23 ギルバートの受難
リックの決断は早かった。
最初から結論が出ていたことを考えると、遅かったともいえるが。
目を閉じて十数秒思案した後、「よし! 俺はやるぜ!」と膝をひとつ叩いて立ち上がった。
その顔は、戦場に向かう覚悟を決めた男のものだった。
ギルバートは、その日のうちにシャロンを通じてユノとの面会の約束を取りつけた。
リックの思い切りの良さは賞賛に値すると評価しつつも、この手の小心者は、時間を置くと怖気づくことも知っていた。
それは決してリックに限ったことではない。
ユノに魅了され、ユノを信奉する者たちにとっては、ユノに失望されたり嫌われたりすることは、何よりも恐ろしいことなのだ。
◇◇◇
「おい、少しは落ち着けよ。俺まで緊張してくるじゃないか」
ギルバートとリックは、勢いに任せて城に乗り込んだものの、気持ちだけが先走って、約束よりかなり早い時間である。
そして、現時点でのユノは入浴中であり、準備が整うまでに少し時間がかかるというので、応接間で待たされることになった。
最初は湯上がりのユノが見られるかもしれない幸運に胸をときめかせていたふたりだが、次第に冷静さを取り戻してきたリックが落ち着きをなくし、貧乏ゆすりを始めた。
更に時間が経過すると、リックの震えは全身に広がり、テーブルの上に置かれたカップがカタカタと音を立て始める。
それが、カップの中のお茶が零れそうなくらいになってくると、ギルバートもいよいよ無視できなくなってきた。
そこへ折悪く、ホムンクルスが冷めてしまったお茶の交換に現れる。
「ユノ様の準備に少々時間がかかっておりますので、申し訳ございませんが、今しばらくお待ちください」
混乱するリックには、ホムンクルスの言葉は上滑りしてしまって意味が理解できない。
ただ、ホムンクルスの入室に驚いたせいか、混乱は更に酷いものになり、止めようとして意識すればするほど震えは加速する。
「お、おい、ざ残像がが見えててるぞぞ」
その振動は、ギルバートにも伝播するまでになっていた。
「おおおお俺はははもももうもう駄々駄目だだだあああとののおこととは」
「し喋らなくていいい! し舌たを噛むぞぞ!?」
ギルバートも、これはさすがにまずいと考え、止めようと押さえ込む。
しかし、膂力ではリックに遥かに劣るため、不十分な体勢では止めることはおろか、弾き飛ばされないようにするので精一杯だった。
「お大人ししくくしろってのの!」
業を煮やしたギルバートが、リックに覆いかぶさるように押さえ込む。
ここにはユノに会いに来たのであって、むさ苦しい男に抱きつくなどギルバートの望むところではなかったが、これを放置していては、これまで地道に積み上げた評価が下がるおそれがあった。
「待たせてごめんね。お風呂に入っていたものだから――」
そこに、またも折悪く、四つん這いのお馬さんに堕ちたアーサーと、それに横乗りしたユノが入室した。
ユノの目に映ったのは、リックに覆いかぶさってカクカク揺れるギルバートの図。
ついでに、ふたりして「「あおおおおあおあ」」と変な呻き声をあげている。
ユノの認識能力をもってすれば、正確な状況を把握することなど造作もないことだ。
しかし、プライバシー保護の観点から、城や町ではその能力は自粛しており、緊急事態でもなければ、朔からの情報も遮断している。
つまり、今の彼女には、目視と音声による情報しか伝わっていない。
ユノとしては、風呂場などで生まれたままの姿を見ているし見られてもいるので、今更という感じしかない。
しかし、アイリスたちからすれば、トイレタイムやムダ毛の処理をしているところなどは見られたくない――見られるのは、綺麗なところだけに限定したいのだ。
この件に関して、「そんなの気にしないのに」と言ったユノに対して、
「では、ユノがそこからお酒を出している姿を、みんなに見せることができますか?」
と、よく分からないやり取りがあったのは別の話である。
ギルバートにしても、ユノの登場にはいろいろとツッコミを入れたいところだが、彼自身の今の状況を考えると、そんな場合ではない。
むしろ、ナニを突っ込んでいるのかと疑われかねない。
「――ごめん、お邪魔だったかな。用事を思い出したから、二時間ほど席を外すよ」
そして、ギルバートが有効な対処をするより早く、ユノが動いた。
「掃除が済みましたらお呼びいたします」
そして、ホムンクルスが、それに追従する。
ユノは、にっこり笑ってアーサーの尻を叩き、部屋を出て行こうとする。
