23 切り札
――ユノ視点――
私が懸命に喋っているというのに、レオとヨハンさんが私のお尻で遊び始めた。
もっとも、くすぐったくはあるものの、痛みと同様、行動に支障が出るようなものではない。
ただ、これは立派なセクハラで――いや、セクハラで「立派」という表現はおかしくないだろうか?
それはさておき、セクハラがいけないことなのは当然なのだけれど、対象が異種族であってもそれは成立するのだろうか?
イヌやネコを相手に、全身を撫で回すのを人間に置き換えてみると、セクハラどころの話ではないと思う。
そもそも、いけないことというのならば、私が彼らにチョップしていることも、ただの暴力でしかない。
つまり、やってはいけないことになる。
やられたからやり返した――と、自分の行動の理由を他者に求めて正当化するなど、卑怯者のすることだ。
変に言い訳などせず、「やりたいからやった」「やり返したいからやり返した」と、堂々としていればいいのだ。
つまり、私のお尻を巡る攻防も、触りたい彼らと触らせまいとする私の争いで、私が勝っただけのこと――でいいのか?
とにかく、何かの行為をするたびに、正義とか権利だとか理由をつけようとすると、途端に面倒臭いことになるのだ。
私にどんな理由があったとして、相手がそれを酌んでくれるわけでもないし、私も相手の事情などそれほど重視しないのだ。
――あれ?
今、私のやろうとしていることって……。
「ちょっと待って」
一旦整理しよう。
作戦は、ディアナさんに先に手を出させて、それに対する自衛――ということで、主神に対する言い訳とする。
……?
…………。
……!
思わず放心してしまうほど駄目だった。
いくら私が正しいとか、理があると主張しても、きっと相手も同じように主張するのだ。
正しさなんて、立場や状況によって変わる程度のものだし、盗人でも三分の理があるのだ。
それこそ、「やりたかったからやった」と堂々としていた方が、私的には好感を覚える。
どうやら私は間違っていたようだ。
間違いを素直に認めて反省する私、超偉い。
それに比べて、主神は謝るどころか姿も見せない。
今日のことだって、彼がやることをやっていれば必要無かったはずなのだ。
全くもって腹立たしい。
◇◇◇
――第三者視点――
「ちょっと待って」
その言葉を最後に、ユノが直前まで垂れ流していた不気味なポエムが唐突に終わった。
かと思えば、今度は「うーん、うーん?」と思案を始めた。
目の前にいるディアナを完全に無視して。
これほどの侮辱を受けたのは、ディアナの長い神生の中でも初めてのことだ。
しかし、それに神域が効果を成してないことは一目瞭然である。
それどころか、それの両脇にいる駄神と獣王にすら効いている様子がない。
さらに、その駄神どもまでもが、ディアナを無視してユノに夢中なことも、彼女の自尊心を傷付けていた。
確かに、それのプロポーションはディアナの理想に近い――いや、そのものだった。
認めたくはないが、それを否定することは、仮にも美の女神と呼ばれている彼女自身の否定にも繋がる――が、やはり認めたくない。
ディアナが美の女神と呼ばれているのは、魅了系のエクストラスキルを持っているからではない。
元々は、彼女が神族の中でも類稀なる美貌と、高潔な精神を持っていたからこそつけられたのだ。
当時のディアナは、その名に恥じない存在で、他の多くの神々からの信頼も集めていた。
それがエクストラスキルに頼り始めたのは最近の――ここ千年くらいのこと。
その少し前に、魔神アナスタシアの手によって、彼女の逆鱗に触れた人間の国家が消滅したという事件があった。
アナスタシアは、同様の事件を何度か起こしていたこともあって、彼女と主義が対立している神族は少なくなかった。
ディアナもそんな神の一柱であった。
当時のアナスタシアが、その二つ名のとおりの行動に出たのは、その国に禁忌に触れた者たちがいたことが原因だった。
禁忌に触れた者たちからしてみれば、国や人族の発展と、家族や大事な人たちが安心して暮らせる世界を求めての愚行だったが、神の視点で見れば世界の寿命を縮めかねない暴挙であり、到底許容できないものだった。
当然、対処を行うことになるのだが、巫女に神託を下しても、国の上層部に握り潰され、直接禁忌に触れている者たちには届かない。
天罰を落とすことも考慮されたが、そこまで逼迫した状況でもない。
そんな状況に焦れたアナスタシアが直接的な行動に出たのも、世界全体の規模で考えると間違いではない。
ただ、アナスタシアはこの件を国家全体の問題だと考え、後の人類に対しての警告も兼ねて、滅ぼそうとした。
