18 承認欲求の魔物
ニコルがアントニオたちを売ってから十年が過ぎた。
ニコルがつけられている監視は現在も継続しているが、形骸化して久しい。
特に成果も出さず、「時空魔法の深奥」などという妄想は継続しつつも反乱の動きも見せないニコルに、監視役の緊張感などいつまでも続かなかったのだ。
そして、ヴィクターも思いがけず手に入った召喚儀式の可能性を探ることに夢中で、ニコルと監視役について、その存在を忘れていた。
そのおかげで、ニコルはアントニオや古参の眷属たちに恨まれながらも、自由な時間を満喫していた。
彼は、注目されたりチヤホヤされるのは好きだが、監視されるのは嫌いだった。
誰しもそういうところはあるものだが、彼の場合は前者が過剰であり、それが理由で、魔法の研究はそっちのけであちこちでイキりまくっていた。
その結果、ヴィクターや監視役が意識していないことからも分かるように、ニコルはいくつかの上級時空魔法が使えるようになった程度で、彼の考える最強の時空魔法は影も形も見えていない。
それでも、彼には膨大な時間がある。
いつかは時空魔法の深奥に辿り着けると根拠無く信じて、そんなことより今をエンジョイしようと、彼の作った眷属や彼に寝返った吸血鬼たちにチヤホヤされる第二の人生を謳歌していた。
結局のところ、ニコルにとって大事だったのは時空魔法の深奥などではなく、彼が特別扱いされる環境だったのだ。
他人より少しばかり才能に恵まれて生まれてきた彼にとって、賞賛とは彼のためにあるものだった。
そんな傲慢な性格の彼は、ありきたりの賞賛では満足できずに、「もっともっと」とそれを求める強欲な性格の持ち主でもあり、その言動はエスカレートしていく。
時空魔法の深奥などという妄想もそれから生じたものだ。
そうして、承認欲求の魔物は、ついには本当の魔物へと堕ちていく。
もっとも、本人的には、「吸血鬼という人を超えた存在になった」とご満悦だったが。
そんなある日、ニコルは「狩人の一族」なる絶好の玩具を見つけた。
弱いなりにも抵抗してくる彼らを甚振るのは、ニコルやその取り巻きの歪んだ自尊心を満たすのにちょうどいい相手だった。
そんな彼らで長く遊ぶために、様々な理由をつけて泳がし、見逃し、延命を図った。
その結果、ライアンが《憤怒》を獲得し、彼らを勢いづかせてしまったが、それすらも「計算どおり」だとか、「これを待っていた」などと嘯き、彼の眷属化などという目標も立てて愉しみとした。
もっとも、ニコルはその少年を眷属にしようと本気で考えていたわけではない。
《憤怒》を発動して、身体能力が劇的に上昇した少年を相手にするのは、貴族級吸血鬼であっても危険が伴う。
殺されることはないにしても、深手を負うようなことがあれば、余計な恥をかいてしまう。
それに、真祖をあのような状態に追い込んだのも、《憤怒》のスキルを持つ存在だという噂もあり、実際に古参の眷属たちは尻込みしていた。
そんな相手を翻弄しつつも残しておくのは、何ともいえない優越感に浸れる上に、彼らに対する牽制にもなる。
ニコルの時空魔法は、真正面から突っ込んでくる相手には非常に相性が良かった。
直接相手に作用させる魔法の成功率は低くても、抵抗を受けない地点に設置しておく魔法などはその限りではない。
いくら自身がある種の世界、若しくは領域だとしても、それを認識できていない程度では、既に発生している現象や、完成している領域を無力化するには至らないことが多い。
無論、ニコル自身もそんな認識はなく、何かが分かっているような顔をしていても、ただの経験則でしかない。
彼にとって、設置型の魔法は、「誘導する手間は必要だが、少なくともレジストによる不発はなく、場合によってはカウンター扱いになるので威力も跳ね上がるくらい」の感覚だった。
ただ、面白いようにそこに飛び込んでくる少年の相手をするのは、ニコルが戦巧者であると自他共に錯覚させるもので、尊敬と畏怖を集めるのが非常に心地良かった。
承認欲求を満たすことが彼の生きる原動力だった。
そんな楽しい時間にも、そろそろ終わりの時が見えてきた。
長く楽しむためにじわりじわりと追い詰めていたものの、綿密な計画を立てていたわけではない。
隠れ里襲撃などからも分かるように、全てはその場のノリでやっていたこと。
むしろ、それで何年も遊び続けられていた方が不思議なくらいだった。
ニコルの意識は、この楽しい遊びを、最後にどう盛り上げて締め括るかに向けられた。
やはりそれは、《憤怒》のスキルを持つ少年ライアンをどう処分するかである。
ニコルは、いろいろと理由をつけて彼に執着しているように見せていたが、眷属にするつもりはなかった。
