13 身体が逃走を求めている
――ジュディス視点――
お嬢様の様子がおかしい。
その原因が、こちらに向かって歩いてくる、バケツを被った怪人の影響なのは間違いない。
あれが副学長が言っていた、グレモリー家から派遣されたふたりのうちのひとり、その従者の方だと思われる。
だが、お嬢様に害をなすものを排除するのが私の使命。
そこに例外はない。
学園程度なら、どんな敵が現れてもお嬢様を守れる――という思い上がりは、早々に打ち砕かれた。
リディア殿のような規格外の存在はともかく、グレモリー家界隈にすら、キリク殿たちのような、私以上の使い手がいたなんて……。
全く強そうに見えないあれも、恐らくその系譜なのだろう。
勝てるという保証はどこにもないが、あれが近づくにつれて具合が悪くなっているお嬢様の様子を見るに、それはやらない理由にならない。
あれをこれ以上近づけてはならない。
しかし、お館様が送り込んだかもしれない人物を殺してしまうのはまずい――と、一応の加減はしつつ斬り込んだ。
だが、加減といっても、それは相手が防御行動を取ることを前提としたもの。
完全に捉えた――殺してしまったと思った。
なのに、手応えも、返り血も、経験値も、何もなかった。
躱されたことに気づいたのは一拍以上置いてから。
いつどうやって躱されたのか、全く見えなかった。
むしろ、最初から間合いの外にいて、一歩も動いていない――そう感じさせる自然さで、不自然にそこに立っていた。
そういえば、キリク殿が言っていた。
魔法やスキルではなく、純粋な技術のみで、それらと対等以上に渡り合う存在がいると。
そんな莫迦な――と思ったものだが、キリク殿のような強者がそんな冗談を言うとは思えない。
一応、留意だけはしておこうと思っていたところだった。
そして、これがそれなのだとすぐに理解した。
それから何度も斬りかかったが、まるで捉えきれない。
隙だらけに見えるのに、動きもそれほど速くないはずなのに、気がつくと間合いを外されたり潰されたり、タイミングも外され潰されて――一切攻撃されていないのに、完全に翻弄されていた。
すぐ側で、手を伸ばせば届く場所で背中を向けていても、私の攻撃は、直前の空振りの反動のせいで届かない。
既に加減などという勘違いは捨てた――にもかかわらず、結果は全く変わらない。
期待していたわけではないが、全く変化が無いのは、多少なりとも腕に自信があっただけに落ち込んでしまう。
だが、感傷に浸っていられる余裕は無い。
これまでは、当たりそうで当たらない位置や角度をキープしていた彼女に、真正面から懐に潜り込まれた。
虚を突かれたのは確かだが、予兆が全く見えなかった私に対して、大剣スキル《顎》(※斬り下ろしから斬り上げを行う初級スキル)の最中に割り込まれたのだ。
初級に属する基本スキルだからこそ、何千何万と繰り返した、熟練度が高いそれの初段を見切るとは――彼女の底が見えない。
攻撃はしてこないと、若干油断もしていたかもしれない。
実力にこれほど差がある相手に油断するなど、自分が恥ずかしくて仕方がないが、油断していなかったとしても防げたかは怪しい。
そんなことより、間合いを詰めたということは、つまり、攻撃に転じるということだろう。
これもキリク殿が言っていたことだが――間合いを完全に制することができるなら、武器なんてナイフ一本で事足りるのだ。
確かにそのとおりだ。
今この瞬間、彼女が隙だらけの私の首にナイフを突きつければ、それだけで私の命は終わるかもしれない。
だが、私の後ろには、守るべきお嬢様がいる。
命に代えてでも守る――逃げる時間くらいは稼がなくては!
