57 パッと光って咲いた
安倍たちにとって、アバドンの領域は、確かに「奈落」というに相応しいものだった。
竜胆や巴のような魔術の大家であっても、その長い歴史の中でも領域展開にまで至った者は数えるほどしかいない。
一方で、未熟な領域に呑まれて命を落とした者や闇に堕ちた者、周囲を巻き込む大事故を起こした者はその何倍もいる。
実際に体験したのは全員これが初めてのことだったが、それが「奥義」だといわれる理由が嫌というほど理解させられた。
領域に対抗できるのは領域だけ――という言い伝えどおり、彼らは何もできなかったのだ。
術を発動させるどころか、満足に身体を動かすこともできず、ただただ落ちていくだけ。
それを、御神苗ユノは拍手ひとつで叩き潰した。
魔術師や異能力者の最高到達点を、羽虫でも潰すかのように。
その後に始めた領域展開は――「領域」などという生易しいものではなく、「世界創造」とでもいうべきもの。
明らかに「奈落」とは次元が違う。
それが、彼らの知る「世界」とは違う、御神苗ユノそのものともいう世界で、「奈落」を叩き潰したことからも分かるように、それより遥かに洗練されたものであることは間違いない。
さらにいうなら、「なんちゃって」などとおどけているあたり、いまだに本気ではないことも理解できる。
彼女は、本当に優しく「お手本」を示しているだけなのだ。
むしろ、ここまでの一連の流れを考えると、徹頭徹尾「お手本」を示していたのだ。
そんな「お手本」の領域でも――だからこそというか、その完成度は疑いようがない。
それは、アバドンがひとり不思議な踊りを披露している――領域の再展開をしようとしてか、何らかの魔術を使用しようとしているのか、どちらにしてもそれが敵わない状況が証明している。
一見すると殺風景にも思える光景だが、ここまでの流れからすると充分な意味があると考えるべきで、何だかよく分からない棒にも意味があるはずなのだ。
術や領域が使えないと判断したアバドンが、体積を十倍くらいに巨大化させてユノに襲いかかろうとする。
しかし、そこで地面に無造作に刺さっていた棒が、ミサイルよろしく次々と発射されてアバドンの身体に突き刺さり、その巨体を空中に縫いつけた。
『ここまでの差を見せられてまだ理解できないとか、悪魔って莫迦なんですか? あ、言い忘れてましたけど、その棒、無銘ですけど世界樹の枝から作られたものですから、貴方の力では逃げられませんよ』
朔は、嘘は言っていない。
世界樹を司るユノから生まれたものは、全て世界樹といっても過言ではない。
ある意味、彼女が創る料理も世界樹で、それを食べるのは大いに問題があるが、被害を訴える者がいないのでセーフ判定になっている。
朔としては、本当は無数の聖剣や魔剣でブンドドしたかったところ、ただの棒ではハッタリが利かないために少し本当のことを話してみたのだが、聞かされている方としては「世界樹」が想像もできないため反応に困る。
それでも、想像が及ばないくらいに危険なものであることは、アバドンを含む全員が理解させられていた。
むしろ、「理解したばかりでつらいの! ちょっと休ませて! もう嫌なの! 理解したくないの! もう理解したくないのにいいぃ!」となっている。
そんな彼らを無視して、アバドンに刺さった棒が、彼を侵食するように根を張り始める――根を張る形で侵食しているというべきか。
ユノの自由にできる世界において、彼女の創った世界を操れる朔の言葉で世界樹が活性化したことが原因だが、朔の意図したことではない。
ただ、彼女の力の扱い方が想像以上に難しい――と愚痴をこぼしたり反省するよりも先に、状況に対応しなければならない。
このまま放置すれば、世界樹があっという間にアバドンを呑み込んでしまう。
朔は、それはそれで物理攻撃や受け身よりは格好いいかと思う反面、もうひとひねりが欲しいとも考えていた。
「――き、貴様!? そんな、莫迦な!」
アバドンの憑代となっていた呂布がユノの手元に引き摺り出され、現実世界で活動するための核を失ったアバドンの存在が揺らぐ。
消滅してしまわないのは、世界樹に囚われているからだ。
むしろ、「魔界」とも「地獄」ともいえる世界にある本体まで囚われているので、アバドンは絶体絶命のピンチだった。
最早、ユノを「花嫁」などといっていられる余裕は無い。
どうにかして脱出しようとあがくが、世界樹はビクともしない。
それが、力を吸われているからといった理由であればともかく、ただ、全力を出しても侵食を止められない――単純な力負けなのだ。
それも、「人間界に出している分身体だから」というような言い訳ができるレベルではなく、魔界という場で万全の状態の本体でも、何なら魔界にいる悪魔を束にしても敵わないと感じるレベルである。
そして、アバドンの絶望が伝わってくる人間たちも、プレッシャーで、若しくは理解させられすぎて身動きひとつできない。
