が神性を獲得していた場合のプランは一応用意していたが、飽くまで空亡対策であって龍神には効果があるかは疑わしいものだった。
また、妹たちに勝ち筋が無いわけではないが――むしろ、勝ってしまって「神殺し」などという業を負わせるのは時期尚早である。
だからといって、魔術師もいる状況で龍神を増長させる展開もよろしくない。
さらに、いろいろと意識改革をさせている最中に中途半端な領域を披露されると、それまでの努力を台無しにされてしまうおそれがある。
範囲内の魔術効果や命中率の上昇などは「結界」でも可能なこと。
そういった「分かりやすさ」や見た目に説得力がある「派手さ」は、彼女の教えている魔法の本質からは遠いところにあるものだ。
妹たちの実演のおかげで理解が進むかと思われていたところに邪魔をされると堪ったものではない。
龍神のそれは直径百メートルほどの水の檻だった。
ただの水であれば泳いで脱することもできるが、龍神の「逃がさない」という意思が作用しているためにそう簡単には逃げられない。
時間制限があるとはいえ呼吸を卒業できる猫羽姉妹は別として、妖怪のくせに呼吸が必要なものには致命的である。
そうして、逃れようとしても逃げられないところを水流で流され切り刻まれ、水圧で圧し潰される。
領域を構築できる姉妹や力のある妖怪は辛うじて耐えているが、前者は特に機動力を制限され、力が及ばなかった妖怪たちは言葉どおりに魚の餌になっていた。
「まさか、百鬼夜行にあんなものまで出てくるとは!?」
「いや、そもそも今日は異常ばかりだ! まさか、マグロの祟りか!?」
「あれは百鬼夜行を食っているのか……! 猫羽さんたちが危ない!」
そんな攻防一体の性質を持った荘厳さすら感じさせるそれは、綾小路ら魔術師たちには見事な領域に見えた。
「いえ、妹たちはほぼ呼吸を卒業できていますし、水の流れごときに負けない程度には鍛えていますので大丈夫かと」
「助けに――え、卒業? 呼吸を? それは卒業していいものなのか!?」
一方で、ユノからすると「水神だから水」という安直さには目を瞑るとしても、「水」に囚われているようでは領域としては未熟すぎる。
もっとも、未熟という意味では妹たちも同じで、既に水の抵抗によって身体の動きが鈍く、結界の効果によって見えざる手の範囲が狭くなっている。
それで妹たちが即座にどうこうなるような状況にないが、視覚的な説得力が高いだけに、魔術師たちに与える悪影響を考えると見過ごせない。
結論として、介入は決定事項。
ただし、その方法は未定。
つまり、即座に答えが出ない時はかなりの確率で迷走する――即座に迷走することもある彼女に真っ当な解決策は期待できない。
ユノは妹たちを結界の外に呼び戻すと、それと入れ替わるように龍神の結界内に飛び込む。
ふたりが「お姉ちゃんどいて! そいつ殺せない!」「きっちり背開きにしてやるつもりだったのに!」などと不満と強がりが交じった抗議をしているが、聞こえないふりをしている。
もっとも、ふたりも姉の邪魔はしたくないし巻き込まれたくもないので、それ以上食い下がることはなかったが。
一方で、獲物を奪われた竜神は一瞬で頭に血が上った。
どうやって領域を脱したのかなど腑に落ちない点もあるが、そんなことはどうでもいい。
目の前にいるのは極上の贄である。
当然、諸々の怒りなどすぐに鎮まる。
むしろ、すぐにでも祝言を挙げて子作りに励むべきで、違う意味で昂ってくる。
もう妖怪などに構っている場合ではないと、花嫁に手を伸ばす。
龍神の乱心はユノに掛けられている認識阻害があまり効いていないことが原因だが、そんなことは知らない彼女は龍神の感情が変化したことに気づかない。
そのため、差し伸べられた手は錫杖を使って払い除け、更に千を超える錫杖を使って妖怪たちの保護を始める。
「何だあの数は!? 我々では3本が限界だというのに……! しかも、龍神様の手を払い除ける力強さだと……!?」
「錫杖を箸のように使って妖怪を摘まんで領域の外へ出しているが、まさか妖怪を救助しているのか!?」
「というか、何で普通に龍神様と戦おうとしてんの!? 怖いもの知らずにも限度があるんじゃねえの!?」
そんなユノを見て魔術師たちが動揺する。