一方、ディアナはそれに関わった者たちだけの責任だと考えて、アナスタシアと対立した。
そうして、遂には両者の争いにまで発展した。
無論、人族の目の届く場所のことではないが、結果は既に歴史が示すように、アナスタシアに軍配が上がった。
そこでディアナが何を想ったのかは、彼女にしか分からない。
ただ、ディアナが変わり始めたのは、その後からだ。
そして、今ここでもディアナは選択を迫られていた。
仕掛けるか、やり過ごすか。
既に一度仕掛けて失敗しているのだが、幸いなことに、反撃はされていない。
残されている手段は、先の手段より直接的なもの。
直接戦闘と、エクストラスキル以上の切り札。
特に、後者は効果は絶大――クライヴやアナスタシアにでも有効なものである。
そして、それゆえにまだ使ったことのないものでもある。
躊躇っているのは、ユノの能力が未知数ということもあるが、それ以上に、それを使ってしまえば、もう後戻りできない――アナスタシア同様に、魔王に堕ちる可能性のあるものなのだ。
魔王――魔神に堕ちたからといっても、彼女の本質的なところが変わるわけではない。
秩序ある世界を造るためであればその覚悟もしていたが、こんなところで、こんな相手に使っていいものなのかという疑問は残る。
全ての準備が整っていない今、この場は穏便に済ませるのが正解だと理解していながらも、こんなわけの分からない存在に頭を下げるのことも受け容れられない。
しかし、この機を逃して、アナスタシアに奪われたりすると、厄介なことになる可能性もある。
ディアナは、冷静に考えているつもりだったが、アナスタシアという脅威の存在がそれに制限を掛ける。
そして、最も意識を逸らしてはいけない存在から、意識を逸らしてしまう。
◇◇◇
「止めた。もっとストレートに行こう」
ディアナが逡巡している間に、ユノが先んじて結論を出した。
「秩序が――いや、世界が大事なら、私に手を出すな」
ディアナは、何を言われたのか理解できなかった。
バケツを被っている、よく分からない存在から命令された。
それだけで、内容など関係無く、プライドの高い彼女の頭に血が上る。
「主神さんにもそう言っておいて」
しかし、直後にバケツを脱ぎ捨てたそれが、ディアナの心を抉る。
美の女神と称される彼女の目から見ても、ユノは非の打ちどころのない美しすぎる少女である。
それは認めざるを得ない。
しかし、顔が見えていなかったことが唯一の心の拠り所だった彼女の精神は、逃げ場を失くしたところで刺されて重大なダメージを負った。
しかし、それ以上に、ユノがどんな相手にも――主神を相手にしても自身を貫く強さを持った、かつての彼女が目指していた理想の姿だと気づいた時、彼女の中で表現できない感情が溢れ出す。
認めてしまうと、何かが壊れてしまう。
認めなくても、今までの自分ではいられなくなる。
具体的なことは何も分からないが、そんな漠然とした不安に支配されたディアナは、反射的に切り札を切る。
「《開け》、《門》よ! 我が天使の軍勢よ、我が敵を討ち滅ぼせ!」
ディアナがそう叫ぶと同時に、広大な室内に多数の空間の歪みが出現した。
そして、そこから続々と天使が出現すると、その先からユノへ向かって弓矢で投擲で魔法でと、ユノに向けて攻撃を始めた。
ディアナの奥の手とは、二百万からなる天使の軍勢である。
本来、天使とは、神の手足となる実働部隊である。
その性質上、指揮官的な役割をこなす上位の天使の中には意志を有する者もいるが、天使の多くは命令に従うだけの実働装置ともいうべき存在である。
そして、神格保持者は、その格に応じた数の天使を保有している。
とはいえ、多くても数千体程度で、ディアナの二百万という数はあまりにも異常である。
使い方次第では、世界のバランスを崩しかねない。
ディアナは、これまで他の神々を魅了すると同時に、その神が保有していた天使の所有権をも奪っていた。
しかし、それだけで二百万もの天使が集まったわけではない。
ほんのひと月ほど前、彼女の亜空間内に大量の天使が送られてきたのだ。
その天使たちの所有権は未設定――ディアナは、それらが主神直属のものだと気づいたが、彼女は主神との連絡が取れないことをいいことに、それを主神からの贈り物だと結論づけた。
単体では、神に大きく劣る性能しか持たない天使であっても、これだけの数が集まれば、アナスタシアのような力のある魔神でも余裕で圧し潰せる。
ただし、それはディアナの求める秩序とは違うものである。
彼女の目的は、徹頭徹尾秩序ある世界を造ることであって、その障害となる敵を排除することではない。
