43 愛と豊穣の女神は寛容すぎた
アイリスの能力では、コウチンを相手に一対一で勝利することはまず不可能である。
ルイスを駒に、持久戦に応じたとしても、勝率はさほど変わらないだろう。
HPや外傷は癒せても、精神に負ったダメージまでは癒しきれないのだ。
そして、間合いの有利もいつまでもあるものではない。
古竜の中では鈍間な黄竜でも、人間よりは遥かに速いのだ。
ユノの前では駄犬と化す銀竜や赤竜も、人間から見れば大災害を象徴する存在である。
人間が力を合わせたからといって、そうそう克服できるようなものではない。
階梯を上げていけば、いずれその可能性も出てくるだろうが、いくらアイリスの意思が強くても、それだけでなし遂げられるものではない。
命を懸けるというのは命を捨てることと同義ではなく、死に臨んだだけで階梯が上がるなら誰も苦労はしないのだ。
それでも、アイリスには特殊な人脈があり、それによる特殊な手札もいくつかある。
それらは基本的に分不相応な能力で、目に見える形でなくても何らかの代償を要するものである。
もっとも、アイリスはそんなことは承知の上で、使う必要があれば躊躇なく使う。
これから神を手籠めにしようというのだ。
そんなことで怖気づいていては何もできないと、覚悟はとうの昔に完了している。
「セーレ!」
アイリスが切った手札は、悪魔召還だった。
貴族級大悪魔となると、古竜とも格が近い。
とはいえ、セーレが貴族といっても末席であることや、それ以前に、相性的に竜に勝るものはシステム上存在しないことは、アイリスも承知の上である。
つまり、セーレは捨て駒として召喚されたのだ。
「毎度ありがとうございマース。今回はどのようナ――おっト、これは酷いデース」
アイリスの心証を良くしようと、特に状況を確認することなく召喚に応じたセーレは、この状況に困惑した。
以前の、土竜とは比較にならない修羅場である。
召喚されたセーレも莫迦ではない。
アイリスの意図を瞬時に把握した。
湯の川では銀竜や赤竜と、そして愛と豊穣の女神とも交流があり、ついでに抜け目のないアイリスが、それぞれの力関係を把握していないはずがない。
貴族級悪魔としては下から数えた方が早く、そもそも戦闘向きの能力ではないセーレが古竜に勝つ――撃退するなど、どう考えても無理がある。
「マジか――いや、ユノの連れなら、これくらい当然なのか」
しかし、貴族級悪魔の召喚は、高い魔力を持つ悪魔族でも――というより、魔力が高いだけでできることではない。
ルイスも、実際に貴族級の悪魔を見たのは初めての経験である。
しかし、驚いたのも一瞬のこと。
ユノを初めて見た時に受けた衝撃と比べるとさほどのものではないため、すぐに平常心を取り戻した。
それに、能力的にも相性的にも劣る自分より、よほど良い的になってくれるのではと期待を抱いた。
「人間が悪魔を召喚だって!? だけど、悪魔が1匹増えたくらいで結果は変わらないよ!」
コウチンも、まさかこの場で悪魔が出てくるとは思いもしていなかった。
それでも、少々面食らった程度で、かの悪魔の名から推測される能力や、悪魔の性質を考えると、むしろ戦いやすくなったくらいである。
コウチンが危惧していたのは、自棄になった彼ら――特にルイスが、自爆テロ的に瘴気を撒き散らすことである。
強大な力を持ち、相性的にも苦手がなく、性格的にも好戦的な竜である彼が好き放題に暴れないのは、瘴気に弱いという弱点があるからだ。
神や悪魔、そして竜のような高位の存在であれば、瘴気の原因となる余剰魔力や強い負の思念をそうそう撒き散らすことはない。
保有している魔力と、使用する魔法の相性がいいので、仕様上当然のことである。
それでも、全く瘴気を発生させないということではないが、多少暴れた程度でシステムの浄化能力を上回る瘴気を発生させることはない。
しかし、圧倒的に力に劣る人族の負の感情は、容易に瘴気を発生させる。
さらに、人族の弱さは、自らを滅ぼす愚行にも容易に走らせる。
極めつけに、悪魔族は、身体能力や魔力だけではなく、愚かさまでもが人族の上位互換の存在である。
自浄能力を期待されていた、知性が上位互換だった者たちは、すっかり淘汰された後なのだ。
