30 歯車迷走
ライナーからレベッカに下された命令は、再び魔王城に潜入しての情報収集だった。
それは、《予知》に裏打ちされた前回とは違い、それが使えない状況での潜入となる。
それどころか、発覚のリスクを抑えるために、バックアップも期待できない完全単独任務であった。
当然、《予知》で回避できる危険もあるだろうが、期間に定めのない任務で《予知》を使い続けるのは、イオの負担が大きすぎて現実的ではない。
また、バックアップ要員にしても、魔王城に潜入できる練度の者がレベッカ以外にいないため、要所要所でならともかく、常時となるとレベッカの足を引っ張るだけになってしまう。
元より、何を探るのかも不確かな情報収集任務である。
とにかく、何でもいいので情報を集める――特にデーモンコアに関するものや、特殊であったり違和感を感じるものがあれば優先的に探ってほしいとの、具体性の欠片もない注文である。
ただでさえ人手不足の雷霆の一撃で、そんなことに人員を割くわけにはいかない。
そもそも、もっと中長期的に調査や解析を進めるのであれば、今すぐにそんな危険を冒す必要は無いのだ。
ただ、目の前にデーモンコアがあるという事実が、若い彼らの判断力を鈍らせ、焦らせる。
そうして、レベッカは再びラスボスの居城へと潜り込むことになった。
誰かひとりでも冷静に判断することができる状態であれば、「大魔王の暗殺」のような、彼女のレベルやステータスでは不可能に近い任務の方が、まだ目的がはっきりしている分だけマシだと気づけただろう。
しかし、レベッカにしてみれば、どちらにしても失敗は彼女の命で贖うだけのこと。
万が一にもライナーの情報を漏らすわけにはいかないので、捕まっても即自決しなければならない。
それでも、敬愛するライナーの役に立つならと、少女はふたつ返事で引き受けた。
彼女だけの責任ではないとはいえ、デーモンコアの奪取が不完全だったのかもしれないという負い目もあった。
そして、決死の覚悟で潜入を試みた。
◇◇◇
レベッカは、ライナーから「無理はするな」と言われていた。
彼が彼女の身を案じてくれているという事実だけで、彼女は頑張れた。
彼の言葉が上辺だけのものではないと、彼女だけではなく、団の全員が知っているからだ。
それでも、大魔王ルイスをはじめとした、化物の犇めく万魔殿に忍び込むには、「無理をせずに」などと、虫のいい話は存在しない。
彼女のユニークスキル《究極変化》は、格上にも通用する特殊なものだ。
さらに、彼女は対象の仕草や口調など、観察したものをほぼ正確にまねれる特技を持っていた。
それは、ただのユニークスキルである《究極変化》をエクストラスキルに匹敵する性能にまで引き上げるものだった。
そして、それをもってしても、格上に限らず、その人と親しい誰かを長時間欺き続けることはできないことを彼女は知っている。
そこには理屈ではない何かが存在するのだ。
だから、彼女は極力危険を冒さないようにしている。
任務の都合上、よく知らない人や、観察が不十分な人に化けなければならないケースもあった。
いくら彼女の観察眼が優れていても、いかにその人らしく自然に振舞えたとしても、知らないことまではまねできないのは当然のことだ。
そして、暗殺くらいしか攻撃手段と能力がない彼女にとって、バレることはすなわち死――とはいかないまでも、この上ないピンチとなる。
それでも彼女が今日まで無事に生き延びているのは、バレないラインの見極めが上手いことが理由である。
違和感を覚えさせても、積み重なる前に切り上げる。
そもそも、そういう状況に陥らないように、能力に頼り切らない。
前回のデーモンコア奪取の際も、能力の使用は要所要所での最低限のものだった。
そうやって彼女は大きな失敗を犯すことなく、どんな難しい任務も完遂してきたのだ。
そんなレベッカが、思いのほか苦労せずに潜り込むことができた魔王城で、これまでになく困惑していた。
表面上は以前と変わりなく見えていた魔王城だが、城内に入ると、なぜか一部のメイドたちがバケツを被っていて、ゾンビのように徘徊していたのだ。
何かがおかしいことは分かる。
むしろ、おかしいところしかない。
しかし、彼女の優れた観察眼でも、バケツには覗き穴などの加工が施されているようには見えず、それ以外にも不審な点はない。
それを証明するように、メイドたちはあちこちで壁や人にぶつかり、時には何もない所で転んだりしていた。
そして、兵士たちは、その様子を暖かく見守り、声援を送っていた。
これまで様々なものを人一倍見てきた自負のあるレベッカでも、ここまで理解に苦しむものを見たのは初めての経験だった。
そもそも、ほんの数日前に潜入した時は、高度に訓練された兵士やメイドたちの様子に、「さすがラスボスの本拠地だ」と、敵ながらに感心していたのだ。