最終的な勝負所はまだ先のこと。
手段が間違っていることは理解していたが、秩序ある世界の礎になれるのであれば、どんな汚名も被る覚悟はできていた。
彼女は、それをここで使ってしまった。
理由も分からず、ただ、目の前の存在を消さなければ、と。
そうしなければ、自分を保つことができないと。
理性や計画など忘れて、ただ本能に従って。
◇◇◇
――ユノ視点――
「お、おい!? さすがにこりゃヤベえぞ!」
「こ、こんな、まさか!? この数はいくらなんでも異常だ! あり得ない! ゆ、ユノ様、逃げましょう!」
それまでセクハラに夢中だったふたりが、私にしがみついて悲鳴を上げていた。
ある意味ではこれもセクハラのような気がするけれど、そうだとすると、思いのほか余裕があるのかもしれない。
『懐かしい光景だね』
「嬉しくないけれどね」
「ず、随分落ち着いてんな……」
「な、懐かしいって、どういうことなんですか?」
『前にもこんなことがあったんだよ。そのときは結構ダメージ受けたけど、今回は平気みたいだね』
「そうだね。後、いろいろ聞いたからか、天使のこともかなり分かってきたかも」
天使がいっぱい。
いろいろと攻撃をしてきているけれど、どれも私には届かない。
天使自体が、本質を理解していない、ただの装置のようなものなので、届くはずがない。
さておき、天使がどういう存在かは理解したといっても、論理的に説明できるということではない。
神と天使の関係は、私と十六夜の関係に似ているのかも――とか、その程度だ。
存在が歪なのは、わざとそう創っているのか、それとも創造主の認識がおかしいか足りないか。
こればかりは本人に訊いてみないと分からないだろう。
十六夜は、勝手に進化して自我を得てしまったわけだけれど、自身の意志で進化できる余地を残すよう、緩く創っていたとかそういうことかもしれない。
そういうことにしておいてほしい。
「お呼びですか? お母様」
私の思考に反応したのか、湯の川にいる十六夜が、湯の川にいる私に問いかけてきた。
「助けて十六夜」
せっかくなので、天使の相手をさせてみようとこちらへ呼び寄せる。
「はい! ……はい? お母様でしたら、こんな有象無象は物の数ではないと思いますが。とはいえ、せっかく頼っていただいたのですから、お役に立ちたいと思います」
「うん、お願い。あ、でも、どばーぐちゃ―ってやるのはなしで」
「畏まりました」
十六夜は恭しく一礼すると、天使の方へとゆっくりと歩きだした。
天使の攻撃が、私へのものと十六夜の迎撃に分かれる。
もっとも、十六夜はいざという時のために防御能力は高めに創っているので、禁呪くらいは普通に耐える。
《極光》を食らうと少しまずいかもしれないけれど。
さておき、十六夜は私の言いつけどおり、裏返って内臓とか虫とかを溢れさせたりはしていない。
物分かりの良い子だ。
ただ、次から次へと天使に跳びかかって高速でボリボリやるのは、それはそれで気持ち悪い。
いや、それも私の言いつけどおり、音を立ててはいない。
咀嚼音は当然として、骨を噛み砕く音もしない、全くの無音だ。
ただ、そう聞こえそうなイメージなだけだ。
しかし、魔法などの騒音に紛れて控え目ではあるものの、天使の悲鳴や断末魔は聞こえてくる。
それに、血飛沫は派手に上がっているし、溢れ出た臓物は「拾い食いは駄目」との言葉を遵守しているのか、手付かずで残されている。
とにかく、それが超高速で行われているのだ。
端的にいうとグロい。
それと、かなり猟奇的。
「何だこりゃ……!? 今までいろんなヤベーもん見てきたつもりだが、こんなにイカれてるのは初めて見るぜ……」
「主よ、せめて彼らに永遠の安らぎを……主よ、もう邪な想いを抱いたりしません! どうかお助けを!」
レオの呟きにはおおむね同意する。
それよりも、ヨハンさんの祈りで主神が出てくるかと身構えたのだけれど、どうにもそんな気配はない。
気配とか分からないけれど。
「莫迦な! そんな、私の軍勢がっ!? なぜだ、何が――」
ドン引きで済んでいるレオとヨハンさんとは違って、敵対――というほど敵視はしていないけれど、ディアナさんの取り乱し様は見ていて痛々しいレベルだ。
せっかくの美人が台無しである。
だからといって、どうするわけでもないけれど。
そうして、十六夜が五、六千体ほど食い散らかしたところで、彼女の動きがぴたりと止まった。
生き残っている天使の攻撃はいまだに続いているけれど、効いている様子はない。
よく噛んで食べないから、喉にでも詰まったのだろうか?