コウチンは、悪魔族としては理性的なルイスを気に入っていたが、それは彼が日本人としての価値観を持つ転生者であったからである。
その事実と、異世界人の価値観を知らないコウチンは、ルイスを全面的に信用するには至らない。
一方で、悪魔はその邪悪なイメージとは裏腹に、戦い方はクリーンである。
相手の嫌がるところを的確に突いてくるが、それは戦いにおいては当然のことであり、勝利のために本来の目的を見失ったりはしないという意味である。
「フフフ、さすガあのお方が目をかけるだけあるのデース! まさカ、悪魔を捨て駒にしようトハ! しかシ、この場においては正解デース!」
セーレの表向きの立場は、アクマゾン所属の販売部門統括兼ユノとの渉外担当となっているが、本質的には、この世界の管理者の末席に名を連ねる者である。
そして、この局面において、黄竜や大魔王の暴走を食い止めることは、世界の安定のためには重要な使命である。
とはいえ、セーレの能力では、ひとりではかなり難しい――というか、ほぼほぼ不可能なことである。
彼の得意とする能力は特殊な《転移》と金の力で、直接の戦闘ではあまり役に立たない。
一応、《転移》は使い方次第のところもあるが、敵対者の強制《転移》は簡単なことではないため、警戒させて行動を制限させる程度のものにしかならない。
アイリスも、それを期待して彼の名を明かしたのだ。
しかし、アイリスにはまだセーレ以外の貴族級悪魔とも契約、召喚できるだけのポイントがある。
どんな悪魔を召喚するかにもよるが、もう一柱増えれば戦局は大きく変わるだろう。
セーレにとって、アイリスに彼以外の悪魔と契約されて、今後出番が減るようなことになるのは面白くない展開だが、ユノとの渉外担当という立場を得た今、彼女との契約はそこまで重視するものでもなくなった。
むしろ、そうしてポイントを消費してくれた方がアクマゾンの利益にも繋がるし、経済も回る。
しかし、アイリスの次の行動は、セーレだけでなく、ほかの全員の期待を裏切るものだった。
「少し時間を稼いでください!」
アイリスはほかの悪魔と契約するでもなく、《固有空間》から怪しげなオーラを放つ短杖のような物を取り出すと、彼女が信仰する神とそれに祈りを捧げ始めたのだ。
とても異様な光景だった。
異世界日本からの転生者であるルイスと、それを贈った本人であるセーレには、それが何なのかを知っている。
しかし、知っている使い方ではない。
アイリスが何をやろうとしているのか、さっぱり理解できなかった。
この世界の知識しかないコウチンには、それが何かすらも分からなかった。
それでも、それが途轍もなく危険なものであることだけは理解できた。
駆動音を上げて高速で振動するそれに、瘴気でこそないが、怨念のような、執念のような、ひたすらに尖ったアイリスの強い欲望が収束していく。
そうして、傲慢・憤怒・嫉妬・怠惰・強欲・暴食・色欲――俗にいう「七つの大罪」をごった煮にしたような、あるいは人間そのものともいえる罪が、形をなしていく。
そこに、愛の名の下に何でも許容する神の加護が加わり、それを表現する言葉が存在しない、悍ましい何かが生まれようとしていた。
それはアイリスの領域とでもいうようなもの。
ユノに対する、そして周囲の人に対する欲望や感情がひとつになった、間違いなく彼女の一部であり、彼女の心の形であった。
あえて名付けるとすれば、「世界を食らう蛇」、若しくは「心のチ〇コ」か。
ユノを傷付け、喜ばせる可能性を持った、アイリスの愛の結晶である。
幸か不幸か、それは人間に制御できるようなものではなかった。
幸運なのは、世界である。
それが完全な形で創造されていれば、コウチンだけではなく、世界もまた大きな被害を負っていただろう。
不幸なのは、アイリスである。
何かを勘違いした不完全な領域でも、人間に制御できるような代物ではない。
本来ならすぐに崩壊してしまうものなのだが、それを構成する感情や欲望が強固すぎるためか、そうなる気配がない。
その結果、アイリス自身が領域に侵食されるという状況に陥ってしまった。
ただ、不幸中の幸いというべきか、アイリスが装備している朔からのプレゼント――侵食耐性のあるロケットと、アイリス自身が持つ高い侵食耐性のおかげで、辛うじて存在を保つことができていた。
