15 竜の宴
――第三者視点――
青竜【カンナ】の長い長い生にもようやく終わりが見え始めた頃、彼女がこれまでの生を振り返ったことに、特に理由はなかった。
彼女は、古竜としての矜持のままに、想いのままに、存分に生きてきたという自負があった。
古竜としては、満点に近い生だった。
しかし、その眼で様々なものを見てきた彼女は、他の古竜たちが抱くことのないひとつの心残りが生まれていた。
古竜とは、自然の脅威を具現化した存在である。
同時に、神や悪魔に対する抑止力でもあり、人類を増長させないための脅威でもある。
カンナの所感では、神も悪魔も竜も、それぞれが違うアプローチで世界を護り、人類の成長を促すための装置のようなものである。
つまり、それらは本質的には同じものであり、なぜ細分化されているのかは主神に訊かなければ分からない。
それでも、ひとつはっきりしていることがある。
この世界は、人間のためのものである。
当然、人間のためだけのものでもないが、システムの存在にしても、人間ありきで作られていることは間違いない。
カンナはそれに不満があるわけでも、古竜の役割に疑問を持ったわけでもない。
ただ、その対象となる人間たちを観察していて、ふと、彼女が世界に何も残していないことに気がついたのだ。
勇者という例外はあるが、ひとりひとりは弱く、寿命も短い人間たちだが、その短い生の大部分を子育て――次代に種を繋ぐことに費やしている。
竜は、基本的に子育てをすることはない。
例外として、生まれた子を隷属させるような小物もいるが、大抵は、卵は守るが、孵化した後はほとんど干渉しない。
古竜に至っては、その性質上、災害と同じく自然発生することさえある。
極めて個人主義な竜の性向と、種の存続の必要性の薄さ。
そんな理由から、子孫を残さない古竜は珍しくなく、青竜もその時まではそんなことに興味は無かった。
自らが子をなし、種を繋いだ先に何があるのか。
ひとたび浮かんだ疑問は、消えることなくカンナの心の中で燻り続けた。
数十年と悩み続け、分からないなら試せばいい――という結論に達したものの、さすがにひとりでは子をなすことはできない。
そんな折、不用意に青竜の領域付近を飛んでいた間抜けな古竜を見つけて、これ幸いと、奇襲からボコボコにして巣に連れ戻り、体力の続く限り犯し続けた。
それでも孕むかどうかは賭けだったが、その甲斐あってか、見事に子をなすことができたのだ。
カンナにとって、カムイと名付けたその子との日々は、大変なものだった。
知識も経験も無い子育ては、全てが試行錯誤だった。
せっかくなので、次代の青になるようにと、彼女の持つ様々な知識や経験を教え込もうとしたが、幼いカムイには無理難題である。
カンナも、子供を育てることの意味は理解していた。
しかし、ひとりで強くなった彼女としては、親や教師となる存在がいて、「できない」というのが理解できない。
客観的には、竜でなければ耐えられない、スパルタなど及びもつかない苛烈な教育だったが。
言ったことを理解できない、理解できても聞かない、気紛れで懐かない――竜の感覚では、逃げ出さないだけでも充分に懐いているといえる。
しかし、苦労している本人としては、そんな事実は気休めにもならない。
カンナにとって、カムイとの生活は、最も困難で理不尽な日々の連続だった。
何度食ってしまおうかと考えたか分からない。
しかし、この困難は、同時にカンナのこれまでの生の中で、最も充実した日々でもあった。
これまで苦労とは縁のなかったカンナが、子供ひとりに悪戦苦闘させられ、ストレスを溜め続ける。
しかし、日に日に、少しずつではあるが成長していくカムイの姿を見ていると、それ以上の言葉にできない感慨が沸き上がる。
そんなある日、カンナの空を侵す者たちが現れた。
以前の彼女なら、間違いなく愚か者共を殲滅せんと、勝算など考えもせずに飛び立っただろう。
たとえ自身が死ぬとしても、ひとりでも多くの敵を道連れにし、後のことは次代に任せる――それが古竜としての生き方である。
しかし、カンナは古竜としての死に方より、カムイの親として生きることを選んだ。
彼女が死ぬだけならともかく、残されたカムイがどうなるかを考えれば、死ぬわけにはいかない。
いずれ対決のときが来るとしても、それまでにできる限り、カムイの生存できる確率を上げておきたかった。
そんなカンナの思惑とは裏腹に、より最悪な状況が訪れた。
古竜が3頭、しかも、世界の敵を連れてやって来たのだ。
本質を見抜く《浄眼》でも見通せない深淵――否、そんな生易しいものではない何か。
システムを造った者や、世界の守護者からすれば、その管理下にない危険な存在。
古竜としての役割に従うなら、滅ぼすべき敵である。
しかし、その古竜を3頭も従えているところを見るに、勝ち目は薄い。