隙の少ないスキルの初段を見切る相手に、その後の連携や派生が当たるとはとても思えないが、それでも私は他の手段を知らない。
半ば祈るように《顎》の後半部分、斬り返しを放とうとしたところ、全く予想していなかった足払いを受けて、体勢が崩れてしまった。
ふざけた格好をしているくせに、戦い方が上手い。
最小の労力で、最大の結果を手に入れている。
先ほどの「当たれば終わる」状況ではなく、「絶対に当たる」状況を作った。
しかも、それをバケツを被って――目に頼らず行うとか、どんな訓練を積めばこんな高みに至れるのか。
そんなことより、スキルがファンブルを起こすと思ったのに――いや、確かにファンブルしたはずなのだが、なぜかそれがキャンセルされた。
何が起こったのかは分からないが、結果だけを見れば、スキルキャンセルと同じ状態だった。
追い詰められたことで、私の才能が開花した――なんて都合の良いことがあるはずがない。
スキルや魔法のキャンセルは、誰もが知っている高等技術だ。
そのメリットも、デメリットも。
成功した時のメリットはいうまでもないが、デメリットは、キャンセル自体にファンブルする可能性があることと、成否にかかわらず余分な魔力や体力を使うこと、更に続く連携のファンブル確率が上がるなどなど――ギャンブル要素が強くて、想像しただけでも肝が冷える。
総合的にみると、スキルの組み合わせを工夫した方が効率的なこともあって、好んで使われることのない技術だ。
無論、まともに練習したこともない技術が、こんな場面で出てくるはずがない。
そもそも、そんなお遊びでしか使わないような小細工をいくら弄したところで、一撃貰えば全てが無駄になる。
それがなぜ――と考えている余裕は無かった。
降って湧いた好機でも、何かの罠であったとしても、剣を振らねば殺られるのは私の方だ。
身体も剣も間合いが近すぎるが、バックステップはおろか、テイクバックを取る時間の余裕も無い。
せめて、少しでも攻撃力を上げようと刃を立ててみたが、その隙が仇となったか、悠々と屈んで躱された。
――終わった。
無理に剣を振った反動で身体が流れてしまい、死に体になってしまった私に、次に来るであろう必殺の攻撃を回避することはできない。
言い訳をさせてもらえるなら、剣の横っ腹で吹き飛ばすことならできたかもしれないが、そうしたところで少しばかり寿命が延びるだけ――いや、それで怒らせてしまえば、私が殺されるだけでは済まない。
後は、私の鋼の肉体が誇る防御力が、彼女の攻撃力を上回ってくれることを祈るしかない。
もっとも、彼女ほどの技量があれば、クリティカル率も高いだろうし、仕損じは期待はできない。
(お嬢様、申し訳ありません。お嬢様とふたりきりの生活は、私にとっては至福の時間でした。――お嬢様に仕えることができて私は幸せでした。できることなら、もっとお側でお仕えしたかったのですが、どうやら私はここまでのようです。せめてお嬢様だけでもお逃げください)
殺すつもり――殺してしまってもやむを得ないと思って剣を振っていた私が、逆に殺されたからといっても文句を言えた筋ではない。
せめて、自身が最期に見る光景を目に焼きつけようと、覚悟を決めた。
だが、身体から余計な力が抜けて、観ることだけに意識が集中したからだろうか。
違和感の正体を、おぼろげながらにも捉えることができた。
彼女は屈んだまま私の足を踏みつけると、同時に頭上を通過した剣を後押しして回転を加速させた。
遠心力で流れそうになる身体が――流れない。
さきに踏まれていた足が軸になって――ステップを踏むように軸を移して、何だか分からないままに一回転させられた。
そうやって私の体勢を整えた上で元いた位置と姿勢へ戻り――表情は窺えないが、恐らく何食わぬ顔で待機している。
その目にしたはずのものを理解したのは、私の意思ではない攻撃を彼女が躱している時だった。
何が起こっているのか理解できない。
いや、私の必死の攻撃が、彼女にとっては人形遊び程度でしかないのだと認めたくないだけだ。
実力差があって負けるなら分かるが、これは何だ?
