56 領域展開
アバドンが展開した領域《奈落》は、彼が象徴する底無しの穴、あるいは深淵――世界の終着点を造り出す魔術であり、そこに囚われた者は永遠の苦しみを負う。
それは、魔法の本質的にも非常に優れた、ユノと朔をも納得させる出来のものだったが、それ止まりでは彼女たちを捕らえることはできない。
「……どういうことだ? なぜ人間が、我が奈落を受けて平然としていられる? 我が奈落は無限――人間が耐え得るものではないのだぞ」
アバドンの意識が強く顕在化している呂布が、平然と立っているユノに問いかける。
領域が問題無く展開されているのは、無限に囚われて落下し続けている安倍たちを見れば疑いようもない。
奈落そのものであるアバドンが影響を受けないのはともかく、領域下にある彼女が影響を受けていないのは道理に合わない。
『皆さん、無限とか永遠とか、そういうの好きですよね。そんなものはありはしないのに――いえ、だからこそ焦がれるんでしょうか? でもまあ、なかなか見事な領域です。それだけは褒めてあげましょう』
「……領域展開すらできぬ小娘が何を抜かすか」
飽くまで余裕の姿勢を崩さないユノに、アバドンもようやく彼女が「敵」なのだと意識を改める。
とはいえ、いまだに侮っている部分が残っていたが、肉体的に鍛錬の跡が窺えず、魔力も不自然なくらいに感じない彼女を「強者」と判断するのは難しい。
それもそのはず、こちらの世界においての「領域展開」とは、魔術や異能力の効果を激増させ、また必中にする、術者にとって極めて有利な場を作る奥義である。
領域に対抗するには領域しかない――当然、領域にも強弱や相性があるが、「有る」と「無い」では勝負にならない。
過去には、安倍晴明、アリストテレス、ロジャー・ベーコンなどの大魔術師がその奥義に至っていたといわれているが、既知の能力となっているはずの現代での使用者が五人に満たない――というのが、その頂の高さを証明している。
そして、アバドンの領域は彼らの遥か上の階梯にある。
それでなぜ彼女が平然としていられるかはアバドンにも分からない――あるいは、「何も持っていなければ効果が薄いのか」と強引に理由をつけるくらいしかできないが、それが正常性バイアスに近いものであるとは気づけない。
『ええ、確かに領域は展開してませんが、ずっと構築はしているんですよ? それすらも分からない――いえ、気づかないふりをしてるんでしょうか? きっとそうですよね。この少し勘違いした領域も、私を欺くための罠なんですよね!』
嬉しそうに煽る朔。
想定外の事態に慌てるユノ。
ユノの左眼が、深紅から黄金に変化する。
ユノが何かをしたわけではなく、一部ではあるが、朔に乗っ取られたのだ。
『だったら、さっさと本気を出してもらいましょうか』
朔はそう言うと、ユノの身体を操って、ひとつ綺麗な拍手をする。
そして、「パン」という小気味いい音とともに、アバドンの領域が押し潰されて消滅した。
「――――っ!?」
アバドンの理解が追いつかない。
彼が自発的に領域を解除したわけでも、領域をもって領域を破られたわけでもない。
拍手程度で領域が破壊されるとは思えないが、タイミング的にはそうとしか考えられず、更になぜか再展開もできない。
それでも、最初に構築した簡易領域は健在で、それが更に彼を混乱させる原因になっていた。
「「「…………」」」
安倍たちには恐怖しかない。
アバドンの領域ですら、彼らからしてみれば絶望でしかなかった。
それから解放されたのは、本来なら安堵するべきことである。
しかし、それを紙風船でも破るかのように潰したユノには、ただただ理解が及ばず、自身が抱いている感情すら理解できない。
そうして脳が考えることを放棄して、呼吸すら忘れそうになっていた。
「?」
一方、身体の――「ユノ」という世界の主導権を取られた彼女も、困惑半分、期待半分だった。
主導権を奪い返そうと思えばできるだろうが、朔の成長――開花の邪魔をしたくない。
これは、間違いなくその予兆なのだ。
『……もしかして、さっきので本気だったとか? 冗談ですよね?』
朔もアバドンにそれ以上があるとは期待していない。
それでも、万が一にもあった場合に見逃したくないと考えて挑発してみたが、混乱から立ち直る様子すらないので諦めた。
なお、アバドンには「奈落」展開中にのみ使える特殊魔術があるが、「奈落」を展開できなければ見せようがない。
『だったら、本場の領域を見せてあげましょうか』
朔がそう宣言すると同時に、アバドンの領域――現実世界の旅館を下地にした簡易領域が、真っ白な世界に塗り潰された。
アバドンの奈落と同様に果ては見えない――目に映るのは「白」だけの、自身の身体さえ見えない世界。
落ちているのか、上昇しているのか、回転しているのかも分からず、呼吸すらもできない――が、苦しいのかどうかも分からない。
むしろ、自身が何者かも分からなくなりそうで、耐え難い恐怖や不快感だけが確かなものだった。
『――――《身体は糖でできている》』
