03 計算で
朝7時。
「ピーピーピーピー」
目覚ましを止める。
ここで、いつもの蘭なら、もう一度寝て、母の突撃で起こされるという日常だが、今日は違った。
目覚ましを止めると同時に、起き上がり、壁を見た。
壁の向こう側の、薄暗い冷たい石造りの部屋の中から、男の子が不安そうにこちらを見ている。
蘭は落書き帳を探して、『おはよう』と書き、笑う。
するとカイルも嬉しそうに、笑った。
『良かった~。蘭の方から見えなくなっていたらどうしようって不安だった』
(あぁ、それであんなに不安そうだったんだ)
『しっかり、みえてるよ』
書いてから、急いでもう一言書き足した。
『カイルは、あさごはん たべたの?』
カイルが首を横に振った。
その時、カイルがビクッとし、急いでノートとペンをベッドの下に隠した。
それから恐ろしい者でも来るように、奥のドアを見つめている。
蘭も緊張し、何が来るんだろうとドキドキしていた。
ガチャ!
「キャー!」
「うるさいわね。起きているならさっさと下に来て、朝ご飯食べにいらっしゃい」
開いたのは、蘭の部屋のドアだった。
怒って言うだけ言うと母は、ドアを閉めて下りていった。
「あーびっくりした。こっちだった」
蘭が胸を撫で下ろしていると、カイルの方のドアが開いた。
女の人が、さも面倒臭そうに床に小さな器を置いた。
カイルはチラチラと壁を見ながら、何かを祈っているように胸の前で手をギュッと組んでいる。
女の人はカイルを一瞥しただけで、一言も喋らずさっさと出ていった。
カイルは、壁の事に気付かれなかった事にほっとして、笑いながら蘭を見た。
昨日からずっと笑っていた蘭が、声は聞こえないが大粒の涙を流して号泣していた。
蘭の部屋に、蘭の鳴き声を聞いた兄の葵が入ってきた。
「どうした? お腹痛いのか?」
兄に聞かれても、何が悲しいのか分からなかった。
騒ぎを聞きつけ、母も来た。
「え? 何? ケンカしたの?」
葵は首を振る。
「違うよ。一人でいきなり泣いてたんだよ」
二人はいつもと違う蘭の様子に、あたふたしていた。
「ヒック、ヒック」
蘭はしゃくり上げながら、壁の向こう側で心配そうに見ているカイルを見た。
その瞬間に、たった一人で厳しい生活をしているカイルに、甘やかされている自分を見られる事が、恥ずかしいと思った。
それと同時に、カイルに寂しい思いをさすんじゃないかとも思った。
「だい、ヒック、大丈夫、ヒック、だから」
「まだ、泣いてるし」
兄が頭を撫でる。
「もう、ヒック、ホントに大丈夫・・グス・・」
蘭の様子を、見ていた母が、ふーっと長い息を吐いて、立ち上がった。
「本当に、もう大丈夫なのね? でも、今日は学校をお休みしましょう」
蘭がコクンと頷くと、母は立ち上がり、蘭の横にいる葵に手招きして、部屋の外へと促した。
「葵、ちょっと、下に来て」
百合と葵は蘭を部屋に残し、1階に降りた。母はダイニングの椅子に座ると、葵に昨日の事から説明した。
「昨日からちょっと蘭の様子がおかしいのよ」
「おかしいって?」
「壁の中に男の子がいるとか言い出して・・嘘を付いてるって感じでもなかったし、何か変なのよ」
言い終わってから、時間がかなり過ぎている事に気付いた百合は、時計を見る。
「ごめん、今日は挨拶当番で、早く学校に行くんだったよね! 葵、もう時間ギリギリだわ。学校に行く用意してー!」
「今日は塾ないし、帰ってきたら、蘭の話聞くね」
葵は母を落ち着かせようと、優しく話す。
「ありがとう、葵。そうだ、今日、蘭は学校お休みさせるから、連絡帳を蘭の担任の先生に、渡しといてくれる?」
いつも元気な蘭が、昨夜から見せた奇妙な行動は、母の神経をすり減らしていた。
