36 和解
――第三者視点――
オルデア共和国のヤマト侵略と、九頭竜テイム作戦は、ヤマトとオルデア本国両方での要を失ったことで失敗に終わった。
当然、ヤマトに駐留していたオルデア軍が、オルデア式の統治を続けることは不可能となった。
それどころか、オルデア本国からの増援も、ヤマト侵攻の屋台骨であった前勇者の能力喪失によって不可能となっていて、本国に戻る術さえ失ったのだ。
そして止めとなったのが、オルデアの教会関係者に下された新たな神託である。
「旅に出ます。捜さないでください」
これ以上ないくらいに簡潔な神託だったが、意味が分からず、理由も分からない。
能力が高い巫女がいないため、問い質すこともできない。
つまり、見捨てられた――かどうかは定かではないが、当面は神の加護が期待できないのは間違いない。
そして、その《神託》はヤマトにいるシェンメイにも届いていた。
彼女の受けた、初めての《神託》がそれである。
彼女は、この世には神も仏もいないのだと思い知った。
そして、絶望していたシェンメイに追い打ちをかけるかのように、本国からの通達があった。
「ヤマト方面での軍事行動は、全ては神の意を曲解したチェンロン将軍、及びシェンメイらが独断で行ったことであり、オルデア共和国の総意によるものではない」
それは、誤解の余地も無い切り捨てであった。
無論、オルデア共和国としても、そんな戯言が通ると本気で思っているわけではない。
しかし、オルデアも勇者を失って、兵力も激減し、それらを補充する目処すら立っていないのだ。
万一でも、「それで済ませてもらえれば儲けもの」くらいの感覚である。
これで、シェンメイの後ろ盾は何も無くなってしまった。
しかし、彼女ひとりが不幸だというわけでもない。
むしろ、中長期的に考えると、今後百年は衰退を続ける――場合によっては滅亡する可能性すらある、オルデア本国の方が不幸だともいえる。
進退窮まったシェンメイは、すぐに人質となっていたヤマトの重鎮たちの解放を決定した。
同時に、アルフォンス・B・グレイとユーフェミア姫に、講和条約締結に向けての話し合いをしたい旨の書状を持たせた使者を送った。
彼女の生き残る道は、アルフォンスの恩情に縋るくらいしかなく、先に人質の解放を決めたのも、少しでも心証を良くするためである。
人質を丁重に扱っておいてよかった。
純粋で無能な女を演じておいてよかった。
大して能力は上がらなかったとはいえ、巫女の修業をしていてよかった。
状況は全然よくないが、一発逆転――ギリギリセーフになる材料は残されている。
後は、彼らの前で、どれだけ自分も被害者であったのかをアピールできるかである。
シェンメイの、一世一代の大芝居が幕を開ける。
◇◇◇
アルフォンスたちが帝城に到着すると、神妙な顔で敬礼するオルデア兵と、人質として囚われていた人たちの賞賛と歓声が彼らを出迎えた。
「アルフォンス君、シズク、ありがとう。君たちのおかげで助かった」
「いえ、今回も多くの人の協力があってこそのことですから」
「父様には信じられないかもしれませんが、古竜様や神様にもご尽力いただきましたから」
長期にわたって囚われていたはずの人たちは、想像以上に血色が良く、精神状態も良好で、捕虜としては異例ともいえるくらいに丁重に扱われていたことが窺えた。
帝城内部の調査を行っていなかったアルフォンスたちにとっては、少し拍子抜けする感のある再会だった。
一方、救国の英雄たちも、皆の想像も及ばないような死線を潜り抜けたにもかかわらず、揃って五体満足である。
事情を知らなければ、そこには悲劇や激戦の気配などは見えなかっただろう。
それでも、彼らはお互いの無事と再会を素直に喜び合っていた。
ユニークスキル《主人公体質》を持つアルフォンスにとって、賞賛されることは珍しいことではないが、今回のように必要以上に謙遜することは珍しい。