それがたった数日でこの有様である。
変化の名手である彼女にも、苦手とするものがいくつかある。
その中のひとつが「狂人」である。
いくら上手に狂っている振りをしても、本物には本物にしか出せない空気というものがあるのだ。
そして、潜入先に狂人がひとりでも紛れているだけで、潜入難度が格段に高くなる。
彼女がいかに慎重に行動していても、狂人の起こすイレギュラーひとつで状況が一変することもあるのだ。
それに、組織の中でイレギュラーが許される狂人というのは、往々にしてかなりの実力者であったり、特殊な能力を持つことが多い。
何から何までかかわり合いたくない対象のトップである。
それでも、先に進むためには観察を続けて、隙や法則性を見いだすしかなかった。
レベッカは舌打ちしたくなる気持ちを抑えて、気づかれないように、細心の注意を払いながら、移動と観察を続けた。
奇行に走るメイドがおかしいのか、それを優しく見守る兵士がおかしいのか。
中にはバケツを被っていないメイドもいたが、彼女たちがバケツを被ったメイドに向ける視線には、羨望や嫉妬の色が混じっていた。
そもそも、何が原因でこんなことになっているのか。
とにかく、明らかに異常事態なのだが、これをこのまま報告していいものなのかが分からない。
デーモンコアとの関連も疑われないわけではないが、もしかすると、魔王城だけに伝わる奇祭であったり、大魔王の趣味であったりといった下らない理由だった場合は、ライナーを落胆させてしまうことになる。
それよりも、これが新手の状態異常であった場合――そして、それが感染するものであった場合、報告という行為自体が危険である。
万が一にも、こんな無様な姿を、ライナーや雷霆の一撃のメンバーに見せるわけにはいかない。
レベッカは、これを報告するのは時期尚早だと、もう少し具体的な情報を掴んでからにしようと、その日はそれ以上の潜入は諦めた。
潜入3日目。
ずっと魔王城の浅い所で観察を続けていたレベッカに、バケツを被りたくなるような兆候は現れなかった。
また、バケツを被っているメイドは日毎にローテーションしていることから、感染する類のものではないことは分かった。
しかし、相変わらず「何のために」かは不明なままである。
いまだに深部にまでは潜入できておらず、大魔王や幹部たちの動向は観測できていないため、ただのハラスメントや乱心である可能性は捨てきれない。
バケツの素振りをするメイドたちの姿を観測したので訓練という線もあったが、これが訓練だとすれば、あまりに高度すぎて理解できそうな気がしなかった。
メイドたちが被っていたバケツを脱ぎ、雑草のような物を投入して一心不乱に振る。
そして、中の物を取り出して一喜一憂すると、再びバケツを被る。
何の訓練だと、レベッカは声に出してツッコミを入れそうになった。
過去に潜入した、邪神を崇める狂信者の集会などでも理解に苦しむ儀式を見たことはあったが、これほどまでに理解不能なものは初めてであった。
何かの儀式なのかとも考えたが、魔王城でメイドがする理由が思いつかない。
そもそも、およそどのような訓練や儀式にも、目的というものが存在するはずである。
しかし、これからはそれが一切窺えない。
邪教や新興宗教などでは、ベースとなる儀式に独自性を加えることはあるが、何をどう拗らせればこのような儀式になるというのか。
唯一の手掛かりは、彼らがよく口にする「ユノ」という単語である。
それには「さん」とか「様」「ちゃん」といった敬称が付けられることが多いので、恐らくは人名だと思われる。
ユノという名前自体はそう珍しいものではない。
そして、それが特別な意味を持っていることは、誰もが知っている。
女神教が崇める神ヘラの別名とも、眷属の名ともいわれるものだ。
女神ヘラには肖りたいが、そのまま名乗るのは不遜である。
しかし、別名かもしれないし、他人かもしれないものならと付けられることが多いそれは、レベッカの仲間や知り合いの中にも数人はいるし、デーモンコアを発見したのもその名の少女だったはずだ。
当然、魔王城に勤める者の中にいても何ら不思議ではない。
しかし、敏腕諜報員としての彼女の勘が、その名を持つ存在が、この異変と無関係ではないと告げていた。
そうであってほしいと願い、調査方針を定めた。
潜入5日目。
能力だけは高い狂人の巣窟に潜入するのは、その道のエキスパートであるレベッカでも容易ではなかった。
イレギュラーだらけの潜入任務は、何度も発覚しそうになる危機に見舞われた。
それでも、メイドの格好をしてバケツを被っていれば、とりあえずはバレないことに気がついた。