「ちょ!? 待ってください! 違うんです!」
ギルバートは誤解を解こうと叫ぶも、絶妙なビブラートがかかった声には説得力が無かった。
「衆道で、しかも見られながらがいいとは、貴様も随分と業が深いのだな。いや、愛の形は様々だ。励めよ」
アーサーは、ユノを乗せたまま優雅に180度回頭し、腫れた顔だけをギルバートたちに向けて、有り難くない理解を示すと、頷きながら歩き出した。
なお、アーサーの顔が腫れているのは、ユノを背に乗せて空を飛びたいと口にしてミーティアの怒りを買い、ボコボコにされたものである。
しかし、今のギルバートには、多くを気に留める余裕はない。
「手綱が鼻フックになっている人に、業がどうとか言われたくないです! そうじゃなくて、コイツがビビりすぎなんで、どうにか止めようと――」
「とりあえず一発ヤッて、落ち着かせようとしたと?」
「だーか−らー、そうじゃないんですって! お前も何か弁明しろよ! お前のせいであらぬ疑いをかけられてるんだぞ!?」
何をどう言えばいいのか分からなくなったギルバートは、リックの援護に一縷の望みを託す。
「うっ! ふぁ……」
しかし、当のリックは、ユノの視線が向けられた途端に、気の抜けた声を残して気絶してしまった。
「果てたか」
「何事ですか!?」
そこへ遅れてやって来たアイリスたちが部屋に飛び込み、更なる混乱と誤解を生むのだった。
◇◇◇
「今日は、コイツがユノ様に相談したいことがあると言うので、顔繋ぎに同行しただけなんですが……」
リックが気絶したことで震えも止まり、混乱もひとまずは落ち着いた。
しかし、ギルバートとユノたちとの距離は、いつもより少し離れていた。
それがギルバートの気のせいであればいいのだが、アイリスやリリーの刺すような視線や、ソフィアの蔑むような視線が彼らに向けられていたのは、気のせいで済ませるには危険なものだった。
「あの、性の悩み的なことは管轄外なのだけれど……」
そして、肝心のユノの誤解は解けていなかった。
ユノも、行為の意味こそ理解しているが、元々そういった衝動が薄く、また周囲に特殊な嗜好の持ち主が多いため、ギルバートたちの痴態を見ても「そういうものなのか」と思う程度だった。
それで蔑んだりはしないものの、アイリスたちの反応が過剰なこともあって、話題を振ってほしくないと思っている。
また、今のギルバートは、顔は紅潮し、鼻息も荒く、誰がどう見ても普通の状態ではない。
先ほどの出来事と合わせれば、女性でなくても避けたいと思うだろう。
しかし、これはユノが湯上りで、何ともいえない色気や良い香りを発しているからで、それがまるでフェロモンのように、ギルバートの心を鷲掴みにしていたからである。
また、普段とは違う浴衣姿――いつものミニスカートや女神ルックからすると露出度こそ低いものの、そこから覗くほんのり上気した肌は、ギルバートの理性をガシガシ削っている。
むしろ、よく自制を保っていると褒めるべきだろう。
「いえ、そうではなくて、――今日もいつものアレです」
ユノの意を酌むのであれば、ここから先をギルバートが話すのは筋違い――飽くまで、リックの口から話すべきことである。
「これがいつものことなどとカミングアウトされてものう……。ここにおるのは未通女ばかりじゃから、アブノーマルな相談は、赤にでもしてくれんかのう」
しかし伝わらない。
ギルバートが何かを喋るたびに、女性陣との距離が開いていく。
物理的にも、精神的にも。
「何を言うか。俺は純愛に生きる男だぞ?」
純愛とは何だろう――と、ユノの尻に敷かれ、顔を腫らして鼻フックされた男の言葉を、ギルバートは現実逃避気味に考えていた。
◇◇◇
『それならそうと、はっきり言えばいいのに』
もういいや――と、開き直ったギルバートは、知っている範囲の情報を吐き出した。
話が重複することになるだろうが、リックの口からもう一度語らせればいい。
それよりも、彼自身の名誉を回復することが先決だった。
しかし、それでもまだユノたちとの距離は遠い。
『間諜がいるなんて分かった上で受け容れてるのに、なぜ今更処罰を受けるとか思うんだろうね?』
「正直、流されて困るような情報は特にありませんし、むしろ、どんどん情報を流してほしいところですけど。それに、町はともかく、城内での工作は邪神くんが各所にいる以上不可能ですしね」
「儂や赤がおる時点で、下手な誤魔化しは通じんのじゃがのう。奴らもバレるのは承知の上で送り込んできておるじゃろうし、そこからどちらが裏をかけるかじゃろう」