ヤマトの美徳がそうであるからではない。
むしろ、今回アルフォンスが口にしたような、必要以上の謙遜は、ヤマトではあまり好まれない。
礼を述べている側も、そんなことは分かっている上でのことであり、本当はアルフォンスも、「シズクの悲しむ顔を見たくはなかったから」とか、「私もヤマトが好きですから」と答えたかった。
ただ、シズクが補足したように、今回は人外の貢献が非常に大きかった。
特に、九頭竜については、彼らでは解決できなかったことは想像に難くない。
場合によっては、ヤマトどころか世界が滅んでいたかもしれないのだ。
そこを無視して誇ることは――特に根拠は無いが、調子に乗るとしっぺ返しを受けそうな気がして、どうしてもできなかったのだ。
それに、ここで多少不興を買ったとしても、本当の立役者を目にした時の彼らの反応など手に取るように分かる。
手の平がドリルになるのは間違いない。
むしろ、それだけで済めば御の字である。
しかし、アルフォンスたちがいつまでも戦後処理をするわけにもいかない以上、多少強引でも状況を進めなければならない。
「トシヤ殿。私は貴殿には恨まれて当然の――見殺しにされても仕方のない仕打ちをしたというのに……。それでもなお、ユーフェミアや我ら、そして、ヤマトとヤマトの民を救っていただいたこと、心の底から礼を言う」
一方では、複雑な思いを抱いているヤマト帝が、トシヤに頭を下げていた。
「貴殿には返しきれぬ大きな借りと恩を受けた。私にできることなら何でも言ってほしい。腹を切れというなら腹を切ろう。だが、貴殿さえよければ、ユーフェミアを妻に――いや、是非にそうして、新たなヤマトを盛り上げてほしい」
ヤマト帝が、彼らの恩に報いるために差し出せる物は限られていた。
無論、彼自身の命やユーフェミアの身柄も彼の自由にできるものでもないのだが、とりあえず、トシヤをその気にさせて、ユーフェミアの味方にさせようと、親莫迦を発揮していた。
なお、その相手としてアルフォンスではなくトシヤを選んだのは、アルフォンスだとユーフェミアが苦労するのが目に見えていたのと、トシヤなら上手く操れる――最悪、関係の解消もできるだろうと踏んでのことだ。
彼がトシヤに感じている恩義は本物だが、愛娘に対する愛情はそれを上回っていた。
「お父様!?」
「ああ、いや、自分も大したことはしてないですし、恩とかそういうのはいいんで……。それに、姫様の意志だってあるでしょうし――というか、婚約者を亡くしたばかりの姫様に、こういう話は酷じゃないですか?」
トシヤは困惑していた。
確かに、追放された時は悔しい思いもした。
しかし、その結果、この戦争で死なずに済んだとか、ユノと出会えたことを考えると、結果オーライであった。
そして、彼は今後湯の川に移住するつもりである。
そこで、ケモ娘――亜人や魔物の少女たちと、幸せに暮らすつもりなのだ。
そんなところに、自分を嫌っている(と思い込んでいる)ユーフェミアと結婚して、ヤマトに残るなどあり得ない。
トシヤの望みは愛し愛される関係であり、肉体関係だけが欲しいわけではない――肉体関係も重要だが、そこに愛がなければ嫌だったのだ。
この年齢まで純潔を拗らせ――貫いた男の意地である。
なお、トシヤが湯の川に移住しても、現地の少女と仲良くできる保証はどこにもない。
しかし、彼の心は根拠の無い確信で満ち溢れていた。
「あ、あの! 私は、その、別に嫌じゃないけど……」
「皆様、お待たせいたしました! 会談の準備が整いましたので――」
「え、何か言いました? ――あ、準備ができたみたいですね。移動しましょうか」
ユーフェミアの呟きは、彼らを呼びに来た兵士の声で掻き消され、トシヤに届くことはなかった。
◇◇◇