むしろ、皆無といってもいいだろう。
彼女が役割に従って死ぬだけなら問題は無い。
しかし、問題はそんなレベルでは済まない。
この世界の敵は、事もあろうに古竜を餌付けしようというのだ。
抗い難い欲求。
それもそのはず、目の前に置かれた酒の本質は、「世界樹」とでもいうようなもの――つまりは、世界そのものである。
人の手で造れるものではない。
神の酒すら遠く及ばない、正しく至上の世界である。
それの前には、竜の脆弱な精神など無意味だった。
むしろ、彼らが引き揚げるまでプライドを守り続けただけでも、カンナの我慢強さは賞賛に値した。
「酒に罪はない――いや、この芳醇な香りに、円やかな魔素。うむ、鮮度が落ちる前に頂くのが礼儀だろう」
カンナは、誰にするわけでもない言い訳を口にして、そして、期待を込めて酒に口をつける。
その瞬間、青竜の舌から脳へ、そして魂にまで衝撃が走る。
(アルコール度数は高いが、それに負けないくらいに味わいも深い。しかし、喉越しは滑らかで後味もすっきりしている。鼻から抜ける香りも爽やかで、息を吐くのももったいない。そして、この良質で高濃度の魔素――まるで、全てを赦し、受け容れ――そうか、これが母の愛というものなのか。確かに心地よい。なるほど、生とはこういうことだったのか。五臓六腑どころか、魂にまで染み渡る――。くやしい……でも……!)
カンナは、ほんの刹那ではあるが、母のあるべき姿を、そして世界の真理を見た。
なお、彼女が悔しさを感じているのは、自らの語彙力の無さである。
これほどの感動を表現できない自身に、表現する言葉が存在しない世界に、そして気づけば空になっていた樽に絶望した。
カンナは泣いた。
これも、生まれて初めてのことだった。
「かか様?」
カンナの心情を察してか、はたまた酒の匂いに誘われてか、隠れていたカムイが姿を現した。
「良い匂いする」
「だ、駄目だ! これは子供が飲むものではない! 子供が飲むと――そう、爆発する!」
カムイが酒の残り香に誘われて酒樽に近づくのを、青竜が慌てて制止した。
彼女ほどの成竜が一瞬で虜になる酒を、未熟なカムイが飲めばどうなるかは想像もつかない。
当然、「爆発する」などという嘘は、幼くとも古竜の眷属であるカムイには通用しない。
しかし、幼いカムイを心配したことは、全てがではないが事実である。
理由はどうあれ、カムイに納得できるものではなかったが。
◇◇◇
――ユノ視点――
「しかし、古竜が子育てとはのう。本質を見抜く眼を持っておるくせに、それに囚われすぎて、逆に本質を見失うとはのう」
「見失ってなどおらん。子をなし、育て、その子に次代を託すのは、世界の本質のひとつだ」
「偉そうなことを言っても、酒に溺れたのは変わらんだろう」
「莫迦め。個としての喜びを追求するのもまた生物の本質だ。そもそも、貴様らこそ分かっているのか? あの酒は、世界樹の滴――世界そのものともいうべきものだぞ? 全身全霊で味わわねば失礼というものだ。そんな貴重な物をどこで手に入れたのかは知らんが、世界樹とは元来遍く全てのものの上にあるべきもので、一部の者が独占していいものではない」
「その世界樹はこの娘が創ったものよ。自分が創ったものをどうしようと、他人にどうこう言われる筋合いはないと思うけれど」
「何を莫迦な……」
「嘘ではないことくらい、その眼で分かるじゃろう。それとも、本当に耄碌しておるのか?」
「むしろ、世界樹の滴というより、ユノ様の滴といったほうが本質に近いな」
「貴女もさっき見たでしょう? 貴女の子に与えていたあれだって、同質のものよ? お酒だって、いろいろなバリエーションがあるの――貴女もリクエストしてみれば、出してもらえるかもしれないわよ?」
「儂は何といっても古酒じゃな。重厚な香りと濃厚な味わいが堪らぬ。肉を摘まみながらやるのが最高じゃな!」
「俺は火酒だな。肴はユノ様が出してくれるものは何でも美味いが――やはり、ユノ様を愛でながら飲むのが一番だな」
「私は甘いものが好みだわ。特に、『カクテル』だったかしら、その日の気分でいろいろな味が楽しめるの。本人は『面倒臭い』って言いながらも、ちゃんと応えてくれるのよね」
「何……だと……!? で、では蒸留酒――焼酎で、中でも芋が好みなのだが……」
「子供に夢中で聞いとらんの」
「くっ!? 私でもこうまで懐かれていないのに、なぜこいつはこんなにも――二重に悔しいっ!」
『ユノ、呼ばれてるよ』
朔の呼びかけで、意識が現実に引き戻された。
さらば、至福の時。
名残惜しいけれど、私も遊びに来たわけではないのだ。
「何かな?」
「青が芋焼酎が欲しいと抜かしております。できれば、俺にもいつものを」
そんなことで私の至福のときを邪魔したのか……。
というか、いつのまに世界を解除していたのだろう?