それらが無い普通の人間であれば、刹那ともたずに存在が崩壊していただろう。
アイリスがこれほど高い侵食耐性を持っている理由は、やはりユノにある。
ユノは、彼女自身にそんなつもりはなくても、彼女と接触した世界を侵食し続けている。
とはいえ、これは彼女に限ったことではない。
人間同士がコミュニケーションを取ることで、片方、若しくは双方が影響を受けるようなものも、ある種の侵食である。
世界は互いに繋がることで影響を与え合い、受け合って、より大きく複雑な世界を形成するのだ。
当然、ユノもユノ以外のものとの接触で侵食を受けているのだが、世界としてのスケールも階梯も違いすぎるために、本質的なところにまでは影響を受けない。
他方も、ユノの状態次第ではあるが、理由が分からない感動や執着、反発といった影響を受けるに止まっていることが多い。
しかし、ユノの創った飲み物や料理が与える影響は、それだけでは済まない。
ユノの創ったそれらは、良質で濃厚な魔素の塊であると同時に、ユノから切り離された彼女の欠片とでもいうものである。
生命そのものを、その根源を口にしていたのだ。
美味しいのは当然である。
そして、食べていたつもりが、食べられもしていたのだ。
とはいえ、ユノとしては、掛け値なしに美味しいものを食べてもらおうとしているだけである。
それで自制心を失ったりするのは、食べる側の胃というか魂や精神が脆弱なだけである。
それに、ユノがそれを望んでいないという前提があるため、人間を人間でなくすような、個人を個人でなくすような侵食にならないのは救いともいえる。
それでも、彼女の料理を食べ続けたリリーや雪風は、料理のせいだけではないとはいえ特殊な進化を果たし、一部の亜人や魔物たちも微妙な進化を遂げていた。
ミーティアも脱皮をするほどに成長したし、加減を間違えたご飯を食べたロメリア国王夫妻は若返ったなど、「成長著しい」で済ませるには無理があるものもある。
だとすれば、アイリスにも何かしらの変化があったとしても不思議ではない。
アイリスは、食事を漫然と摂っていたわけではない。
イメージトレーニングを代表するように、イメージが肉体や精神に与える影響は、一概に「オカルト」とはいいきれない効果がある。
アイリスは、ユノの料理を食べる際、「これはユノの手料理。料理は愛情。つまり、これはユノの愛!」と、全身全霊でユノを感じながら食していた。
そして、アイリスは料理が絶望的に不得意なため実現していないが、彼女は愛する人に料理を作る際には、コッソリと、若しくはゴッソリと不適切な物を混入するタイプの人間である。
アイリスにとってそれは愛であり、決して異常行動でも犯罪でもない。
当然、ユノにもそうしてほしいと思っているし、そうしていると思っている。
つまり、飼い主が大好きなあまりに想像妊娠してしまう飼鳥のように、あながち解釈を間違っていない上に、想像力でブーストしていたアイリスは、ユノの料理やユノとのコミュニケーションの恩恵を誰よりも受けていたのだ。
そうして出来上がったのが、邪神の目から見ても「ヤバい」代物である。
いろいろと勘違いしていて、アイリス自身を傷付けるものだが、確かに邪神を傷付け得るものである。
邪神を傷付けられるとすれば、当然、それ以外のものに対しても非常に大きな殺傷力を持つ。
そして、生物とは、本当に危険なものを本能的に感じ取るものである。
「お、おい、それは何だ!? それで何をするつもりだ!?」
前世のルイスがいかに正義の味方を目指していたとはいえ、アイリスが手に持つそれの特殊な使い方は知っていた。
その上で、自身のモノと勝るとも劣らないアイリスの領域の禍々しい形に、ルイスは戦慄を覚えていた。
周囲の空間――世界を貪るように蠢くそれは、彼がこれまでに見てきたどんな武器や魔法――知識の中にある核兵器よりも性質が悪いものだと、本能で理解した。
「瘴気――じゃないみたいだけど、もっと性質が悪い気がする! しかも、制御しきれてない! 正気か!? これだから人間は嫌いなんだ!」
コウチンには、それに近いものに心当たりがあった。
竜神の吐く9種のブレスのひとつ、《腐食》のブレスである。