「まずは皆様に、多大なご迷惑をお掛けしたことをお詫びいたします。私たちは、女神様より破壊神復活の兆しありと、復活した暁には、その足止めをせよとの神託を受けていました」
事実上の敗戦国であるオルデアに弁明の機会が与えられたのは、シェンメイにとって幸運だった。
個人的な情状酌量を狙うために様々な手は打っていたが、場合によっては、抗弁する機会もないまま処罰された可能性もあったのだ。
「ですが、貴国に説明し、説得する時間的猶予も無く、また迂闊に説明できる内容ではないため、止むを得ず実力行使という形になってしまいました。今更何を、と思われるかもしれませんが、そのような事情であったとご理解ください」
しかし、これは彼女にとっては生き残るためのシナリオの第一段階で、待ち受けている難関はまだまだ残っている。
「また、ロメリア王国、グレイ辺境伯に対する攻撃は、既に反逆罪にて処刑しておりますチェンロン将軍が、当神託に関係するもの――破壊神復活の鍵であると誤解したためと聞いております。オルデアの――いえ、世界の一大事であると焦っていたのでしょうが、多大なご迷惑をお掛けしたこと、破壊神の討伐にご協力いただいたこと、誠に感謝しております」
シェンメイは、アルフォンスにチラリチラリと目をやり、その反応を確かめつつシナリオを実行していく。
シナリオ自体はかなり無理のあるものだが、古竜もいる場で完全に嘘になるようなストーリーは作れない。
古竜の方は怖くて見れないが、アルフォンスの反応はそう悪くはない――少なくとも、悪意のようなものは見えない。
最終的に、シェンメイは、責任者として罰を受けるのは仕方がないとして、その代わりに、何も知らされずに連れてこられて、帰れなくなった兵士たちへの配慮を求めるつもりである。
無論、それは心証を良くするための方便であるが。
シェンメイにとって、兵士の処遇などどうでもよかった――とまではいわないが、どうにかしてアルフォンスの好感度を上げるか、下心を刺激して、彼女の身柄を最大の戦功者であるアルフォンスの預かりにしたかった。
容姿には並々ならぬ自信がある彼女にとって、女好きでも有名なアルフォンスは付け込む隙の多い相手であり、彼女が助かる確率の高い相手でもあった。
ちなみに、実際に彼女が助かる確率が最も高いのはトシヤに付け込むことなのだが、なぜかその選択肢は無かったことにされていた。
「ククク、大した役者じゃのう。嘘にはならぬギリギリを話しておる感じか。じゃが、相手が悪かったのう」
そんなシェンメイの詭弁を、ミーティアが感心半分、嘲笑半分で遮った。
「そんな、決して嘘では――」
当然、シェンメイも古竜に嘘が通じないことくらいは知っている。
この場に古竜が来るのも計算のうちであり、それを考慮した上での、決して嘘にはならないストーリーに仕上げたつもりだった。
むしろ、そのせいでツッコミどころの多いものになったのだが。
事実、ミーティアは嘘を見抜いたわけではない。
「嘘でも真実でもない――そんなことを延々と話すなんて、不自然すぎたわね。誰とは言わないけれど、何を言っているのか分からない相手よりはよほど楽ね」
「人間にしては、なかなかに美しい顔をしている。それに騙される男も多いのだろうが、思考能力を奪われるほどではないのが敗因だな」
「ほんの僅かだがスキルも使っているようだな。ククク……、スキルでどうにかなる相手なら楽なのだろうな」
ただ、古竜たちがシェンメイの想定を遥かに超えてきただけだ。
通用しないかもしれないとは考えていたが、ここまでとは考えていなかったシェンメイには、もう最後の手段である泣き落とし――事実上の「お手上げ」しか残されていなかった。
「シェンメイさん、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。殺したりはしません。約束します」