力なく蘭の学校を休ませる結論を出した母を気遣って、葵はいつもより元気に振る舞う。
「いいよー」
返事をすると、ランドセルを取りに葵は2階にあがって行った。
葵は階段を上りきると、廊下を足音立てずにそぉ~と歩き、蘭の部屋のドアに耳を付ける。
時々、蘭の話し声は聞こえるが、他の子の声は聞こえない。
妹が変になったのかという不安をこれ以上大きくしない為に、ドアから離れた。
葵は 自分の部屋でランドセルを背負い 、そのままリビングに行った。母から蘭の連絡帳を受け取り、中を見ると、「腹痛の為欠席します」と書いてあった。
母と兄が出ていった後、恥ずかしそうに、ブーっと鼻をかみ、カイルを見た。
カイルは全く何が起こったのか分からない、といった感じで佇んでいる。
蘭は、謝りたい気持ちでいっぱいだった。
でも、いざ書こうとしたら何から書いて良いのか分からず、手が止まってしまった。
『ごめんね』
とだけ書いた。
『もう大丈夫? どこか痛くなったの?』
カイルからの返事で、また目が熱くなってきた蘭は、書くふりせ下を向いて、誤魔化した。
『どこも いたくないよ。もう だいじょうぶ』
見せて笑った。
蘭は大泣きする原因の1つでもある、カイルのご飯を見た。
(ヤバイ、また泣きそうだー)
グッと堪えてよく見る。やっぱり残飯みたいだった。
『いつも、そのごはんなの? それをこっちにわたしてくれる?』
蘭はそのご飯を直接見て、食べられるのか確かめたいと思ったのだが、カイルは躊躇った。
(あっそうか・・カイルにとっては貴重なご飯なんだ。 それを横取りするみたいに書いちゃった)
蘭は慌てて、ちょっと待ってての意味を込めて、掌をパーにして両手を付き出した。
それから慌てて1階のキッチンに来て、冷蔵庫からプリンとロールパン1個を持って行く。
百合はその行動を見ていたが、声を掛けそびれた。がまた蘭がキッチンに戻ってきて、スプーンを2階に持っていく。
明らかにおかしい娘の様子に、意を決して娘の部屋に行こうと立ち上がった時、また娘が階段を下りてきた。
「蘭? どうしたの? お部屋で食べたいの?」
キッチンで真剣に、牛乳をコップに入れている蘭は、とても急いでいた。
「喉にパンがつまったの! 死んじゃう!」
こっちを見ずに、コップを持って2階に駆けていく。
「ちょっと、どういう・・」
百合は、ソファーに落ちる様にどさっと座る。
(後で、後で見に行かないと・・)
ドキドキ鳴る心臓が落ち着いたら、娘の部屋に行こうと思った。
そんな母の心配を、余所に蘭とカイルは笑っていた。
『のどが、つまったのかと かんちがいしたよ』
『ごめんね。こんなに美味しいパンを初めて食べたから、ビックリしてとまっちゃった』
「もう、カイルってば。ハハハハ」
「ハハハ」
声は聞こえないが、どちらも笑っているのは分かった。
今またカイルは、目を見開いて、ビックリしている。
今度は、蘭も勘違いせずに笑って見ている。
カイルはプリンを食べている。
嬉しそうだ。カイルがこんなに喜んでいるから、もう1個持ってきてあげたいけど、蘭は少しずつだと自分に言い聞かせて我慢した。
カイルがご飯を食べた後で、蘭も朝ごはんを食べに行くと、母が驚いた様子だったけど、用意をしてくれた。
母がいつもと違う感じだったが、カイルが気になっている蘭は、全く気が付かなかった。
だから、不安そうな母に「ご馳走さま」と言うとすぐに蘭は自分の部屋に戻った。
蘭は珍しく、勉強をしていた。
それは、カイルから2桁の足し算引き算を教えてほしいと頼まれたからである。
この行動も母から見たら、おかしな行動の一つになってしまうのだ。
百合は意を決して、娘の部屋をノックした。
