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19 はんけつ

 ニコルが生還できたのは、ただの幸運だった。



 ニコルを拘束していた相手がその気であれば、気づかないうちに殺されていたかもしれない。

 不意打ちとはいえ、ろくに反応もできなかったのだ。



 運良く《霧化》から《転移》のコンビネーションで逃げ果せることはできたものの、相手の確認をする余裕も無かった。


 そんな彼に対して、相手には《転移》のために実体化した瞬間を狙い撃ちできるだけの能力があった。

 そのほんの一瞬で、左腕を吹き飛ばされ、左脇腹まで大きく抉られた。


 後少し《転移》の発動が遅れていれば、彼の胴体は真っ二つにされていただろうし、そうでなくてもこの状態でファンブルしなかったのは、幸運としかいいようがない。



 思わぬ深手を負ったニコルだったが、逃げ切れさえすればこの程度の外傷は問題無い。


 内臓までごっそりと抉られた傷も、貴族級吸血鬼の再生能力であればものの数分で再生する。

 回収できなかった左腕も、封印などが施される前に破棄することに成功したので、胴部に続いて再生を始めるだろう。


 さすがに破れた服などが再生することはないので、靴や靴下、そして上着の一部を除いて露出したままだったが、そんなことに気が回らないくらいにニコルは動転していた。




 デスの時と同じく、即時撤退というニコルの判断は間違っていなかった。

 むしろ、少しでも決断が遅れれば逃げ損ねていた可能性を考えると、素晴らしい判断の速さだったといえる。



 抵抗しようとしても、彼を拘束した存在とは、攻撃を目視することも敵わないくらいにパラメータ差があった。

 しかも、《転移》のために実体化した刹那の隙さえ突いてくる規格外の相手である。

 真正面からの一対一の戦闘では時空魔法を使う隙など与えてくれないだろうし、それ以外に奥の手がないニコルでは、絶対に勝ち目など無い。



 そして、魔法使いは魔法使いを知る。


 同系統の術者ともなればなおさら、ちょっとしたことからでも相手の実力を読み取るものである。

 ニコルが襲撃者を遥かに格上だと認識したように、襲撃者もニコルを格下だと認識したに違いない。

 大番狂わせがないとも限らないが、襲撃者がニコルの考える「時空魔法の深奥」に至っているとすれば、やはり彼に勝ち目は無い。


 いくら不意打ちだったとはいえ、敵の容貌(ようぼう)や人数すらまともに確認できなかった時点で、戦闘といえるものになるかも怪しいのだ。

 そもそも、抵抗してまでそこに留まる理由がなかった。



 内通者の女には、護らなければならないような、若しくは殺さなければならないような価値は無い。


 ニコルは屈辱と憤怒に塗れながら再生に努める傍ら、冷静に現状の分析や今後の方針を考えていた。


 もっとも、すぐに「時空魔法の深奥に至っていれば」だとか、「手下を連れて来ていればもう少し情報を集められたのに」などと、不運を呪って現実逃避をしていた。


 承認欲求からくる確証バイアスと、自身が狙われる、若しくは狩られる立場になったことを認めたくない正常性バイアス働いた結果である。


 当然、本当の不運はまだ訪れていないなどとは考えもしていなかった。




 ある程度再生が済むと、ニコルは破れてボロボロになった服を脱ぎ捨てる。

 取り巻きたちの見ている前だが、注目されることに快感を覚える性質の彼にとって、気にするようなことではない。


 しかし、気にしないのは取り巻きたちの視線くらいのものであって、どう取り繕うかは必死に考えている最中である。

 また、理解できない存在からの干渉は別である。



「なっ!?」


 取り巻きたちが持ってきた着替えを受け取っていたニコルが、驚愕の声を上げた。

 再生途中だった左腕が、何の前触れもなく消失したのだから無理もない。


 正確には、消失したはずの左腕はどこかにあって、見えないだけで違和感は無い――むしろ、違和感しかない。


 そんなことよりも、脳や心臓などの重要臓器や全体における割合的に、主体となるべきニコルが逆に従属物であるかのような感覚に突然襲われた。


 覚えたのは、恐怖というよりも絶望。

 口からは悲鳴は出なかったが、魂が悲鳴を上げていた。


 次の瞬間、彼は「世界がそう定められている」とでもいうような強制力によって、彼の左腕――それを掴むバケツを被った何かの許へと引き寄せられた。




「――――――――――!?」


 ニコルには、何が起こったのか理解できない。

 ここがどこだとか、内通者の女や彼を襲撃したであろう者たちもすぐ側にいて、なぜか彼も全裸だったが、そんなことを気にしていられる余裕は無かった。


 デスを使役する謎の存在が、切り離された彼の腕を掴んでいるのだ。

 それは、デスに腕を掴まれているに等しい。


 むしろ、デスを従えるだけの力があるということは、デスに殺された方がまだ幸運である可能性もある。



 ニコルは咄嗟(とっさ)に《霧化》して逃げようとしたが、なぜか局部しか《霧化》できなかった。