アルフォンスは、古竜たちに見透かされ、必死に次の策を実行しようとしていたシェンメイに優しく声をかけた。
シェンメイとしては、古竜に見透かされようとも、アルフォンスに取り入ることができれば作戦は成功である。
そして、そんなアルフォンスの態度で、それが叶ったのかと一瞬気を緩めてしまった。
「アルフォンス様……」
本来は名前で呼ぶような間柄ではなく、そんな状況でもない。
シェンメイもすぐに気づいて、慌てて口を押えた。
本人が気にしていないのは幸いだが、彼の隣に面白くなさそうな顔をしている者もいる。
それでも、これくらいなら許容範囲だとシェンメイは思った。
「先日、貴女は私たちに会談を申込まれましたが、残念ながらその段階はとうに過ぎています。今から行うのは一方的な宣告です。ヤマトの皆さんも聞いておいてください」
アルフォンスは、そんなシェンメイを無視して話し始める。
「過程はさておき、事実として、オルデアはヤマトの統治能力を失いました。ですが、統治権をヤマトに戻したとして、それで円滑に統治ができるのかといえば不可能でしょう。力を失った中央に比べ、地方の領主はほぼ無傷。ヤマトの歴史や人々の気質を考えると、再び戦国時代が訪れる可能性を否定できませんし、どうにかそれを避けられたとしても、オルデアに対してろくに抵抗もできずに敗れて、また、統治権も自力で取り戻したわけではないのでは、どうしても求心力は失われてしまいます」
アルフォンスの歯に衣着せぬ物言いに、ヤマト帝や重鎮たちの表情が険しくなる。
それでも、激高してアルフォンスの話を遮るようなことがないのは、彼ら自身もそれを認識していて、今この場を支配しているのがアルフォンスであることも理解しているからだ。
シェンメイも、動揺を表に出すほど初心ではないが、内心は彼らと同じである。
シェンメイは生き残るために、ヤマト帝は国体を維持するために、アルフォンスの力に縋るしかないのだ。
「一番の問題は、皆さんだけではこの問題に対処しきれないことですが、私もいつまでもこの国に留まることはできません。それに、トシヤ殿もこの後国を出られるそうですし」
「えっ!?」
アルフォンスの話がトシヤに及んだところで、ユーフェミアが驚きの声を上げる。
「あ、と、申し訳ありません。話を続けてください」
ユーフェミアはすぐに無作法を詫びて話の続きを促したが、その顔色は酷く悪かった。
(まだ言ってなかったのか……)
アルフォンスは、ユーフェミアがトシヤに好意を寄せていることに気づいていたため、後で面倒事にならないようにと、「湯の川に行くつもりなら、ユーフェミア様には伝えておいた方がいいですよ」と、トシヤに釘を刺していた。
しかし、ユーフェミアに嫌われていると思い込んでいるトシヤは、それをズルズルと先延ばしにしていたのだ。
「トシヤ殿、やはり我らに不満が――」
明らかに落ち込んだ娘の様子に耐えきれず、ヤマト帝が口を開く。
無論、そんな状況ではないのだが、彼の親莫迦は筋金入りだった。
「い、いえ、そういうことじゃなくて――――その、今のヤマトの状況では、姫様の隣に、私のような魔法しか使えない者がいるのは相応しくないかと思いまして。それ以上に、姫様には幸せになってほしいと願っております。それに、私も、今回の件で不甲斐なさを痛感しまして、今一度自身を見詰め直そうと思いまして――」
トシヤは、ヤマト帝の言いかけたことを否定すると、それでいて円満な離別となるように、必死に口を動かしていた。
円満という条件さえなければそんな苦労をする必要は無かったのだが、他人を傷付ける勇気のない彼には、それは極めて難しいことだった。
「――行く当てはあるのか?」
トシヤの言葉は表面的には正論であり、ヤマト帝もそこを否定することはできない。