何をやっても見切られているという恐怖からか、ここでもまた悪手を選択――見様見真似のキリク殿の剣技に頼ってしまった。
自分でも笑ってしまうほどの出来の悪さ――だが、これも彼女によって剣筋や体勢を修正されて、「技」と呼べるものに昇華させられた。
その上で、その「技」を、それ以上の技術で躱して、更に距離を詰められた。
理解が追いつかない。
喰われる。
何の根拠もないが、そう思った。
恥ずかしながら、この時の私には恐怖しかなかった。
何よりも大切なお嬢様のことすら頭の中から消えていた。
誇りと共に剣を放り投げ、背を向けて逃げ出そうとしたところで、蹲っているお嬢様が目に映った。
それで多少の正気を取り戻せたのか、辛うじてお嬢様を抱え上げて走り出すことができた。
必死に足を動かそうとしているが、空転しているような感じがもどかしい。
あんな化物相手に、このまま逃げ切れるとは思えない。
振り向いて安心したいという気持ちと、振り向けばすぐ後ろにいるかもしれないという恐怖で気がおかしくなりそうで――そんな錯乱に近い精神状態の中、背後からすさまじい衝撃に襲われた。
その禁呪でも炸裂したのかというような衝撃は、私の全身を、そして魂までをも揺さぶった。
◇◇◇
そこからの記憶は曖昧だ。
なす術もなく訓練場の壁に叩きつけられて、大きなダメージを食らって、意識も失いそうになって――訓練場のダメージ軽減効果か、私の《不屈》スキルが発動して助かったのかは分からない。
身体が激しく痛む――あちこちの骨が折れているらしい。
脳が揺らされたからか、平衡感覚もおかしい。
だが、生きている。
とにかく、この場を離れなければと、お嬢様を抱えたままひたすらに走った。
どこをどう走ったかなど全く覚えていない。
お嬢様の無事すらも確認してなかったことは、不覚としかいいようがない。
気がつけば、訓練場から随分と離れた学舎の片隅でお嬢様に怒られていた。
ああ、お嬢様。
ご無事で何よりです。
無意識でも庇えていたことは、私の誇りです。
「あの人は味方だって分かってたでしょ!? 何で斬りかかったりしたの!?」
「そ、それはお嬢様の具合が悪そうで……。彼女が原因なのかと……。それで……」
かつてこれほどまでにお嬢様が怒ったことがあっただろうか――いや、ない。
確かに、味方だと言われていた人物に剣を向けたことの非は認めるが、それもお嬢様のためを想ってのこと。
その決断に後悔はない。
「そ、それは、何だか緊張しちゃって……。っていうか、あんなひと目で分かるすごい人に斬りかかるって、何を考えてるの!? それで余計に焦ったんだから! あの人はきっと、私たちじゃ勝負とかそういう話になるレベルじゃない――リディアさんにだってここまでの衝撃は感じなかったのよ!? 下手をすれば、学長先生とか、大魔王様に匹敵するかもしれない。そんな人に手を出すなんて……。ほんと、ジュディスが無事なのは、あの人に攻撃する意思が無かったからだよ!?」
「……申し訳ありません」
これに関してはただ謝罪するしかない。
相手の力量も見抜けない私の愚かさが招いたことだ。
ただ、言い訳させてもらえるなら、彼女からは魔力の波動とか覇気は全く感じられず、また、身体つきも戦士のそれではなかった。
魔法使い――いや、戦いとは無縁なメイドや町娘でも、もう少し筋肉がついているものだ。
だが、私にはただの不気味な――くらいに美しい人にしか見えなかったというのに、お嬢様はひと目で彼女の強さを見抜いていたらしい。
さすがです、お嬢様!
「どうしよう……。やっぱり、謝りに行かなきゃ駄目だよね? 怒ってないといいんだけど……」
「少し頭を冷やしてから、私ひとりで謝ってきます……」
ここまで追いかけてこなかったことを思えば怒ってはいないように思うが、最後の爆発のような衝撃は一体何だったのか……。
もしや、逃げたことで怒りを買った可能性も……。
少し冷静さを取り戻してみると、そもそも、なぜ斬りかかってしまったのかが理解できない。
スキルによる《威圧》や、柄に手を掛ける示威行動までなら今までもしてきたが、いきなり斬りかかるようなことは初めてで――それ以前に、今にして思えば、彼女には全く殺気や敵意は無かったように思う。
そんな相手に斬りかかるなど、自分の行動が信じられない。
……あの時おかしくなっていたのは、お嬢様だけではなかったのか。
だが、相手にしてみればそんな言い訳で許せるはずがない。
そもそも、彼女は私を――お嬢様と私を、力を貸すに値する存在かを試していたのではないだろうか?
そう考えると辻褄が合う点が多い。
しかし、自らの力を見せるどころか、焦って小手先の技術に逃げ、あまつさえ本当に逃げ出した――冷静さを取り戻すにつれて、選択を誤りまくった事実が重く圧し掛かってくる。
正直、もう一度顔を合わせるのは非常に怖い。
だが、私の失敗で、私だけならともかく、お嬢様まで見限られるのは――お嬢様の夢を邪魔することになるのは、それ以上に怖い。
謝りに行こう。
菓子折りでも持って。