しかし、それは同時に彼女の最大の武器である観察眼を放棄するということであり、一度被れば周囲の様子だけではなく、バケツを脱ぐタイミングすら見失ってしまう。
物理的にも比喩的にもお先真っ暗になってしまうのだ。
これ以上先に潜入するには、彼女自身もイレギュラーとなるしかない。
つまり、バケツを被って自由に行動できるようにならなければならないと、レベッカが少々病み始めた頃、偶然にも想像を絶するイレギュラーを目にすることになった。
身長は若干低めなものの、非の打ちどころの無い、見事な――というか、人体の構造を無視しているとしか思えないプロポーションの少女がいた。
それはただの造形だけに及ばず、呼吸や鼓動の影響すら感じさせない一糸乱れぬ繊細な所作に、その希薄な気配とは対照的な、神秘的と称してもまだ足りない存在感を発していた。
何ひとつ無駄なものがない――顔までもが完璧であれば、心の弱い者は面と向かうことすらできないかもしれないと考えると、頭に被ったバケツは当然として、それを飾り立てるには力不足なドレスも必要な物に見える。
むしろ、筋肉などの必要なものまで足りないことも、魅力なのではないかと思えてくる。
並外れた観察眼を持つレベッカでなければ、ここまでの衝撃を受けることはなかっただろう。
あえて表現するなら、「矛盾の塊が、それ以上の謎の説得力を持った、得体の知れない素敵な存在」である。
それは要注意人物であるにもかかわらず、違いの分かる彼女には、観測するだけでも精神に大きな負荷が掛かるものであった。
化けようなどとすれば、精神に異常をきたすであろうことは想像に難くなく、それ以前に化けられそうな気が全くしない。
それが、メイドたちにバケツの振り方を指導していた。
それでメイドたちの何かが変わったようには見えなかったが、そんな狂気の光景で感動してしまいそうになるのは非常に危険な兆候である。
ようやく見つけた手掛かりに、もっと詳細な調査をしなければと思う反面、無理をして発覚してしまうと、彼女ひとりだけのの問題ではなくなってしまう。
しかし、何の勝算もなしに調査続行などと考えていること自体が冷静ではない証拠である。
幸運にもそのことに思い至ったレベッカは、残った理性を総動員して、どうにかその場を離れることに成功した。
潜入何日目?
非日常の中、極度の緊張と疲労に曝され続けたレベッカの認識能力は、日にちも分からなくなるほど極端に落ちていた。
この数日で活動範囲は広がったが、大魔王周辺や一部区域の警戒は厳重すぎて、《究極変化》を駆使しても潜入できそうになかった。
それでも、全く成果がなかったわけではなく、いくつかの事実が明らかになっていた。
まず、例のこの世のものとは思えない存在が「ユノ」で間違いないこと。
また、デーモンコアを発見したユノと同一人物であることも判明している。
大空洞探索に同行したのが表の顔となる傭兵団だけで、さらに、裏の顔を知る幹部との情報共有が不十分だったのは事実だが、少し考えれば分かるようなことでもあった。
バケツを使った奇妙なトレーニングが、料理魔法の訓練であることも判明した。
その料理魔法というのが言葉どおりのものなのか、何かの隠語なのかまでは分からなかったが、それは、この世界を一変させるだけの力を持ったものらしい。
さすがに話半分で聞いておくとしても、体制派のエリートたちがこんな莫迦なことを大真面目にやっているのだから、何かしらの確証はあるのだろうとレベッカは判断した。
細かいことを除けば、分かったことはたったそれだけ。
しかし、それが途轍もないものの片鱗でしかないことくらいは、レベッカでなくとも、多少目端の利く者なら勘づいただろう。
正気を残していれば、であるが。
レベッカは僅かに残った理性で、報告のために一度連絡員と合流するべきかとも考えた。
しかし、報告すべき事柄をまとめてみると、幼子の語る夢の話か、はたまたとても正気とは思えないものになる。
そして、そんな時に限って事態が動く。
せめて何かもうひとつでも情報を裏付けるものでもあればと考えていたところに、当のユノが所用で外出するという話を耳にした。
魔王城での情報収集が難しい状況で、降って湧いた絶好のチャンスを逃す手はない。
そんな彼女が向かった先は、終息間際の火災現場だった。
英雄はトラブルに愛されるものではあるが、彼女が到着する少し前までは上がっていたであろう炎も、今は館から漏れる白煙にその名残を留めるのみとなっている。
中にいた人たちの生存は、絶望的というより皆無である。
どう見ても、今更英雄の出る幕は無い。
普通に考えればただの野次馬か、精々が後片付けを手伝う程度のものだろう。
しかし、レベッカには予感のようなものがあった。
普通のことが普通で済むはずがない。
