21 家庭教師の好奇心
リリオはカイルがお昼ご飯を食べに行く先は、牢屋だろうと見越していた。
案の定、カイルは牢屋のある建物に走っていく。
カイルが入った後、そっと中に入り様子を伺った。
しかし、いる筈のカイルは靴だけ残して消えていた。
壁際に残された靴を見て、カイルはこの壁の向こうに消えたのではと推測した。
しかし、そんな荒唐無稽な事を誰が信じるのだ。
自分自身の推理を笑った。
だが、この部屋には必ず秘密があると、くまなく探す。
しかし、探せば探す程ここが如何に酷い場所かわかるくらいで、他には何もなかった。
(もう、戻るか)
と思った矢先、カイルと女性の話し声がした。
リリオは壁に耳を付けると、カイルの自慢げな声が聞こえてきた。
『お母さん、今日のテストなんだ』
『す、す凄いじゃない!』
その後も女性の声が嬉しそうにカイルを褒めている。
そのやり取りは本当の親子だった。
あまりに微笑ましい会話に、ついつい聞き入っていると ガチャッとドアが開く音がしたので、慌てて牢屋から出た。
本館に向かうカイルを見ながら、リリオは信じられない出来事に心臓がドキドキしていた。
(間違いない。あの壁の向こうにカイルは行き来していて、違う家族と幸せに暮らしているんだ・・・これは凄いぞ!凄い事だ)
リリオは興奮のあまり頭をグシャグシャに掻いた。
カイルが執務室の戻ると、リリオは居なかった。
「先生はどこに行ったのかな?」
次の授業の用意をして待っていると、息を切らせたリリオが入ってきた。
「少し遅れてしまったね」
キリッとした顔なのに、髪の毛がグシャグシャでカイルは目が点になった。
「あの、先生。髪の毛が・・風に吹かれたのか・・・少し乱れてます」
「うん?」
鞄から鏡を取り出して、慌てて見ると頭が炎の様に逆立っている。
綺麗にヘアセットすると、改めてカイルを観察する。
(この年で人の揚げ足を取るような事も言わず、しかも言葉選びも適切だ。私達兄弟が探していた人物ではないか? しかしまだ幼い。慎重に行動しなければ・・・)
カイルの身体を見ると、やはり健康そうだ。肌艶もいい。
次に爪を見る。そこには根元から少し上の部分が変形している。
これは栄養素が足りていなかった事を示していた。
リリオの眉がグッと中央による。
変形している部分は1cm以上ある。これで随分と長い間食事が摂れていなかった事が解る。
しかし、根元部分から近い所は治っている。これは現在は栄養が足りている証拠だ。
今は十分に食事が摂れているのだろう。
カイルがあの壁の向こうの人達に会っていなければ、確実に今こうしてカイルには会えていなかっただろう。
この事を兄のリジュールに報告するべきかを考えたが、今は伝えるのは止めておこうと考えた。
カイルが首を傾げて、次の算数の授業を待っている。
今日は、カイルが少し苦手そうだったところを中心に進めていく。
苦手と言っても割合の計算問題だ。普通なら、難しくてこの年の子が解ける問題ではない。
リリオが教えると、早くも理解して解いていく。
この問題は皇帝陛下の孫で解けた者はいなかった。すでに18歳の成人した者でも解けなかった。
皇帝陛下の家族は、今の政治を貴族に任せて腐敗していくばかりだ。皇子達もいい年のおじさん連中なのだがポンコツばかりだ。
大人がこうなのだから、その子供達は向上心もない上にプライドだけは高く、下の者達への思いやりに欠ける行動が甚だしい。
「解けました」
問題から顔を上げたカイルが満足そうだ。
「うん?」
カイルの答えを見たリリオが首を傾げる。
「えーと・・・これは・・何?」
リリオがカイルの答えに見たことがない単位を付けているのだ。
そこには『割・分・厘』の文字があった。
「あっ、間違えました」
葵が教えてくれた『割・分・厘』
はこの世界にはない。
「きっと、君の『葵お兄ちゃん』の世界ではこの単位なのだろうね」
カイルの動揺を横目で確認しつつ、もう面白がっている。
「そうだ、君のもう一人の先生はどの程度の問題を解いているのかな?」
問題を見せられたカイルは、リリオの顔を見てそれには答えずに、すぐに自分の問題に向き合った。
「まさかいい大人がこんな問題も解けずに君に教えているのかな?」
「お兄ちゃんはまだ12歳だよ!それに、お兄ちゃんはここにある問題は全部解けるよ!」
カイルはまたもリリオの挑発に乗ってしまった。
また、からかい半分の笑いを浮かべているのだろうとリリオの顔をみると、明らかに動揺している。
「12? 12歳だって?」
暫くリリオの頭が動きを止めた。
「今、カイル君。君を教えてくれている先生は12歳だと言ったね?」
信じられないといった顔でしつこくカイルに問う。
リリオの問いに、話してしまったカイルは、もう隠さず話す。
「そうだよ、お兄ちゃんは12歳で、リリオ先生が今手に持っているその難しそうな問題も軽く解くよ」
リリオが「うーん」と唸っている間にカイルは残りの問題も解いていく。
(参ったな・・カイルには大人が教えているのだと思っていたのに、少年が教えていたなんて・・しかもこの国の青年が解く問題をスラスラ解けるだって? )
目の前のカイルもそうだが、カイルの『お兄ちゃん』にも興味が湧いた。
その日、リリオがカイルに質問したがもう答えてくれなかった。
そこで、リリオはおよそこの国の12歳には到底解ける事が出来ない難問をカイルの宿題の中に一問だけ紛れ込ませた。