「お母様、申し訳ありません――うぷっ、これ以上食べられそうにありませ……ん……」
そう言って振り返った十六夜は、いろいろと限界の様子。
何もない虚空を見詰めながら、口の端からはみ出しているレバーっぽい部位が、入るか出るかのせめぎ合いをしていた。
「戻って安静にしていなさい。後、絶対に吐いてはいけない。食べ物を粗末にするのはよくないこと――いいね?」
返事をするのもつらいのか、こくりと頷くだけの十六夜を、大惨事になる前に湯の川に退避させた。
危うく収拾がつかなくなるところだった。
というか、十六夜には容量があったのか。
後で腹八分目という言葉も教えておこう。
「ふ、ふふ! 少し焦ってしまったが、そうだ! この軍勢が負けるはずがなかったのだ!」
何というか、私と相対した人は、みんな同じような反応をするらしい。
地獄から一転、天国が見えたと錯覚しているのだろうか。
地獄への道は善意で舗装されているというけれど、天国への道は、きっと希望的観測で舗装されていると思うよ。
結局、向かう先は同じで、視点や心境なんかが違うから、そう見えているだけではないだろうか。
というか、実際に死んだ後に魂が行くのは、天国とか地獄ではない。
比喩とか、生きている人の心の中とか認識上では存在しているけれど、実際にはそんな世界は存在しない。
「ねえ、ヨハンさん。ちょっと訊きたいのだけれど」
「な、何でしょうか? 今はそんな場合ではないような気もしますが……」
「は、ははは! 今更降参の相談か? そんなものが――」
「ちょっと黙っていて」
この世界の人は――神でも躁鬱が激しくて困る。
「それと、動くな」
そう命じた途端、突然声を奪われて焦っていたディアナさんの動きがぴたりと止まった。
当然のように、大量にいる天使やレオにヨハンさんまでもが動かなくなっているけれど、心臓や循環系が動いているのは進歩――成長といえるのではないだろうか。
(生存可能な状態にしてるのはボクだよ)
なるほど。
有り難いことだ。
でも、これを記憶しておけば、次はひとりでもできそう。
レッツ成長!
「数が異常だって言っていたけれど、どれくらい異常なの? ――あ、ヨハンさんは動いていいよ」
ひとまず、ヨハンさんの行動不可状態を解除して、気になっていたことを問い直す。
「はっ!? こ、これは一体!? ゆ、ユノ様、これは!?」
しかし、答えは返ってこない。
まあ、気持ちはよく分かる。
私だって、以前は戦うか逃げるかの選択肢しかなかったのだから。
話している暇があるなら、戦うか逃げるかしたいのだろう。
なので、そのための情報が欲しい――といったところか。
「これが私の能力。説明は面倒だから省くけれど、私には強いとか弱いとか、速い遅い、重い軽い、多い少ない、そういうのはあまり意味が無いと思ってもらえればいいよ」
あまり自分の能力を暴露するのは好きではないけれど、レオとディアナさんや、もしかしたら聞いているかもしれない主神にも釘を刺す意味で話してみた。
というか、朔がそうするべきだと言っているのでそうした。
まあ、相手も種子の力を使うのだから、隠すことに大した意味が無いのは分かる。
その上で、「この程度の能力は隠す意味が無いよ」と伝えているのだ。
主神がこれ以下の能力しか持っていないなら、もう手を出してこないだろう。
そうだといいな。
これと同等以上の力を持っていたとしても、私も底は見せていないよというアピールをしているのだから、迂闊には手を出せないだろう。
「それで、そろそろ教えてくれない?」
私は疑問に答えたというのに、ヨハンさんの答えが返ってこない。
刺激が強すぎたのだろうか?
これ程度のことに対処できなければ、私に勝つことは不可能――それを理解してくれればよかったのだけれど。
もちろん、単純な暴力で私を屈服させることは難しいというだけで、暴力以外もそうとは限らない。
簡単に負けるつもりはないけれど、そもそも、私は勝敗には特に拘っていない。
譲れないものについては負けてあげるつもりはないけれど、それ以外は、普通に負けを認めている――負けていることの方が多いように思う。
主に、朔とかアイリスとかアルに。
「仕方ない。半分くらいでいいか」
さておき、本来はひとりも殺す予定ではなかった。
いや、十六夜投入しておいて、今更何を言っているのかと思われそうだけれど、誰にでもうっかりはある。
それに、天使のような生物としては歪な存在は、殺したのか壊したのか、どちらで表現するのが妥当かも分からない。
そもそも、殺さなければセーフなどと思ってはいないし、殺すことの――「死」の認識も違うようでは、議論にもならないだろう。
それに、私の能力を正確に表現する言葉が存在しないことも、問題になってくる。
とにかく、今回は肉体と精神だけを喰う。
魂は還す。
細かな条件を付ければ付けただけ制御が面倒になるのだけれど、少しくらいのことは誤差ということで諦めてもらおう。