常識で考えれば、建物内の人が生存している可能性はゼロである。
炎に対する完全耐性を持っていたとしても、熱によるダメージを受けないというだけで、それ以外の中毒や酸欠などに対する耐性はまた別である。
火の精霊であるとか、幾重にも防御魔法を重ね掛けすればあるいはといったところだが、それができる人はすでに脱出しているだろうし、そんな人でも今からの救助は不可能だ。
神や悪魔でも、全てに耐性を持ってはいないのだ。
なお、邪神の手によりシステムがアップデートされているので、実際にはそういうものも克服できる下地はあるのだが、それが活かされるようになるのは、利用者たちの階梯が上がってからのことである。
火災現場において、呼吸を止めての活動限界には個人差があるものの、幸運や能力がある者であれば、脱出するのにそれほど時間は必要無い。
それが、鎮火間際まで動きがなかったということは、生存に必要な条件が整っていなかった――運が悪かったことにほかならない。
もう救助活動をする段階ではなく、延焼などのおそれもない以上、建物に籠った熱が収まるのを待って、事後処理に当たるだけである。
しかし、そんな常識など知ったものかとばかりに、ユノはレベッカの期待を裏切ることなく、次々と奇跡と奇行を披露していった。
ユノが、知り合いらしき少年に惜しげもなく与えた魔法薬は、外傷を癒しただけに止まらず、治癒が不可能なはずの毛髪まで復元してみせた。
詳細については、少年の経過観察か解剖が必要ではあったが、現時点では幻の霊薬といわれるエリクサーと同等以上の物の可能性がある。
しかも、霊薬の中で何かが生きているらしく、それが体内に届くと効果を発揮するとか、保険がどうとか、レベッカの知らない技術の産物である。
できればサンプルを手に入れたいところだったが、ユノは少年の母親の救助をしに建物の中へ突入するという。
館の外部に炎は漏れていないとはいえ、まだ内部では火種が燻っていることや、建物に蓄積された熱が相当なものであることは間違いない。
いくら考えても、遺体の回収ならともかく、救助は手遅れである。
《蘇生》のつもりだったとしても、遺体の状況――それ以前に判別などの問題も出てくる。
しかし、そういった不可能なことを可能にするところに、彼女の秘密がある可能性が高いのもまた事実である。
当然、レベッカの能力では、館の中までは尾行することはできない。
そして、この規模の商会であれば《透視》や《盗聴》の対策を怠っていることは考えにくく、それらは火災程度で機能を失うこともないはずだ。
何か良い案はないものかと頭を捻るレベッカを余所に、ユノは奇行を続けていた。
それ自体はいつものことなので、レベッカも特に気に留めるようなことはなかったが、さすがに突然の神頼みとその結果起こった現象にはそうはいかない。
気流の制御や発光だけなら魔法でも再現可能なものだが、神を騙ってまでそんなことをする理由が不明である。
それ以上に、理屈では説明できない清らかな光に包まれた彼女の姿に、神の存在を感じずにはいられなかった。
そうして何をするかといえば、せっかく酸素を消費し尽して、鎮火の兆しを見せていた密閉空間に穴を開けて、新鮮な空気を送り込んでいる。
その結果どうなるかなど素人でも分かることを始めて、案の定爆発を起こして吹き飛ばされていた。
その場にいた野次馬たちの大半は、あまりに予想どおりの展開と意味不明な言動に――奇跡と奇行の落差についていけずに頭を抱えていた。
ただ、レベッカだけは、呼吸ができなくなるほどの衝撃を受けていた。
といっても、爆風でユノの被っていたバケツがずれて、その口元の辺りが露わになっただけ。
それも、観察が得意なレベッカでなければ見逃していたかもしれないほどの一瞬のこと。
しかし、レベッカが奇跡の存在を確信するには、それだけで充分だった。
バケツを被っている理由も、奇行を繰り返す理由も、それを隠すためなのだとすれば納得もできる。
そこまでしなければ――そこまでしても隠し切れないのだ。
レベッカはそう意識を改めてユノを見た。
吹き飛ばされて錐揉みしているように見えても、身体の制御は失っていない。
むしろ、錐揉みしている姿も美しい。
館の内部に突入してから消火をするという奇行も、その前に爆発を起こしたことも、全て計算の上のことかもしれない。
神云々の判断こそできないが、神を騙ることを微塵も恐れていない。
本当に神の奇跡なのか、それともただのペテンなのか。
見極めなければならない。
魔法を使えば、少なからずその痕跡が残るもので、それを解析すれば、ある程度の仕組みは分かるはずだ。
そう考えて、何が起きてもいいように身構えていたレベッカは、言葉どおり降って湧いた大水によって、なすすべなく押し流されてしまった。