《憤怒》のスキルを持った彼に吸血鬼化されると、最強の時空魔法が完成していない自身の立ち位置が怪しくなるかもしれない。
忠実な手駒にできるならいいのだが、これまでさんざん挑発してきた彼が素直に彼の配下になるとは思えなかったし、何かの間違いで配下になられても、彼自身が真祖アントニオにしたように、裏切られるのが当然だと思っていた。
そこでニコルは、不可抗力を装って、ライアンをうっかり殺してしまうか、使い物にならなくしてしまおうと、勧誘している振りをしながら煽った。
内通者を用意してまで行動を予測し、先回りして罠を張ったりして執拗に煽った。
彼は、そういうところにだけは労力を惜しまなかった。
それが新たな日常になろうかという頃、またしても転機が訪れた。
ニコルの前に現れたのは、またしても吸血鬼の魔王――ただし、今回は五体満足で、更に頭に“大”が付く魔王だった。
そしてもうひとり、デスを使役する正体不明の何か。
理解できないところが多い中で、唯一理解できたのはデスの存在――その危険性だけ。
外見だけなら、デスも不死の大魔王ヴィクターもさして変わらないが、デスは死を超克しただけのヴィクターとは違い、「死」そのものともいえる存在である。
それでも、軍勢を持つヴィクターの方が危険度としては上だと判断されるが、そのヴィクターでも、デスと遭遇すれば逃げる以外に有効な手段がない。
実力をもって撃退することも不可能ではないが、「死」という概念を消滅させることなどできるはずもなく、不死を謳っているヴィクターも完全に「死」の可能性を排除できていない以上、いずれは捕らわれるのだ。
吸血鬼程度の不死など、それの前では余人と同じ。
吹けば消える灯のようなものでしかない。
むしろ、死を忌避して不死化した者たちからすれば、より強い恐怖を覚えることもある。
ニコルも、これまで経験したことのない強い恐怖に、一も二もなく逃げ出した。
時空魔法の深奥などという妄想だとか、彼を持て囃してくれる取り巻きたちの安否など気にかけている余裕など無かった。
もっとも、この迅速な逃走の判断は間違いではない。
逃げ遅れるとどうなるかは火を見るよりも明らかで、帰ってこれなかった者もいたのだから。
それによって、助かった取り巻きたちの一層の賞賛を受けて最低限の自尊心は守れたものの、それでよしとできるものではなかった。
デスの最も有効な対処法は「逃げる」ことである。
逃げることに関しては、時空魔法使いは群を抜いて優秀である。
しかし、時空魔法でデスを斃すことはほぼ不可能である。
デスは元より高い耐性を持っている上に、多少とはいえ時空魔法も使うため、攻撃手段としてはほぼ役に立たない。
逆に、吸血鬼では、デスの持つ「即死」をはじめとした各種状態異常のひとつにでも引っ掛かると終わる。
反面、機動力はそれほど高くなく、多少逃げ足が速ければ逃げることも不可能ではないし、特段の事情がなければ深追いもしてこない。
であれば、逃げるのが正解である。
しかし、使役されているデスというのは、その「特段」に当たる。
使役者が命じれば、デスはどこまでも追ってくるだろう。
デスを使役したという前例がないために推測となるが、召喚魔法等の例と照らし合わせると、そう考えるのが妥当である。
そもそも、デスを使役するなど、「時空魔法の深奥」と同じレベルの与太話だが、使役者らしいバケツを被った有翼人風の何かは、気配や存在感は異常なほどに希薄なのに反して、なぜか目を離せない――彼らの理解できる範疇にない存在だった。
それの正体や目的は分からなかったが、それが「やれ」と命じれば、デスはどこまでも追ってくるのだ。
吸血鬼になって以来、初めてのピンチだった。
ニコル派の吸血鬼たちは、それからしばらくは厳戒態勢を敷いたまま過ごすことを余儀なくされた。
幸いにも、デスが追撃に来ることはなかった――すぐには追撃が来なかったという意味で、長距離の《転移》で逃げた彼らを見失ったとか、そもそも追撃の命令を出していない可能性が高い。
だからといって、確認したわけでもないので安心できるわけではない。
最低限の警戒は維持して、活動も情報収集と偵察が主になった。
この時、デスや正体不明の存在のことをヴィクターに報告していれば、その正体を掴めた可能性もあったかもしれない。
しかし、報告を上げたせいで捨て石にされる可能性もあったため、彼は逃げ道の多い方を選んでいた。
デスとの再遭遇を警戒して、あまり派手な活動ができなくなったニコルだが、それで活動を止めるという発想はなかった。
デスは怖いが、引き籠っていても彼の承認欲求は満たされない。
それは彼にとって、「死」と同じくらいにつらいものだったのだ。
ただし、何をするにしても危険度が上昇している。