「明日までにやってきて下さい。もし解らなかったら誰かに教えてもらってもいいので必ず明日提出して下さい」
という言葉を付け加えた。
家に帰ったカイルは早速、宿題を済ませようと頑張った。
歴史の問題は、教科書と資料集を見ながら解けた。算数の問題は一問を除いて全て解けた。
でも、最後の一問がどうにも解らない。仕方なく葵が帰ってくるのを待った。
葵は公立の中学校に行く事になっても、相変わらず塾には通っていた。
最近は塾の先生が葵のカリキュラムを変えて、中学校に入った後の勉強に変更し、その先の高校受験に向けての勉強を頑張っていると言っていた。
どうやら塾の先生は、葵にこのまま塾に通って高校の受験先に凄く難しい難関高校を目指して欲しいようだ。
夜遅く帰ってきた葵に、カイルは勉強を教えて欲しいと言い出せずに、そわそわしていた。
「お母さん、お腹空いたー」
鞄を放り投げてダイニングの椅子に座り込む葵に、カイルがリビングのソファーからじっとみる。
「どうしたの?」
葵がカイルの視線に気が付く。
「えーと、今日はお兄ちゃん、疲れてるから明日でいいや」
カイルが手に持っていた宿題の用紙を机の上に伏せて置いた。
葵がダイニングの椅子から立ち上がり、リビングのソファーに座るカイルの横に座る。
「これだな?」
と、カイルの宿題の用紙を見た。
「いいよ、お兄ちゃん。疲れてるし・・」
「この問題って・・・カイルの宿題なの?」
葵がカイルの宿題の難しさに違和感を感じる。
「ふーん・・リリオ先生って意地悪なのか?」
葵が口をへの字に曲げている時は、少し考え事をしている時だ。
「そんなことないよ。今日の宿題もこの問題以外は簡単だったし。
優しい先生だよ」
「ふーん。若い先生って言ってたし好奇心旺盛なのかな? まあいいかぁ」
カイルは葵が何を言っているのか分からなかった。
葵はすらすらと問題を解くと、カイルに向き合う。
「カイル、俺の事をその先生に言っちゃたんだね」
カイルの ばれた?って顔で返事をしなくても葵は分かった。
「そうだ。また、カイルに難しい問題を出されたら面倒くさいから、今勉強しているこの問題集を明日リリオ先生に見せてあげて。
それで、もうこんな難しい問題は出さないようにって言っておいて」
カイルは、なぜ葵の問題集をリリオ先生に見せると、難しい問題を出されなくなるのか分からなかった。
だが、葵の言う通りにすれば間違いはないと、その問題集をランドセルにいれた。
朝、いつもの時間に葵、蘭、カイルが各々の学校に行く。
執務室に入るとリリオが先に来ていた。
「おはようございます」
「おはよう。宿題は出来たかな?」
なんだかリリオがワクワクしているようなのがカイルには不思議だった。
「ふんふん。おおー。最後の問題はどうしたのかな? 誰かに手伝って貰ったよね?」
もうカイルは素直に答える。
「はい、最後の問題だけお兄ちゃんにしてもらいました」
(やっぱり、簡単に解いている)
リリオが感心しているとカイルがランドセルから葵の問題集を取り出しリリオに見せる。
「・・・これは何ですか?」
「お兄ちゃんがこれを見せたら、リリオ先生の『こうきしん』が満たされるって言ってたんです。それと、もう僕に難しい問題も出さないだろうって」
「!!・・・」
リリオは顔を天井に向けて右手で顔を覆う。
(12歳の子供に、見透かされてしまった・・それにしてもこの子の解答の仕方は誰が見ても分かり易く整然としている。優秀な子供だな。ふふふ。本当に好奇心だと見破る力も凄いな)
「葵君は優秀な子だと分かったよ」
リリオの言葉にカイルは本当に嬉しそうに笑う。
その後、授業は楽しく進んだ。
リリオがカイルの苦手な歴史を、重点的に教えた。
お昼ご飯は自由にしていいと言われたカイルは家に帰る。そして授業が終わる。
そうしてリリオの家庭教師生活は、1ヶ月何事もなく過ぎた。
リリオはこの生活を楽しんでいた。元々学校の先生になりたいと思っていたが公爵家の次男が市井に下る事も出来ず、皇帝陛下の家族の子供達を教える機会を与えられたが、どの子も勉強を教える以前の問題に、嫌気がさしてやめていた。
兄のリジュールから、頼まれた時も嫌々だった。
しかし、今は熱心な生徒と向き合って楽しく過ごしている。
公爵家から通うのが大変なので、第2皇子の住まいの近くに小さい家を借り上げた。
そこで、カイルの為に必要な授業の資料を作っている。
今日の準備も万端で、カイルの勉強を見ていた。
しかし、得意な算数も今日のカイルは中々解けない。
「どうした? 今日はいつもより解くのに時間が掛かっているが解らないのか?」
訝しげにカイルの顔を見ると顔がいつもより赤い。それに、目が潤んでいる。リリオがカイルの額に手を当てると多少だが熱い気がする。
(熱なのか?)
リリオは狼狽えた。
自分自身、大きくなってからはそうそう熱を出すこともなく、過ごしていただけに、小さい子供が熱を出した時の処置等、到底分かる筈もなかった。
おろおろしていると、カイルがどんどんグッタリしてくる。
誰かに相談しようとしたが、辛うじてやめた。
それが最悪の手だと、リリオにも分かる。弱っているカイルを正妻のエルザに見つかれば、看病と称してどんなあくどい事をするのか考えただけでも恐ろしい。
「・・・おかあさん」
カイルのか細い声がリリオを正気にさせた。
(そうだ、あそこに連れていこう)