そこに、詠唱に合わせて大地が出現した。
『《血潮は素敵で》《心は香辛料》』
詠唱が進むことで、更に空と光が創られ、ようやく呼吸もできるように、そして、自身と他者の存在も認識できるようになった。
それは、紛れもなく世界の創造だった。
それも、ただの世界ではない。
ユノのためだけに創られた世界――ユノそのものである。
開花を目前にした朔の選択肢は、大別してふたつに絞られていた。
ひとつは、自身の特性を活かして、「全知全能」を目指すこと。
そうすれば、ユノの苦手とすることを補う、唯一無二の相棒となれる。
もうひとつは、そういった理屈や道理は投げ捨てて、「やりたいこと」を追求すること。
ユノの補助装置ではなく、時には助け合い、時には喧嘩もできる、「友」となることだ。
そうして、選択したのは後者だった。
理由はいくつかある。
結局、「ユノ」という存在がある以上、言葉どおりの意味での「全知全能」には至れない。
ユノの助けになりたいという想いもあるが、ユノで遊びたいという想いもそれ以上にある。
そもそも、前者には代替手段がいくらでもあるし、難しくても、ユノとふたりで悩んだり協力したりするのも楽しそうだった。
などと、いろいろと理由をつけてみたところで、「汝のなしたいようになすがよい」系邪神の一番の信者である朔が、それを選ぶのは当然のこと。
ただの魔法少女が好きなわけではない――いや、それなりに好きではあるが、ユノが魔法少女になればもっと好き。
魔法少女モノには駄作もあるが、魔法少女がユノなら多少の奇行は許容できる。
むしろ、どんな駄作でも「可愛い」の一点だけで許される。
というか、もう魔法少女ではなくても、彼女の可愛さを知る人が増えるだけでいい。
そんな狂信者が、「友」になるために覚醒する。
もっとも、どういう関係を「友」というのかは朔にもよく分かっていないが、少なくとも「便利屋」でいるうちはあり得ない。
そして、参考にしたのがアイリスやアルフォンスだ。
彼らは時に、ユノを欲望の対象として実際に行動を起こしたりもするが、「友人」という枠内に居続けているように思える。
そういう意味では、朔も充分にその枠内にいるが、目指すのはもうひとつ上の階梯である。
そんなことを考えながら開花した朔の能力は、名付けるなら「ワールドイズマイン」――ユノに対する干渉力の強化だった。
当然、可能性を操る――その気になればどんなルールも無視できるユノを完全に掌握することは、開花に至った彼でも不可能である。
それでも、既に創られた世界に限定すれば効果を底上げすることができるし、彼女の抵抗を受けない限り、その「可能性を操る力」をも利用することもできる。
『……なんちゃって』
そうして、ユノの力を使って朔が創ったのがこの領域である。
本当は、彼が感銘を受けた作品の必殺技のように、無限の剣を具現化たかった。
しかし、彼女が「無限」という表現を嫌ったことと、剣より棒を好んだことで、なんとも地味な世界になってしまった。
それでも、開花して初めての領域展開で、彼女の掌握が想像以上に大変だったことも考慮して、及第点だと割り切る。
そして、彼女の評判を落とさないよう、ダメージコントロールに入ることにした。
(これは一体どういうこと? 私の領域を改竄する領域? とも少し違う?)
この状況に、ユノが朔の真意を問う。
とはいえ、立腹しているとか、不信感を抱いているわけではない。
朔に悪戯されるのは今に始まったことではなく、それも、本心から拒絶するようなものは無かった。
今回は、ただ規模が大きい――どういう形で開花に至ったのかに興味があっただけだ。
(うーん、ユノに指摘されたとおり、ボクのやりたいこと――「君が好きだ」って全力で示しただけだよ)
朔はそれに正直に答える。
(ふうん。私も朔のことは好きだし、頼りにしているけれど、なるほど。アイリスとも、アルとも違う「愛」の形なのかな?)
(それは分からないな。もしかすると、ただの欲望かもしれないね)
(あはは。まあ、どちらにしても、朔が本気なら、私も本気で向き合うよ)
さらに素直に答える朔に、ユノも特に気にすることなく受け止める。
(それで、これは一体何をするつもりだったの? ここからどうするつもり?)
(うーん、剣をいっぱい創造して、それをスタイリッシュに操って、彼を滅多斬りにするつもりだったんだけど)
(……?)
この状況から何をどうすればいいのか分からなかったユノは、朔にその詳細を訪ねてみるも、理屈が分からず混乱した。
(あれに干渉したくないっていうのは、上書きしたボクの領域で遮断するから気にしないで。それと、一般的な意味の「スタイリッシュ」を教えてあげる。ユノのは、玄人好みすぎて、普通の人には理解しにくいからね)
朔が、ユノの心配しているであろう事柄を先読みして潰していく。
ユノはといえば、理解が及ばず、納得のいかないところもあるが、朔が何をするのかには興味があったため、ひとまず流れに身を任せることにした。