生あるものを、大地や世界すらも腐らせるそのブレスは、黄竜の防御力でも防げないもののひとつだ。
当然、全く違うものである。
腐ると、彼らにとっては更に酷いことになるものだ。
ただ、コウチンの防御力を貫通する可能性があるという意味では正解であり、口惜しいことに本能がそれを認めてしまっている。
むしろ、直感を信じるなら、死よりも酷い、未来永劫消えない傷を負うかもしれないものである。
「オォウ……。特注品とはいエ、神器でもない物をあそこまでカスタムするとは、さすがに予想外デェス……」
花弁を模したユノの領域を見たことがあるセーレは、アイリスのそれが領域――比較するのも烏滸がましい悪質なものであることをひと目で見抜いた。
しかし、そんなものであっても、人の身でそこに至ったことは驚愕に値する。
とはいえ、それは人ごとであればのこと。
その触媒として、彼が贈った特殊なマッサージ器が使われていたとなると、責任問題に発展するおそれがあった。
「あぁ……、やっぱりアイリスはいいなあ……」
ただひとり、ユノだけはアイリスの進化に感動し、熱っぽい溜息を吐いていた。
それが実体化していてのことであれば、その上気して艶を帯びた様子は多くの者を虜にしていただろう。
アイリスの怪しげな儀式は、「真の魔法」に至るためのものだった。
それが、ユノの考える階梯の上げ方とは違うものであっても、それが自身の純潔を奪うためのものであるなど思いもしなかったとしても、そこに至った事実と努力にユノは大きな感動を受けていた。
もっとも、それは手放しで賞賛できるものでもない。
「うごごごご……!」
アイリスは、邪念に塗れた己の領域による逆侵食で、暴走寸前の状態にあった。
白目を剥き、涎を垂らしながらそれと同じように振動しているという、乙女にあるまじき醜態を晒している彼女に、平素の楚々とした姿の面影もない。
念願叶って領域を出せたはいいが、それは本来踏むはずの段階をいくつも飛ばして、邪道を用いてのことである。
様々な要素が重なって存在を維持できているだけでも奇跡であるが、そんなことは何のフォローにもならない。
ユノも、アイリスが自らの意志で戦って死ぬだけであれば、悲しみと共に受け容れて、彼女の転生か彼女の存在を受け継ぐ子たちの誕生を待っただろう。
しかし、自らのものとはいえ、このような邪悪な領域に侵食されてしまえば、魂が壊れて正しく根源に還れないだろう。
そうなると、転生どころか死の持つ意義さえ失われてしまい、次代へ可能性を繋ぐことができなくなるおそれがある。
それに、運良く死なずに済んだとしても、根源的な意義を失って、廃人となる可能性が高かった。
そうなっても、ユノは輝きを失っってしまった彼女を献身的に看護し続けるだろうが、いずれにせよ、それらはユノの望むものではない。
ユノが望むと望まざるにかかわらず、アイリスの暴走は本人の意志では止められる状況になかった。
それは、アイリスが意識を失っているからだけではなく、彼女自身と彼女の領域では、後者の方が階梯が上であるため、意識があっても制御をすることが果てしなく難しいのだ。
そして、アイリスの欲望ともいえる領域は、その本懐を遂げようとユノを求める。
しかし、見つけられなかったため、仕方なく代替の獲物を求めていた。
そして、二キロメートル近く離れていたルイスやコウチンのいる場所へと這い寄ってくる。
当然、掘るためではなく、ライバルを排除するためにだが、どちらにしても悪夢としかいいようがないものである。
「お、おい! 何かヤベえぞ! あれが何か分からんが、品定めでもされてるみたいだ!」
死を覚悟してコウチンにも立ち向かったルイスだが、下腹部の辺りに悪寒を感じて、それからは逃れるように立ち回りを変えた。
「こいつ、僕を喰うつもりか!? 舐めるな!」
対してコウチンは、アイリスを仕留めるべく――世界を救うため、距離を詰めようと前進を始めた。
そんな彼に、アイリスの領域は「理解させてやる」とばかりに、大きく太く禍々しく膨れ上がって襲いかかる。
ルイスの攻撃は回避も防御もしなかったコウチンも、アイリスのそれには危機感を覚えて、すんでのところで身を捩る。
不細工としか評しようがないコウチンの回避技術だが、それがアイリスの不器用さも引き継いでいたため、直撃だけは避けられた。