むしろ、この状況で何の根拠もなく反駁すれば、更に信頼を失うだけである。
「『湯の川』――こちらの、ユノ様が治める町に厄介になろうかと」
トシヤの言葉に釣られて、皆が今まで意識的に意識しないようにしていたそれに視線が集まった。
何の気配も感じないのに、やたらと存在感を放つそれは、頭部に被ったバケツなど気にならないほどの違和感があった。
しかし、古竜たちを後ろに立たせておいて、自らは当然のように上座に座っている。
その姿勢がとても美しく、微動だにしないことから置物かと思いかけていたところだが、よく見ると尻尾が上下に振れていたので生物であることは間違いない。
ただし、大きな翼にネコのような尻尾を持つ生物に心当たりはなく、バケツを被る風習も同様である。
ヤマト帝たちは、わけが分からずアルフォンスに視線で説明を求めたが、アルフォンスは大きくひとつ頷いて返しただけだ。
アイコンタクト失敗で困惑するヤマト帝。
アルフォンスとしても、ふざけたわけではない。
アルフォンスの計画では、ユノの出番はもう少し先のことだったのだが、話の流れ的に紹介しないわけにはいかなくなったのだ。
しかし、段取りが変わっているので、現状ではどう説明したところで説得力が足りないのが目に見えている。
「こちらのユノ様は、今回最もお力をお貸しいただいた神様でして、特に破壊神討伐では中核的な役割を果たされました。そのユノ様が治める町は、この世界で最も豊かで、そして、最も危険な場所です。トシヤ殿は、そこでの修行で己を高めるおつもりなのでしょう」
とりあえず紹介してみたアルフォンスだが、皆の反応は「お前は何を言ってるんだ?」と、予想どおりのもの。
「……本来は、もう少し状況について語ってからの予定でしたが、これからユノ様のご尊顔を拝見し、お言葉を賜ります。ですが、心しておいてください。真の神様とは、私たちの想像の及ばない存在です。気を抜けば、間違いなく呑み込まれます。では、心の準備は宜しいですか?」
アルフォンスは、最も説得力のある方法で紹介することにした。
それで困るのはユノである。
彼らだけで丸く収めるために、「ユノの神としての立場と神性を利用する。そこにいるだけでいいから。ユノの出番は無いから!」と言われてその案に同意したが、こんな裏切りが待っているとは予想していなかった。
当然、「お言葉」など用意していない。
アルフォンスのただならぬ様子に気を引き締める人たちとは対照的に、突然の振りに当人の心の準備ができていない。
そもそも、こんなに改まって紹介されても、神として何を言っていいのか分からなかった。
(神的自己紹介って、どうすればいいの!? 「我が名はユノ」――偉そうすぎて何だか恥ずかしい! というか、自ら神って名乗るのは詐欺師っぽくない? ビジネス的なものなら簡単なのに――そうだ、名刺作ろう)
思考は半ば現実逃避。
しかし、現実は非常だった。
「ではユノ様、失礼いたします」
無情にもバケツが外される。
何も思いつかなかったユノは、慌てて魔素を振り撒きながら、愛想よく微笑んでみた。
笑って誤魔化そうという浅はかな考えだったが、神レベル――それ以上の容姿を持ち、更に理解不能な追加効果を持つユノがやると、効果覿面だった。
比喩でも何でもなく、白く透き通った瑕ひとつない玉の肌に、それとは対照的な、夜の闇より暗い射干玉の髪。
深紅の瞳は光と闇の狭間に浮かぶ月のように神秘的で、見る者の心を掴んで離さない。
その神の手による芸術品のような、人間の手など届くはずのない存在が、明らかな神性を湛えて、彼らに向かって微笑みかけたのだ。
人間ごときが心の持ちようで対抗できるはずもない。
彼らの心は、自分でも理解できない感情と感動に突き動かされ、滂沱の涙を止めることはできなかった。