すると、蘭が勉強をしているのだ。
「あら、頑張っているのね」
と顔を引き攣らせながら、声を掛けて、直ぐに蘭の部屋をでた。
(やっぱり変だわ・・どうしよう)
娘を思う母は、お昼ご飯も喉を通らないくらい、心配していた。
それを余所に、2階から娘の無邪気な笑い声が聞こえてくる。
百合は耳を塞いで、ギュッと目を瞑った。
百合はベランダに干した洗濯物も、取り入れられない程、憔悴していた。
「ただいま」
母が待ち侘びた息子の声が、玄関から聞こえた。
「お帰りなさい」
母の様子を見た葵は、なんとなく察する。ランドセルをソファーの横に置いて、直ぐに話を聞く体勢になった。
「もう、ずうっと一人で話しているの。朝は喉が詰まったって牛乳を2階に持っていくし、昼御飯のうどんも2階で食べるからって言って、なぜかお椀もお箸も余分に持っていくのよ」
百合は、心細かった分を吐き出すように、一気に喋り続けた。
幼い頃から父が単身赴任で、家にいない分、葵は母の精神的支えになっていた。
そのせいか、年齢よりしっかりした、少年になっていた。
「分かった。取り敢えず、蘭の話を聞いてくるよ」
母の話だけでは、釈然としないので、蘭に直接聞いた方がよさそうだと葵は判断した。
蘭の部屋の前まで来ると、笑い声が聞こえる。
しかし、葵がノックするとその声は止んだ。
「おーい、大丈夫か?」
部屋に入ると、小さな折り畳みの机をぴったり壁に付けて、蘭が勉強をしていた。
(蘭が勉強? そりゃ驚くな)
蘭は警戒心を露骨に出して葵を見ている。蘭を安心させる為に、軽い口調で聞いてみる。
「昨日、男の子を見たんだって?」
蘭は壁を見た後、葵を見て少しがっかりしたようだ。
(壁? 壁の中に?)
返事をしない蘭が、何を考えているかわからないが、その代わり蘭の視線を注意深く観察する。
「今もいるの?」
葵が聞くと、今度はコクンと頷いた。
「壁の中に?」
蘭は頷く。葵が壁の中を覗こうと、おでこを壁にくっつけて、手で影を作って目を凝らす。
が、何も見えない。
ふと、蘭の計算ドリルを見ると、いつもの沢山ある筈の計算間違いがなかった。そして、落書き帳を見つけた。
「その男の子とのやり取りは、落書き帳でしているの?」
「うん」
「今、二人で勉強をしていたの? 偉いね。男の子は何歳なの?」
葵に褒められて嬉しくなった蘭は、少し警戒心を解いた。
「カイルも私と同じ年で、7歳なんだって。カイルに勉強を教えたら、もう2桁の計算を、スラスラ解ける様になったんだよ」
「そうなんだ。じゃあ、僕が問題を出すから、その子に答えてもらってよ」
「うん、ちょっと待ってて」
蘭はそう言うと、落書き帳にその事を、書いて壁に向けた。
「カイルがいいって、言ってる」
蘭の返事で、男の子がカイルと言う名前なんだと分かった。
『32+45=
46+28=
19+47= 』
葵は落書き帳に書いて、蘭に渡した。そして、計算を解く様子を見ていた。
計算を渡して直ぐに蘭が壁を見ながら、答を書き出した。
『32+45=77
46+28=74
19+47=66 』
葵は確信した。
本当に壁の向こうに男の子がいるのだと。
(こんなに素早く、蘭は計算が出来ない筈だ。つまり、本当に居るんだ。蘭がちょこっとおバカで良かった。それと男の子が賢くて良かった)
「蘭、本当にカイルって男の子が居るんだね。信じるよ」
その言葉を聞いて、蘭は驚いた後嬉しそうにブンブン頷く。
「見えないのに、信じてくれたの? ありがとう、お兄ちゃん。どうして分かったの?」
「うっ、うん。え~と、お兄ちゃんは、何でも分かるんだよ」
(理由は言えないな。さて、今度はお母さんだ)
葵は、母に説明すべく、リビングに下りていった。