しかし、ほんの少し掠っただけで三百万近いHPを削られたとなれば、コウチンの顔色も変わる。
クリーンヒットを食らえば確実に死ぬ。
ユノの領域で人が死なないのは、ユノがそう加減しているからで、そういった配慮がないアイリスの領域は、ただひたすらに世界を破壊する。
それには、彼が誇る防御力にも体力にも意味が無い。
コウチンは、苦手であっても必死で回避することを余儀なくされた。
領域としては不完全なそれは、発生源に近づくほど濃く強くなる。
距離を詰めれば攻撃も熾烈になり、回避も難しくなるが、彼の間合いにまで接近しなければ、ただ嬲られるだけである。
近づくにつれて凶悪さを増していく気配は、ただでさえ遅いコウチンの足を更に鈍らせる。
最初は、アイリスを物理攻撃で叩き潰そうとしていた彼も、記憶にあるヘラ以上にヤバい存在にはそこまで接近できる気がしない。
ヘラには一目惚れした彼も、これには心も体も委ねられない。
惚れるよりも惚れられた方が幸せという人もいるが、掘られた方が幸せというのは聞いたことがない。
そんなわけの分からないことを考えてしまうくらい、彼の精神は追い詰められていた。
コウチンは、どうにか残り五百メートルまでアイリスとの距離を詰めたが、既に体力も精神もボロボロだった。
彼がまだヤラれていないのは、アイリスが不器用だからと、未経験だからでしかない。
コウチンの魔法の最大射程は、およそ三百メートル。
人間なら賞賛されるレベルだが、古竜基準だと短い。
ブレスなら五百メートルくらいは届く。
しかし、ブレスを吐こうと隙を曝すと、それに口内を蹂躙されるような気がして、口を開くことすら躊躇ってしまう。
できればもうアイリスのことは諦めて逃げたかったが、後ろを見せるのは危険すぎる気がして、引くに引けなくなっていた。
やり場のない想いは怒りとなって、この世界の危機に手伝おうともしないルイスやセーレに向けられたが、状況がそれどころではないので非難もできない。
「――《石壁》! 《石壁》! 《石壁》!」
コウチンは、物理攻撃が可能な距離まで近づくことはできないと悟ると、目くらまし代わりの《石壁》を乱立させる。
ユノのように領域で認識する相手であれば無意味な抵抗だが、領域初心者のアイリスには、壁の大きさもあいまって効果覿面だった。
もっとも、硬さにも自信があった《石壁》が豆腐のように易々と貫かれ、見下していた弱者のようにコソコソ隠れ逃げ回るしかないというのは、彼のプライドを随分と傷付けるものだった。
とはいえ、体力自慢の黄竜が、このような消極的な戦法を採っている時点でプライドも何もあったものではないが。
「――《石槍》!」
そうして、ようやく攻撃魔法の射程にまで距離を詰めると、竜眼に時間と集中力を割くことも諦め、神にも祈るような心持ちで、アイリスに向けて、非常に隙の少ない初級魔法を魔力の続く限り放った。
魔法が不得意なコウチンではあるが、パラメータ的には人並み程度――人族的には達人レベルで使える。
そして、それが自身の属性と一致したものであれば、威力や精度などは跳ね上がる。
コウチンが使えば、土属性魔法の中でも初級に属する《石槍》でも、タングステン合金に匹敵する硬度と重量を持つ物を生成できる。
それが、音速に近い速度で、更に回転しながら標的を穿つ――槍というよりは、ドリルと称した方が近い凶悪な魔法に変わる。
威力的には人族基準の上級魔法にも劣らない。
距離減衰も考慮しても、生身のアイリスを仕留めるには充分な威力がある。
現代の戦車の装甲すら貫くであろうそれが、アイリスを取り囲むように全方位から出現する。
しかし、そこはアイリスの領域の中でも最も濃い場所である。
アイリスに意識は無いとはいえ、彼女の本能とも欲望ともいえる領域にも自己保存本能が存在する。
それに従って、瞬間的に一層逞しくなった領域が、そのほとんどを弾き返す。
しかし、領域に強弱や濃淡が存在するというのは、その領域が不完全なものだという証明である。
完成された領域というのは、どこを切り取っても等しい可能性で満たされた、魔法の極致ともいえるものである。
不完全な領域の、可能性の薄くなったところを、コウチンの《石槍》のひとつがすり抜ける。