 部分的な《霧化》は高等技術だが、初めての成功に喜んでいる場合ではない。

 当然、それでは逃げることなどできないのだから。



 追い詰められたニコルは、トカゲの尻尾切りとばかりに自らの左腕を切断し、痛みに耐えながらも《転移》を発動した。



 当然のようにファンブルした。


 そして、いつの間にか切り離したはずの左腕が胴体にくっ付いていた。


 その腕を掴んでいるのは、バケツを被った何か。


 まるで悪夢の中にいるようだった。




「「これは酷い」」


「《霧化》をモザイク代わりに使うとか……。というか、何で裸で呼び出したのよ?」


「《転移》したら吸い込まれるように腕の中とか、普通にファンブルさせてほしい」


 バケツを被った何かの側にいた男女が揃って声を洩らしたが、混乱の極みにあるニコルには、認識できる言葉として届いていない。



 座標も指定しないような、指定条件不足の《転移》でファンブルするのは珍しくもないことである。

 少なくとも、木や石の中に《転移》して即死しなかっただけマシではあるが、この状況下ではそれと大差なかった。



 というよりも、ニコルは、相変わらず彼の左腕を掴んだままの正体不明の存在が原因でファンブルを起こしたのだと、直感的に理解させられた。


 彼の左腕を掴んでいるのは、世界そのものである。

 現実として正体不明の存在が腕を掴んでいることにさしたる意味は無く、どう足掻いても彼の能力では逃げられないのだと。



 同時に、ニコルはそれがデスを従えるに足る――死よりも恐ろしい何かだとも理解した。


 そして、彼の左腕は、彼の味方ではないのだと。


 彼は、あまりの絶望に全ての抵抗を諦めた。



「うわっ!?」


 ニコルの股間にかかった霧が広がっていく。


 それと同時に彼の拘束は解かれたが、彼にはもう逃げる気力や気概は残されていなかった。



『別に取って喰おうってわけじゃないから、落ち着いて――といっても、ボクたちの用が済むまでは逃がさないけど』


「なぜ裸なのかは分からないけれど、とりあえず服を着て。もう触れたくないし、あと面倒くさいから逃げようとしないでね。大人しく従ってくれれば危害は加えないから」


 ニコルには、それが言っていることの半分くらいしか理解できなかったが、死にたくない一心で高速で頷きながら指示に従った。


 そこには、いつものプライドの高さなど見る影もない。



 内通者の女性からすれば、恐怖の対象であったニコルの無様(ぶざま)な姿は、理解に苦しむところであると同時に、溜まっていた鬱憤(うっぷん)が晴れるような感じもある。

 笑ったりすると因縁をつけられそうなので、顔や態度には出さなかったが。



 もっとも、その個体の全て以上――根源にまで干渉されたという、表現しようのない恐怖や苦痛は、味わった者にしか分からない。

 彼が死ねば、その体験も根源に蓄積されるだろうが、今はその段階にない。

 ゆえに、そこに共感を覚えられる者は、同じ経験をしたことがある者だけだ。



 貴族級吸血鬼といっても、根源から見れば一介の生物にすぎない。


 それ以前に、この世界で神と呼ばれている存在でも心を壊されるようなものが、一介の吸血鬼に耐えられるはずがない。


 その仕打ちは悪魔でもドン引きするレベルのものだが、根源そのものである彼女にはその痛みが分かっていない。

 それゆえに、彼女が他者に与える影響の自覚が足りない。



 それでも、それと実際に遭遇することがなければ、正常性バイアスがかかって心の均衡を保つこともできたかもしれない。


 そして、それが誤魔化しようのない現実だと理解すると、壊れるしかない。



「あれって僕らが散々苦しめられた貴族級の吸血鬼やないですか……。何か、全然雰囲気ちゃうんですけど……」


「立場が完全に逆転してる……。めっちゃ泣いてる。鼻水とかもすごいことになってるよ」


「震えすぎて飛び散ってるしな。あの傲慢な吸血鬼が……しかも、戦いもせずにだぜ?」


「そういえば、求婚を断られただけで灰化した吸血鬼もいましたよね……」


 それは、ニコルの被害者であるミゲルたちですら同情を覚えてしまうほどに酷い有様だった。



「ヤバいな。貴族級吸血鬼に高速でヘッドバンギングさせながらパンツを穿かせるとか、一体どんな仕打ちをしたらそうなるんだ」


「この娘を敵に回すというのはこういうことよ……。いえ、この娘からすると敵だと認識すらしてないんでしょうけど……。というか、これで何の悪気もないっていうのが一番怖いわ」


「…………」


 それを目にした者たちの反応は一様に非難めいていたが、当の彼女に気にした様子はない。

 それも含めて、「この人もみんなも大袈裟だなあ。でも、素直に従ってくれるのは有り難いからいいか」と、いつものことと聞き流していた。




 ニコルは、震える手でどうにかパンツを穿いた――隠せているのは前面だけで、後ろ半分は上げきれずに半分露出したままなのを「穿けた」というかはさておき、シャツのボタンはどうしても留められなかった。