まあ、カムイに夢中で完全に忘れていたし、自力で抜け出したのかも。
母は強しとかいうしね。
『まだ日が高いけど、今から飲むつもりなの? というか、日帰りの予定なんだけど』
「はっはっはっ、少しくらいなら大丈夫――」
「私の目の前で飲酒飛行なんてしたら、二度と飲ませないから」
「はっはっはっ、帰ってから飲みます!」
少しくらいなら、自分だけは大丈夫――そういう根拠のない自信が、思わぬ事故に繋がるのだ。
飲酒飛行、駄目、絶対。
『とりあえず、素面のうちに話をしよう。焼酎はその後で』
「ジュルリ――ゴホン、話というのはヤマトの現状のことなのだろう? 腹立たしいとは思っているが、見てのとおり、私とカムイには戦う力が無い」
『必ずしも戦うことにはならない――というか、オルデア次第だけど、人間の国家や竜を使って圧力をかける。まあ、一度は戦うことになると思うけど。そもそも、君にも参加してほしいと頼みに来たんじゃないんだ。ただ、参加しないなら、最後まで参加しないでほしい。今回の作戦では、第三勢力の参戦を想定していないから、話がまとまり始めてから引っ掻き回されると困るんだ』
「つまり、戦力を期待してではなく、管理下に置きたいと、そういうことか?」
『極論ではそういうことだね。もちろん、戦力として期待できるならそれに越したことはないし、最低でも、自分の身くらいは守ってほしいけど』
「それはそれで不愉快だが――」
『ああ、もちろん作戦終了後には関係を解消するから、その後は自由にしてもらって構わない』
いつもどおり、自動で会話が進んでいく。
私が呼ばれた理由がよく分からないけれど、子供がいる手前、とりあえず聞いている振りだけはしておく。
「随分と都合のいい話だな。だが、それこそ、力で従えれば済むことだろう。なぜそうしない?」
『君自身のことなんだから、君が選択すればいい。ボクらとしてはどっちでもいいし、ミーティアたちがそういう判断をするならそれもいい。そもそも、ボクらは戦闘には参加しないつもりだし――オルデアの何かが禁忌に抵触してるかもしれなくて、そこには介入するかもだけど、禁忌の定義もあやふやだしね』
「儂らも、別にどちらでも構わんしのう」
「俺はユノ様のお世話をするのに忙しい。今更くたばり損ないに感けている時間などないのだ」
「どう見ても、貴方がお世話をされているのだけど……。でも、面倒なことをする時間がもったいないというのは同感ね。その分、早く帰ってお酒を飲みたいわ」
『と、そういうことだから、返事は――次は十日くらいしたらまた来るから、そのときにでも』
「それじゃ今日は帰ろうか」
話したいことは話したし、即答を求めるようなことでもないので、今日はここまででいいだろう。
カムイと離れるのは名残惜しいけれど、それでも充分にやる気を充填することができた。
今日のところはそれでよしとしよう。
「青には芋焼酎だったかな? 味わいとか香りとか違うのを何種類か置いていくよ」
腰を上げつつ、いくつかの樽に入った酒を出して並べていく。
この魔法にも随分慣れたものだ。
私とミーティアのふたりだけで楽しむものだった時とは違って、今では他人に振舞うことの方が多い魔法になった。
それも、朔の上げた「女子力」のおかげで、繊細な味や香りの調整もばっちりである。
……女子力って何だろう?