「情報を漏らさないように呪いをかけたり、人質を取ったり――相手がユノでなければ有効だったかもしれないけど」
「ユノさんを舐めすぎです!」
「奴らに分かるのは、ユノ様がそれらを解決する能力を持っていることだけ。だが、その能力の詳細は全く分からない。――結果、泣き寝入りするしかない。見事に予想どおりでしたね」
最初に聞いた時は、ギルバートも驚いた。
彼らからすれば恐ろしい力を持っている邪神くんは、ユノが戯れに創り出したものでしかない。
しかも、それはギルバートには分からないが、城の各所に隠されているというのだ。
それ以前に、ユノは六大魔王たちを脅威としてみていない。
残りの3人とは比較的友好関係にあるようだが、彼らを含めたとしても評価は変わらないと見ている節がある。
ギルバートたちも、当初はそこに不安を覚えていたが、初めてユノの訓練を受けた時に、闘神クライヴに勝利したこともまぐれではないのだと理解させられている。
しかも、その規格外の戦闘能力を遥かに超える特殊能力を持っているというのだ。
町の住人が、「湯の川に世界樹があるのもユノ様のおかげ」というのも、あながち冗談に聞こえない。
ユノ自身は、受け容れた魔王も六大魔王も、目に余るようでなければ放置するつもりだったが、アイリスはユノを抑止力にしようと画策していた。
ユノについて、正確な情報を集めるのは不可能である。
種子の存在を知らなければ、どれだけ調べても詳細は不明で、抵抗は不可能なのだから。
それでも挑んでくるような愚か者には、痛い目を見てもらえれば――と考えているのだ。
「まあ、大々的に『処罰しないよ』って伝えるのも何か違うし」
「衰弱するくらい悩んだり、気絶するくらい怖がったりするのが罰ってことでいいんじゃない? ほら、あの子、女王蜂の――何て名前だったかしら」
「ローズマリーですね。彼女、死にそうなくらい衰弱していましたね……」
「訓練がきついのもあるのじゃろうが、さすがの儂も見ていて気の毒に思ったわ」
「私ってそんなに怖いかな? あまり怒らない方だと思うのだけれど」
「ユノさんは優しいですけど、邪神くんは……」
「あれには儂でも恐怖を感じるくらいじゃからの……」
「一見、全然大したことなさそうに見えて、本性は――っていうのがユノとそっくりよね」
邪神くんに対して、初見で脅威を感じる者はまずいない。
目も鼻もないのっぺりとした人形を、不審に思うくらいが精々だろう。
しかし、その本性を実際に見てから強がれる者はそうはいない。
創造主であるユノですら、中身は怖いと思っている。
ユノが怖いと思っている物が具現化されているのだから当然なのだが。
ギルバートたちは、実際に動作したそれを見て、見た目の気持ち悪さなど気にならないくらいの、死とはまた別の、この世にあってはならない存在に、根源的な恐怖を刻み込まれている。
しかし、それ以上に、彼らはユノに愛想を尽かされることが怖かった。
種族や価値観を超えて、全ての者を魅了する美貌と、底の見えない強さ。
それらを鼻にかけるでもなく、誰にでも気さくに接し、これこそが母性だといわんばかりに包み込んでくれるような、尊い存在。
一族や、大切な者たちのために魔王として生きることを余儀なくされた魔王たちも、ユノの前ではただの個人に戻れた。
それに、彼らの眷属までをも手厚い待遇で迎えてくれた。
しかも、他の大魔王のように力尽くで支配しようとしたり、尊厳を踏みにじったり、捨て駒にされることもない。
出会ってから日は浅いが、容姿や人柄、実利までもと、ユノに惹かれるのは無理からぬことだった。
湯の川に集った魔王たちの間で度々話題に上がるのは、ユノが何を求めているのか、何の得があって自分たちを受け容れたのかが大半を占めていた。
眷属たちが平和に暮らせる環境は彼らが望んでいたものではあるが、魔王を集めて何をするかと思えば学園作りだという。
弱肉強食と打算の中で生きてきた彼らにとって、突然自由を与えられても困惑の方が勝ってしまう。
厳しい訓練の中での僅かな休息の時にわざわざこんなことを話し合うのも、理由を明らかにして少しでも安心したいからである。
学園の講師の件を迷うことなく受けたのも、どんな形でも役に立ちたいと考えたからだった。
それでも、彼らを講師にして学園を作ったとして、ユノは何を得るというのか。
現状以上の富や名誉などが目的ではないことは確かだし、彼らを含め、世界の支配を望んでいるわけでもない。