「シェンメイ」
椅子から降り、思わず床に平伏していたシェンメイに、覚悟を決めて切り替えたユノが声をかけた。
シェンメイは、これまでの自分をただ恥じていた。
彼女の美貌と知性、そして演技力があれば、異性だろうが同性だろうが、子供だろうが年寄りだろうが好かれることができる。
巫女の能力が高ければ、操ることもできただろう――などという傲慢は、本物の前に儚く砕け散っていた。
本物とはかくも隔絶した存在なのかと、恥ずかしさで顔を上げることもできない。
また、平伏しているのはシェンメイだけでなく、ヤマト帝や重鎮たちもが、額を床に擦りつけるレベルで平伏していた。
彼らもまた、真に偉大なる存在の前では自分たちの肩書など何の意味も無く、この期に及んで策略や小細工を企んでいたことが恥ずかしくて堪らなかったのだ。
「はっ」
顔を伏せたまま、シェンメイが答える。
「貴女が総督として、この国の民が幸せになるように尽くしなさい。やり方は貴女に任せます」
大役を任じられ、それ以上に、(そう振舞うのは得意でしょう?)と見透かされた気がしたシェンメイは、背筋が粟立つような感覚を覚えた。
「はっ」
しかし、断ること――異議を唱えることさえできるはずもなく、諾々と従った。
そして、統治権が取り戻せなかったヤマト帝たちも、神による裁定を諾々と受け容れていた。
「ヤマト帝」
「はっ。――帝の位など、御身の前では塵芥以下のもの。私のことはゴミクズとでもお呼びくださいませ」
ヤマト帝の本名を知らないユノは、彼を呼ぶためにはそう言うか、若しくは記憶を喰らうしかなかっただけだったのだが、理解不能な遜り方をされて困惑していた。
そして、どうにかアルフォンスに引き継がせようとアイコンタクトを送ってみたが、いかにアルフォンスでも、この状況では口を出せない。
状況的にもそうだが、比較的ユノに慣れているアルフォンスでも、神性まで解放した彼女の前では平常心を保てないのだ。
『君たちはシェンメイと協力して、この国を以前より良い国にしなさい。死んでいった者たちに報いるためにもね』
ヤマト帝の言葉に混乱したユノの代わりに、朔が彼女の声音を真似て答えた。
当然、「ゴミクズ」の件には触れなかったが。
話の流れや言うべきことは事前に打ち合わせ済みで、皆がユノを注視していない以上、どちらが話しても変わらない。
ただし、「死んでしまった者たち」の下りは朔のアドリブである。
ユノは存在自体で人心を惑わし、朔は言葉で人心を揺さぶっていた。
「はっ。全身全霊をもって」
言葉どおりの神の裁き――実際にはアルフォンスの案を、ヤマト帝は何の疑問も抱かずに受け容れた。
「ですが、ひとつだけお願いしたき儀がございます。後学のため、我が娘ユーフェミアを、御身が下で学ばせていただきたく存じます。なにとぞ、お聞き届けいただきたく……」
ヤマト帝は、ユノの許しを得る前に一気に話しきった。
どのような処罰があっても文句は言えないような無作法であることは重々承知の上で、それでも子を想う親の気持ちが勝ったのだ。
彼の親莫迦は鉄柱入りだった。
「本人がそう望むのなら」
その想いが通じたのかどうかは不明だが、願いはあっさりと聞き届けられた。
そして、ヤマト帝に処分が下されることもなかった――調子に乗って便乗する者でもいれば結果は違っていたかもしれないが、この場にはそんな浅慮な者はいなかったことが幸いした。
ユノは、これ以上のアドリブが挟まれる前に、さっさと済ませてしまおうと先を急ぐ。
「シェンメイ、顔を上げなさい」
ユノの言葉に従って顔を上げたシェンメイの目の前には、様々な色の揺蕩う、半透明の植物の芽が浮かんでいた。
(これは何? この心が洗われるような美しさ――いえ、ユノ様ほどではないけれど、同質の尊さは、世界の理そのもの――まさか、これが世界樹!?)