そのまま、彼女の心臓付近にクリーンヒットした。
戦車をも貫く《石槍》とはいえ、世界を喰らう《領域》を超えたのは奇跡としかいいようがなかった。
しかし、現にアイリスはそれによって吹き飛ばされ、禍々しいオーラを纏った短杖はその手から離れている。
それでも、いまだにそれからは領域が展開されたままで、獲物を求めてヘビのように鎌首を擡げていたる。
コウチンは、アイリスを殺すことに躊躇は無かった。
殺せるかどうかは神頼みだったが、あれが当たったのであれば、死んでいなければおかしい。
そして、彼女が死ねばこのヘビも消えるものだと思っていただけに、そのあまりのしぶとさに思わず怯んでしまった。
そこに、アイリスが死んではいないことを知っていた者がいた。
アイリスとの契約が有効なままであるということは、彼女がまだ生きているということ。
むしろ、死んでくれていた方が収まりがよかったのだが、ユノが観ている可能性も考えると、このまま止めを刺させるわけにもいかない。
「好機デース!」
セーレは一瞬の隙を突いてコウチンに接近すると、彼のエクストラスキルである《送了無量》――いかなるものをも、一瞬でどこにでも運べる能力を発動して、彼と一緒に姿を消した。
そうして、戦場に静寂が訪れた。
残されたのは、展開についていけないルイスと、意識を失っているアイリス。
そして、徐々に存在を崩壊させつつあるアイリスの領域。
「命拾いした……といえるのか?」
しばらく呆けていたルイスは、コウチンと悪魔が消えている状況を認識して、安堵の息を吐こうと――いまだに蠢いていたアイリスの領域を見つけて、顔を顰めた。
「何なんだ、あれは? あの娘の切り札――完全に自爆技だが、そういう呪いのアイテムだったのか? カルマ値がゼロに近い娘に出せるようなものでもないし、多分そんなところだろうが……」
ルイスはそれを観察しながら、これからどうしたものかと思案した。
それが何なのかが判断できないため、迂闊には手を出せない。
その禍々しい何かが、カルマ値がゼロに近いアイリスとの関連性が見出せないこともあって、呪われたアイテムの力のようなものだろうと推測したが、それ以上のことは何も分からない。
結局は、アイリスの意識が戻ったときに聞いてみるほかないのだが、コウチンの魔法が直撃したはずのアイリスがなぜ生きているのかも不明である。
あれは大魔王であるルイスでも当たりどころによっては深手を負いかねない攻撃だった。
アイリスのステータスでは木端微塵になっていてもおかしくない。
とはいえ、ルイスの《鑑定》のレベルはそう高いものではなく、本人もそれは自覚しているので過信はしていないが、ほかに推測できる材料もない。
ひとまず、ユノと同様に「神の加護」とやらなのだろうと無理矢理納得させた。
それよりも、問題はそれを放っておいても大丈夫なのかである。
急速に崩壊を始めているそれは、放置したとしても、そのうち消滅しそうではある。
しかし、そんな希望的観測に従って、アイリスを連れてこの場から離脱したとして、ホラー映画の引きのように「to be continued」とならない保証はない。
かといって、最後まで見届けるという選択も、バッドエンドのフラグにもなり得る。
それでも、この機を逃して、続編でのお約束のパワーアップをされたりすると手の打ちようがなくなる。
それに、ユノにこんなものを見せるわけにはいかない。
やるなら今しかない。
ルイスがいくら魔界史上で屈指の大魔王でも、枕を高くして眠りたいという欲求はあるのだ。
「何か、カルマ値高そうだし、俺ならいけるか……?」
ルイスにはそれが何なのか、彼の《鑑定》では判別不能だったが、それから受ける印象で何となくそう思った。
俗にいう、正常性バイアスである。
それが悪であればあるほど、彼の正義は力を増す。
そしてそれは、彼の主観とシステムによって計測されたカルマ値による。
何をもって悪とするかというような哲学的知見は、このスキルには関係無いのだ。
しかし、「正義の敵はまた別の正義である」という言葉もあり、その程度はルイスも承知の上である。
それでも、「正義」の敵が「性器」になるなど、この時の彼には予想できなかった。
そうして正義と性器の世紀の対決が幕を開けようとしていた。