ユノからすると、この程度は領域の展開を禁止されている彼女がギリギリ許容される――と思っているレベルの領域操作である。
広い範囲を包み込む、あるいは効果範囲を直接動かす領域と比べて、良くいえば「省エネ」、悪くいえば「手抜き」だ。
龍神の結界に負けることはないが、世界を「確定した結果」に収束させるほど強くはない。
しかし、操っている錫杖の数が領域の練度と比例すると思っている魔術師たちは、その想像以上の数の多さに我が目を疑った。
さらに驚くべきことに、ただ数を揃えただけではなく質も備えているとなると、尊敬を通り越して畏怖するレベルである。
一方で、明らかに妖怪ではない――十中八九「神」である存在と躊躇なく敵対できるのは全く尊敬できない。
龍神に対話をする意思が無いことが認められず、「敵の敵は味方」理論が通じるのではないかと甘いことを考えていたところもあるが、それでも何も考えていないかのような思い切りの良さには正気を疑ってしまう。
当然、ユノも何も考えていないわけではない。
龍神については、「人間を見下している態度が気に入らないから思い知らせたいところだけれど、由来や役割が分からないのでどこにどんな影響が分からない。そんなものを殺すのはさすがにまずいし、ひとまず保留で」と考えている。
また、妖怪については「全滅して空亡が出現しないと徒労になってしまうし、とりあえず保護しておこうか」などなど、必要なことはひと通り考えての行動である。
さらに、明日の朝食の献立に試験のことなど先のことも考えているし、むしろそれら以上に湯の川での諸々や特に関係のないことを考えている。
特に、彼女の酒欲しさに結託している古竜たちの方が遥かに厄介なため、この龍神に割いている割合は非常に少ない。
彼女の分体は独立しているように見えても、その全てが繋がっている――というより、等しく本体である。
彼女は膨大な情報を規格外の能力で処理しているだけで、本質的に日本にいる彼女と湯の川やその他の場所にいる彼女との差異は無い。
マルチタスクが苦手な彼女がそれを克服するために編み出した力技だが、本質的には何も改善していないどころか個別――あるいは総合的な処理能力は劣化している。
大抵の場合は基となる能力の高さで誤魔化しているが、間違いというのは油断しているときに起きやすいものである。
ユノが龍神の結界内から酒呑童子を放り出した際、後者の持っていた瓢箪が結界内に取り残された。
アイデンティティともいえる物を失った酒呑童子の「儂の酒がっ!」との悲痛な叫びが、彼女の湯の川での日常と重なった。
条件反射的にお出しされたユノの酒。
すぐに間違いに気づいて止めたものの、既に出てしまった分は龍神の結界内で攪拌されている。
もっとも、結界を構成する水もユノの酒のどちらも純粋な物質ではなく、後者の方が階梯が高いためほとんど薄まることもない。
むしろ、「美味しく飲んでもらうこと」が存在意義である《竜殺し》は、龍神の結界を侵食して増殖していく。
彼女としては、これ以上問題が大きくなる前にさっさと回収したいところだが、不殺と人外バレと領域を展開してはいけない条件下で、強めの領域を捕獲するのはなかなかに骨が折れる。
そうしてもたついてしまうと、湯の川でも争奪戦になることもあるそれが、免疫の無い日本で問題にならないはずもなく。
言葉どおりにネコに木天蓼状態に陥った龍神は ユノを肴にこれまた言葉どおりに酒に溺れ、酒呑童子をはじめとした酒好き妖怪たちも荒ぶる。
彼女にとって、彼らがただ殺せばいいだけの存在であれば簡単なのだが、後々のことを考えるとどちらも生存させておいた方がいいのが困ったところ。
そんな彼女を更に困らせているのが、彼らが酒欲しさに自らの身体が壊れることにも構わずに暴れることだ。
血涙を流すくらいは序の口で、錫杖で押さえられている部位を引きちぎってでも前進しようとする彼らを「死なせない」という条件は、非常に厳しいものになっていた。
そうしてひとり思わぬ苦労をしているユノだが、その光景を見ていた魔術師たちが、彼女の操る千を超える錫杖と「全てを救おう」という姿に千手観音を重ねていて、後でまた苦労することになるとは夢にも思っていなかった。