「これを貴女に、正当な統治者の証として授けます。貴女が統治者として相応しい振る舞いをしている間は、それが貴女を護るでしょう。そして、貴女以上に相応しい人が現れれば、統治権と共に譲渡しなさい」
「王権神授の現場、初めて見た」
アルフォンスの呟きは、幸いにも、初めて見る世界樹に心を奪われている者たちの耳には届かなかった。
「ディアナの巫女だった貴女には不服かもしれないけれど、オオクニヌシの承認は取っています」
「いえ、たった今改宗しました! 私はユノ様の忠実な僕です!」
シェンメイに迷いはなかった。
長くつらい修行を積んでも、いくら呼びかけても応えることなどなかっただけでなく、一方的に彼女を捨てた神と、圧倒的な存在感を纏って目の前にいて、彼女に語りかけてくれる神では、比較するのも烏滸がましい。
アルフォンスたちにとっては、彼らが直接戦後処理や統治にかかわることなく、神の名において強引に終止符を打つための策でしかなかったが、それはシェンメイの人生観を大きく変えてしまう出来事だった。
(宝玉や神槍を与えられた勇者たちも、こんな気持ちだったのかしら? ――いえ、あの方たちには神様に対する敬意がなかった。お互いに利用し、される間柄だったのか、それともディアナ様の格がユノ様より遥かに劣っていたのか。いえ、あの方たちを羨ましいと思ったことも過去のこと。今の私には、私に語りかけて、微笑みかけてくれる素敵な神様がいらっしゃるのだから!)
着々と狂信者のステップを駆け上がっていくシェンメイに、若干引きながら微笑むユノだったが、恋する乙女ならぬ奇跡を目の当たりにした狂信者には、都合の悪いことは一切目に入らない。
「人誑し能力、マジパネェ」
狂信者誕生の瞬間は、アルフォンスにとって相当に衝撃的なものだった。
そして、口には出さなかったが、古竜たちやレオン、トシヤも彼と同じ気持ちだった。
「……もし、邪な神や悪魔がそれを狙ってきた時には私を呼びなさい」
ユノ自身にとっても衝撃的な物だったが、気を取り直して、この案の最大の懸案事項に触れた。
九頭竜から採れた秘石から創った世界樹の芽は、所有者の身体能力を平均的な勇者程度に底上げして、人間的感覚では不老になったかのような老化を抑える能力に、敵対者に対して自動防御する能力がある――と、世界樹の名に恥じない性能を持っていた。
それでも、ユノから見れば出来の悪いものでしかない。
湯の川にある世界樹と比べるのは酷だが、彼女にとっての世界樹は、あれが基準である。
そして、大きさはさほど重要ではないとはいえ、手の平サイズで、使用者が人間では、神格保持者に対抗できるものではない。
ユノは、アナスタシアの意を酌んで、早々に悪用のできないものを創っていて、その場にいた神々もそれを知ってはいる。
なので、彼らがこの世界樹を狙うことはない。
しかし、ユノが世界樹を創れることを知らない者が、それを狙う可能性が残されている。
特に、気絶したままのディアナには前科があるし、そして、その記憶は奪われているのだ。
警戒しておくに越したことはなかった。
もっとも、ディアナの魂に刻み込まれた恐怖までは消えておらず、二度とユノに歯向うことはできないのだが、彼女たちにはそんなことを知る由もない。
「「「ユノ様の御心のままに」」」
示し合わせたわけでもなく、シェンメイと旧ヤマト首脳陣の声がピタリと揃った。
「「「ユノ様と、新生ヤマトに栄光あれ!」」」
ドン引きするユノたちを余所に、新生ヤマトが誕生した瞬間だった。
ちなみに、この先、新生ヤマトが繁栄することはなかった。
むしろ、最短で滅んだ国になる。
代わりに誕生した神聖ヤマトが、かつてない繁栄を遂げることになるが、それはまた別の話である。
お読みいただきありがとうございます。
ヤマト騒乱はここに終わり、神聖ヤマトによる極東統一が始まるっぽいですが、本編ではノータッチです。
幕間をひとつ挟んで次章では、湯の川周辺で新たに起きた問題に対処する展開になります。