 そうこうしているうちに、なぜか六大魔王のうちのふたりがそれの側にやって来て、残像が見えそうなほど震えているニコルを、それと一緒に見守っていた。


 ニコルはそのプレッシャーに耐えられずに、ズボンを膝掛け代わりに、恐怖のあまりに過呼吸に陥りつつその場に正座した。

 それが彼のできる精一杯だった。



 そのあまりの狼狽振りに、彼の被害者である狩人たちも言葉を失っていた。

 狩人たちにはニコルを許す気など毛頭ないが、それでも理由すらも分からないこの仕打ちには天災に近い理不尽さを感じて、共感を覚えざるを得なかった。




『じゃあ、落ち着いたところで――』


 落ち着いていない――彼女以外の誰もがそう思ったが、口に出して抗議できる者はいなかった。



「貴方はこの女性から、こちら側の情報を入手していたってことで合っていますか?」


 あまりの恐怖に発狂寸前のニコルだが、それの言葉の意味は、不思議な強制力をもって認識させられた。


 しかし、嘘を吐かなければ、嘘を吐けばどうなるかが分からない。

 むしろ、口を開けば違う物を吐いてしまいそうだった。


 彼にできるのは、ただ前後上下左右に高速で震えることだけ。


 どうにかして答えないとまずいとは感じているものの、限度を超えた恐怖で声の出し方すらも分からなくなっていて、震える身体は彼の意志に従わない。



「いや、さすがにビビりすぎだろ」


「だが、この態度が何よりの答えではないか?」


 この何ともいえない状況を見かねて、それの側にいた大魔王たちがフォローを入れた。

 しかし、それで片付けられては堪らないのが容疑者の女性である。



「ま、待ちなさいよ! そんな気が触れた吸血鬼が何の証拠になるっていうのよ!?」


 彼女には、そのふたりを「大魔王」だと認識できてはいないものの、彼女では逆立ちしても敵わない相手であることは理解できている。

 しかし、だからこそ罪を認めるわけにはいかなかった。

 彼女も生き残るために必死なのだ。



『ふたりが遭遇したのは、この吸血鬼で間違いない?』


「間違いないわ」


「雰囲気が違いすぎて、『恐らく』としかいえないけど、外見的特徴は一致してる……と思う」


 しかし、彼女はそんなことを気にすることなく、もう一方の当事者に尋ねた。



『それじゃ、クロってことでいいね』


「ま、待ちなさいって言ってるでしょ! あんな一瞬でニコル()の何が見えたっていうのよ!?」


 生き残りに必死な女は当然反駁(はんばく)するが、焦りのせいか、それは適当とはいえないものだった。



「語るに落ちたってレベルじゃねーな……」


 そして、当然耳聡い者にツッコまれる。



「そっ……こ、言葉の綾よ! ちょっと言い間違えただけじゃない! 何なのコイツら!? ミゲルも何か言ってやってよ!」


『別に責めようってわけじゃないから、言い訳は要らないんだけど』


「足掻くくらいはいいじゃない。結果は変わらないとしても、最後まで諦めない姿勢は好きだよ」


「何、こいつ……?」


 彼女を知らない者からすれば、憚ることなく自問自答――というよりも、ひとりで真逆のことを言っていることを不審に思っただろう。



「とはいえ、今回の件はアルとソフィアを信じて決定は変えない。異論はある?」


「いえ、残念ですけど……。ユノさんの判断に従います」


「【アミ】、何で僕らを裏切ったの?」


「信じてたのに……! 何でだよ!?」


「アミが流した情報のせいで被害を受けた人たちからすると、とても許容できることではないですし、仕方がないですね。現段階で確定ではないとはいえ、湯の川には古竜様がおられるそうですし、後から事実だったと発覚した場合、ユノ様を信じなかった私たち全員の責任にもなりかねません」


「何!? 何の話!? 何で私が悪いみたいな話になってるの!? 私は無実――」

「分かってねえなあ。ユノが決めたことにシロとかクロは関係ねえ」


「そうだ。言い方を変えればクロでも構わない。だが、そこに拘るのは我が君が望む努力ではない」


 ユノと呼ばれた彼女の足りない言葉を、その側にいたふたりが補足した。

 しかし、それによってアミと呼ばれた容疑者の女性はさらに混乱した。



 社会通念上、所属する社会を裏切ることは「悪」であり、脅威となる外敵が多いこの世界では、特に厳しい罪に問われるものだ。


 そこが論点ではないとしつつも、ほかの何かを問われている。


 ユノが問うているのは本人の意志であり、これに善悪や正誤は関係無い。

 常人には理解し難い理由で、アミにも理解できるものではない。


 アミもニコルも性格は糞以下だが、一応は社会通念を理解しているのだ。



 そんなアミの答えに期待が集まっていた。


 無茶振りもいいところだが、窮地に陥った彼女を助ける者が現われないのは、彼女とユノとの力関係と、彼女が紡いできた因果によるものだった。

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