彼らとしては、むしろ支配されたいくらいなのだが、ユノは頑なに支配者となることを拒む。
そこに、ユノが直接口にした言葉ではないが、
「ユノ様は、私たちが支配されることに甘えて、自らの意志を放棄することをよしとしないのではないでしょうか」
と、シャロンが言っていたことが、最も納得できるものだった。
それを聞いた魔王たちは、
「さすが、ユノ様の巫女というだけはある」
と、シャロンがユノの代弁者に相応しい存在だと認めつつ、狂信者化への一歩を踏み出す。
そして、シャロンも魔王たちに一目置かれる存在となっていく。
狂信者化が始まってからの、彼らの理解度の上昇は早かった。
彼らはすぐに、「ユノの望みは、魔王や町の住人たちが努力して、少しでも高みに上がって行く様子を見たいのではないか」という、予測というか願望に達した。
つまり、彼らには成長できる余地があり、ユノは彼らに期待しているのでは――という結論に達したのだ。
なお、ユノの希望は「町の住人たちの自立」であり、そこまで大層なことまでは望んでいない。
無論、そうあるよう努力するのは好ましく思うという意味では正解だが。
「もしかすると、ユノ様は寂しいのかもしれないな。つまり、ご自身の横に並び立つ者が現れるのを待っているのかもしれない」
中にはそんなことを言う者もいて、みんな表向きは笑い飛ばしながらも、ユノの隣に立つ自身を想像して心を躍らせた。
そう考えると、支配しないことも、恵まれすぎた環境も、誘惑に打ち克つ強い心を養うためなのではないだろうか――と、彼らは都合よく解釈した。
狂信者化が進んでいた。
さすがにユノと同格の存在になることまでは無理でも、アイリスやソフィアやシャロンのようなポジションなら得られるかもしれない。
当然、彼女たちにはそのポジションにいるだけの理由があり、そのポジションを奪うことは容易ではない。
それでも、魔王たちからすれば、彼女たちはリリーのような天才児でも、ミーティアやアーサーのような規格外でもない。
能力的には、手の届かない存在ではないのだ。
ただし、他者の足を引っ張ったり、蹴落とすのは悪手となる。
それでユノが喜ぶとは考えられないこともあるが、現状ではそんなことをしている体力や気力の余裕が無い。
何より、またも都合の良い解釈をすると、それくらいの成長は可能であるとユノが考えていて、期待されているのであれば、何をすべきなのかは考えるまでもない。
そもそも、彼らの可能性を否定する要素が無い。
少なくとも、彼らはこの短期間に、これまでの常識ではあり得ないペースで成長しているのだ。
どれほど無茶な要求でも、ユノが期待していることなら、ユノが可能だと思うことなら可能なのではないかと、彼らは自信をつけるに至っていた。
そうなると、他者の足を引っ張るより、自身を向上させた方が建設的だ。
誰かひとりを蹴落とせたとしても、その間に他のみんなに置いていかれるのだから。
◇◇◇
実際には、魔王たちの訓練相手は、ミーティアたちで充分どころか、過分なレベルである。
そんなところにユノが顔を出しているのは、ひとりだけ何もしていないように思われるのは外聞が悪いという一点だけである。
あえて、もう少し理由をつけるとするなら、魔王たちの《鑑定》結果と、実際に手合わせしてみた感想などをまとめて、独自の「鑑定」を開発できないかと模索中なことくらいだろう。
しかし、現在のところ大した成果は上がっておらず、これもあえて挙げるとすれば、手加減が非常に上手くなったことくらいだろうか。
もっとも、手加減というのは魔王たちに対してではなく世界に対してなので、魔王たちの受けるダメージや恐怖は据え置きで、取得できる経験値のみが下がっていた。
現状、ユノが訓練に付き合う意味はほとんどない。
「ユノ様たちのおかげで強くなってます!」
「次はもう少し我慢してみせます!」
「期待していてください!」
などと、楽しそうに話す魔王を相手に、どれくらいまでなら壊れないかの実験をするくらいである。
結局、ユノ主催の訓練は阿鼻叫喚のままだったが、一部の魔王たちがそれを楽しみにしている節もあったりして、最早惰性で続けているにすぎない。
世の中には知らない方が幸せなことも多々あるのだ。
もっとも、知れば知ったで、立派な狂信者となりつつある彼らは、「ユノ様の役に立つなら」と喜々として実験台に志願するだろう。
奇跡以上の存在と、特殊な環境と、適度な誤解が、意図しない形で見事に噛み合って、狂信者は増えていく。