『まあ、今回は滅ぼすまではしませんが、次に会ったときは容赦しません。ウマに乗っていた悪魔はうっかり滅ぼしてしまったかもしれませんので、君からほかの悪魔にもそう伝えてください。では、さようなら』
朔はそう言うと、アバドンに向けて腕を突き出し、掌をそっと閉じる。
それに合わせて、勢いよくアバドンの身体が潰れ、飛び散った肉片や血飛沫が黒い炎で燃え上がる。
「そうか、貴様は――」
そうして、アバドンは意味深な――朔にとっては満点の言葉を残して消滅した。
それでも、朔にとっては「満足」とはいい難い結果だった。
ユノの身体を操って、彼女よりも多少はスタイリッシュに立ち回ったつもりではあるが、彼女自身が行動した時に比べて可愛さやあざとさが足りない気がする。
とはいえ、それが分かっただけでも収穫で、面白くできるポテンシャルも感じたので、次回以降改善すればいいと割り切ると、領域を解除して、ユノの身体も解放する。
半殺しにされたアバドンが現実世界から追放されたことで、その領域も解除された。
当然、領域の核となっていた民宿も元に戻り、ユノたちは揃って大浴場に出現していた。
「お疲れさまでした」
これで依頼も完了したと、ユノが上辺だけの労を労う。
肉体的には疲れることがなく、精神的な疲れもすぐに忘れる彼女にはさして共感できる言葉ではないので、上辺だけになるのも当然である。
とはいえ、一般的な終業時の挨拶などは、ブラック企業でなければそんなものだろう。
ユノ以外の者にも、現実世界に戻ってきたという実感はある。
そして、とても良い笑顔で労を労ってくる彼女に流されてしまいそうになったが、先ほどまでのいろいろを考えると気が抜けない。
彼らだけでは止めようもなかった、解き放たれていれば全世界を混乱に――破滅させていたであろう悪魔を、圧倒的な実力差で追い払った。
それも、彼らというお荷物を抱えた状況でだ。
それには感謝しかないが、その後の彼女は、「お疲れさま」などと言っているものの、全く疲れた様子がない。
ほとんど何もしていないのに疲弊しきっている彼らからしてみれば皮肉にしか聞こえないが、その程度のことで不貞腐れるわけにはいかない。
彼女は、かの悪魔以上に簡単に世界を滅ぼせるのだから。
当然、彼女と直接触れ合った彼らには、「そんなことにはならないだろう」という信頼がある。
むしろ、領域内での彼女の言葉を信じるなら、そんな低レベルな目線で世界を見ていない――むしろ、世界に進化を促している側である。
最早、「神目線」といってもいい。
悪魔など相手にならないはずだと納得する反面、これを組織にどう報告したものかが悩みの種になっていた。
国家の治安を維持するものとして、又は世界を清浄に保つために存在しているものとして、世界を壊せる者を無視することはできない。
彼ら自身としては、御神苗と敵対するなど天地が逆さになってもあり得ないことだが、上層部がどう判断するかは分からない。
正直に報告すると、正気を疑われる――洗脳されたとして処分されるおそれもある。
彼らの視線が、手元にあるスマートフォンやビデオカメラに移る。
ユノに撮影するよう促された時は、アバドンについての報告用だと思っていた。
今となっては、そうではなかったことに――彼女の思慮深さには感謝しかない。
それでも、戦闘に参加していた時はそちらに神経を集中させていたため、アバドン遭遇後は撮影している余裕などなかった。
したがって、何が撮れているかは不明である。
それに、上手く撮れていたとしても、映像だけでは伝わらないものもある――アバドンの領域(奈落)も、ユノの領域(世界)も、その脅威は半分も伝わらないだろう。
もしも、上層部が間違った決断を下せば――直接的な敵対でなければと甘いことを考えたりすれば、御神苗に寝返ることも考えなければならない。
安倍が現実逃避気味に窓の外に目を向けると、空に一筋の流れ星が――遠近感を考えると、とんでもない大きさの火球が尾を引きながら落ちてきていて、「おっ」と変な声が漏れた。
『恐らく、兄の魔法ですね。これだけ派手な物を使うということは、あちらももう終わりなのでしょう。ああ、津波なんかの被害は出さないようにしますので、ご心配なく。それよりも、悪魔の憑代にされていた人のことはお任せしますね。一応、後遺症が出ないように焼きは入れたつもりですが、元の彼のことを知りませんので、念のために注意はしておいてください』
ユノが、もしかしなくてもアヘっている呂布を指して引継ぎと注意喚起を行うが、情報量が多すぎる彼らの思考が追いつかない。
既に屈服していた伊達に至っては、理解すること諦めて、改めてお腹を見せて服従の姿勢を見せている。
それができないくらいに人間性を残している者たちは、窓の外――遥か遠くの海上で起きた爆発の光が、生まれたままの姿でアヘ顔を曝している呂布を照らしている現実感の乏しい光景を見て、理由も無く流れてくる涙を止めることができなかった。