「カムイは何がよかった?」
あっという間に涎塗れになる青竜から目を逸らして、私の足下で、スカートの裾をどうにか掴もうとして掴めないでいたカムイに問いかけた。
可愛い。
しかし、予想に反して、カムイはフルフルと首を左右に振るだけだ。
そんな様も可愛い。
「美味しくなかった?」
とてもそういう感じには見えなかったけれど、子供とは理不尽なところもあるものだ。
今は飲み物よりもスカートに夢中になっているのかもしれない。
なので、一応訊いてみたものの、より強く首を振るようになっただけだった。
一応、話は通じているようだけれど、会話――というか、意思の疎通ができているようには見えない。
「行く」
カムイは、スカートを掴むのを諦めると、私を見上げてひと言そう告げた。
「行くって、私たちと一緒に来るの?」
その短い言葉で全てを理解することは不可能なので、確認のため問いかけると、「ん」と力強く頷いた。
そして、「やっつける」と言いながら、ガッツポーズをしていた。
小さいのに戦闘意欲旺盛である。
やる気満々で、とても可愛い。
しかし、その意気は買うものの、子供を戦場なんかに立たせたくない――いや、社会勉強として見せておくくらいはありだろうか。
「カムイ!?」
慌てた青竜が涎を撒き散らす。
我が子が心配なのは分かるけれど、まずは自分の状態を省みてほしい。
しかし、竜には親子の情は無いと聞いていたのだけれど、青竜の方はしっかり親をしているように思う。
カムイの方も、青竜を母親だと認識しているようだし。
人間とは違うけれど、竜には竜なりの関係があるのだろう。
とにかく、情はともかく、絆はあるのだと信じたい。
もっとも、今正に巣立とうとしているけれど。
「この子は私が護るから心配しないで」
戦わないとは言ったけれど、もちろん身を護るくらいはする。
ついでに、子供ひとりを護るくらいは手間でも何でもない。
というか、大人が子供を護るのは当然のことで、子供は大人が見守っているからこそ、伸び伸びと成長できるのだ。
「貴様、私の宝を奪う気か!?」
『奪うなんて人聞きの悪い。これはカムイ自身の意思じゃないか』
「宝だと思う気持ちは分かるけれど、だったら、いろいろなことを経験させて、立派に育ってほしいとか思わない?」
子育てとは、蝶よ花よと甘やかすだけでは駄目なのだ。
「それはそうなのだが……。カムイにはまだ早いというか……」
「子供って、親も知らない間に成長しているものだよ。それに合わせて親も成長しないと、子供の可能性を狭めることになるかもしれない」
「くっ、言い返せない……!」
「こんなにも弁の立つこやつを見るのは珍しいが、子育ての能力は折り紙付きじゃぞ。何の特徴もなかったただの亜人の娘を、僅か数か月で歴戦の魔王クラスに育ておったしのう」
「うむ、何の特殊性もなかったグリフォンの雛も、神獣クラスになっているしな」
「何それ? 本気で怖いのだけれど……。けれど、ある意味では私たちも育てられているようなものかしら……。ここは手付かずの自然に、豊富な魔素の満ちている良い地だけれど、ここでの百年は、その酒の一杯――いえ、一滴に劣るわ。この子は竜の本能に従って、自分の居所を決めたんじゃないかしら?」
「そうなのかもしれないが……。それは貴様らが餌付けされた言い訳ではないのか?」
「「「……」」」
『餌付けじゃなくて分業だね。できることをできる人がする。――今回みたいに、ユノが動けないケースで、代わりに仕事してもらったりね。お酒はその対価――というわけでもないけど、持ちつ持たれつね』
朔が、答えに窮した古竜たちをフォローしていた。
「そのとおりじゃ! こう見えてユノは細かいことができん奴でな、儂らが力を貸してやらねば大惨事になるのじゃ」
「うむ。だがそれ以上に、ユノ様にはくだらない争いなどとは無縁でいてほしいものだ」
言い方が変わっただけというか、オブラートに包んだだけのような気もするけれど、世の中とは持ちつ持たれつで成り立っているのは間違いない。
どれだけ能力が高くても、ひとりで何でもできるなんて思うのはただの傲慢――いや、「何でも」の中身を知らない無知でしかない。
「ふぅん、私たちがそういうふうに見えるということは、貴女はここでずっと、古竜として誇り高く生きるのね? さすが、古竜の鑑だわ」
シロには少し意地悪なところがあるようだけれど、これは彼女なりの愛情表現らしい。
「そ、そんなことは誰も言っていないだろう!? カムイが行くなら、当然私も行くさ! ああ、カムイの成長を見守るのが、私の最後の望みなのだからな!」
「私、最近《念写》と《念話》の魔法を覚えたの。その老体でついてくるのもつらいでしょうし、カムイの成長記録なら、私が送ってあげるわよ?」
「性悪女め……」
……愛情表現なんだよね?
竜の表情は分かりにくいけれど、シロの愉しそうな雰囲気とは対照に、青竜は恐らく苦虫を噛み潰したような顔になっているのだろう。
ここまできて拗れさせるのは勘弁してほしいのだけれど。
◇◇◇
そんな心配を余所に、青竜――【カンナ】と名乗った老竜も、ヤマト解放作戦に協力してくれることになった。
決して餌付けされたわけではないらしい。
お酒は要求されているけれど。
とにかく、彼女がさきに言ったとおり、戦う力はほとんど残されていないとのことで、戦闘にはカムイ共々参加しない約束になった。
その代わりということではないと思うのだけれど、禁忌については、彼女の竜眼で判定できるかもしれない――とのことなので、そちらには期待したい。