基本的に他人を信用していない彼は、この状況では他人を使うこともできない。
万一、ドジを踏んで捕らえられて、拷問や《洗脳》で情報を漏らされたりすると――そうした危険性を考えると、内通者との接触も、いざとなれば《転移》で逃げられる彼自身で行わなければならなくなった。
当然、大した情報を寄こさない内通者との接触を止めるという選択肢もあった。
それでも、何の情報もないよりは本隊の現在地や目的地、付近の隠れ家の情報程度でもあるに越したことはない。
それに、今となってはデスの目撃情報なども得られるかも――という期待もあった。
そういった人の目が無いところでの裏方仕事は彼の好みではなかったが、他に適任がいない。
どうにか、その後の賞賛に繋がるものだと自分を騙すように、甲斐甲斐しく動いた。
また、ニコルたちが拠点としている、狩人たちの隠れ里から遥か西方で、家畜の調達に出かけていた彼の派閥の吸血鬼の一部が、バケツを被った謎の集団と遭遇して逃げ帰ったという報告もあった。
それならば、それとは逆の、東にある内通者の所在地は比較的安全かもしれないという打算も働いた。
もっとも、バケツを被った集団とデスの使役者の関係性は不明であり、その集団を避けたからといって使役者からも離れているということにはならないのだが、デスの恐怖と承認欲求の間で見事に正常性バイアスが働いていた。
そして、何度かは何事もなく過ごせていて、日常を取り戻し始めたところに油断があった。
ニコルは、いつものように内通者を人気の無いところへ呼び出すと、本隊やライアンの情報を聞き出していた。
その内通者は、狩人の本拠地襲撃の際に捕獲した捕虜のひとりで、純潔ではなかったため食料には向かなかった女性だった。
そこで、労働力か繁殖用にしようかと考えていたところ、彼女は我が身可愛さに自分から仲間を売ったのだ。
状況次第であっさりと仲間を売る姿勢はニコルにも共感できるものだったが、だからといって信用できるものでもない。
むしろ、同族嫌悪も加味して一層の嫌悪感を抱いていたが、女の方はニコルたちの信頼を得るために、彼らの期待以上に働いた。
それこそ、彼女の命以外の全てを差し出す勢いで、ついには恋人まで売った時には、さすがの吸血鬼たちもドン引きした。
吸血鬼たちも元は人間で、吸血鬼化の影響で精神も変容しているとはいえ、人間の感情が分からなくなっているわけではないのだ。
ニコルたちは、そんな彼女を、用済みになれば始末すればいいと、ひとまず飼っておくことにした。
彼女が次に裏切るのは、ニコルたち以上の戦力を持つ勢力と接触したときだと考えれば、これ以上分かりやすいものもない。
いくら彼女が鉄面皮でも、デスやそれを使役する存在と出会っていれば、どこかしら態度に出るはずである。
同族だからこそ、ニコルはそれを見抜く自信があった。
彼女の様子はいつもと同じだった。
彼女には、もう出せる情報はほとんどない。
それでも、必死に情に訴えようと、情報以外にも役に立てるとアピールしている。
捨てろと命じれば、尊厳すら躊躇なく捨てる勢いである。
これが演技だとすれば、神でも騙せるレベルだとニコルは思った。
それに、彼女が提供してきた情報には、ニコルたちを嵌められる要素はひとつもなかった。
強いていえば、このところ、隠れ里の人々が空き時間に鍛錬をしている様子を目にすることが増えたことくらい。
つまり、最後となるであろう収穫が終われば、彼らも何かしらの行動を起こすということだ。
しかし、それはある程度予測できていたことで、肝心のデスを使役できる存在との関連性が窺えないため、別問題だと判断した。
だから油断していたというわけではない。
時空魔法の適性があれば、《転移》時の空間の揺らぎを感じ取るのは難しいことではないし、魔法の構築速度や精度に差があれば、その間に妨害や反撃を行うことも不可能ではない。
当然、ニコルも空間の揺らぎを察知して咄嗟に身構えたが、それは本命を悟らせないための陽動だった。
ニコルがそれに気づいたのは、内通者の女と分断されてからだった。
自身以上の時空魔法の使い手と出会ったことのなかったニコルは、そういった《転移》の使い方を考えもしなかった。
また、適性があるがゆえに、その鮮やかすぎる《転移》が、彼のものより遥かな高みにあることも、否が応でも理解させられた。
その直後、ニコルは激しい衝撃を受けた。
それがニコルの自尊心が傷付けられた精神的なものではないことは、彼の《苦痛耐性》を貫通した痛みからも明らかである。
物理的にも耐性的にも強化された吸血鬼の身体を害せる者がいる。
しかも、痛みを覚えるまで全く存在に気づかなかった――圧倒的にレベルが違う者がである。
彼がその正体に気づくには、少しばかりの時間が必要だった。




