20 家庭教師(2)
「ただいまー」
カイルの元気な声が聞こえた。
「おかえりー」
百合が階段を駆け上がってくる。
そしてカイルの顔を見て安心した。無事を確かめるようにぎゅっと抱き締めた。
「心配してたのよ。飲み物持ってったら居なかったんだもん。大丈夫だったの?」
「お母さん、心配かけてごめんなさい。でも、もう大丈夫だよ」
ちょうど昼ご飯の時間に帰ってきたので、百合、洋一、カイルの三人でご飯を食べる。
「うふふ、今日家庭教師の先生に本館で暮らしなさいって言われたけど、『ここがいい』って泣いたら諦めてくれたんだ」
百合は、あの時のカイルが泣いていたのはそれかと状況を理解した。
「でも、初めてまともな意見の大人の人じゃないかしら?」
百合がうどんを啜りながら言うと、カイルが先生の事で思い出した事を言う。
「先生は皇帝陛下の第一側近のリジュールって言う人の弟って言ってた。そのリジュールって人が僕に家庭教師をつける様に言ってくれたんだって」
「カイル君は・・・カイルは何か光る物があるからリジュールという人はそれを感じたんだろう」
洋一が『カイル君』呼びから『カイル』呼びに変えてのを百合は聞き逃さなかった。
(どうやら、漸くカイルを家族の一員と認めたのね)
百合は心の中でガッツポーズをした。
夜にも二回目のガッツポーズをするのだが・・・
昼ご飯の後、ソファーでうとうとしているカイルを和室の布団に寝かせた洋一がしみじみとカイルの寝顔を見ている。
異世界で、魔法があって、壁がすり抜けられて・・・
常識では考えられない事ばかり起こっている。
でも現実に苦しいんでいるカイルを助ける事ができた。
洋一はカイルの事を信じられたから壁が透けて見れたのだろうと思う。
きっと今まで自分の意見を言った後は、その意見を押し通して人の事など考えていなかった。
葵の事はどうだろう?
自分の意見を言っただけで、話し合った事もない。
葵の顔をまともに見たのは、昨日が久しぶりだった。
しっかりした葵を見て、自分よりも冷静なところを見て、色々と考えさせられた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
蘭も葵も、学校帰りにどこにも寄り道せず、別れ際の友達のおしゃべりもせずに一目散に走って帰ってきた。
二人とも、「おかえりー」とカイルの声が聞こえると、玄関でへなへなと座り込んだ。
夕御飯を食べながら、洋一が珍しく話し出す。
「私は仕事で明日の昼頃に帰るよ。でも、蘭、カイル、葵になにかあったらすぐに帰るから知らせてほしい」
百合、蘭、葵は食べる手を止めて、ポカーンと洋一を見ている。今までは『私は忙しいのだから、くだらない事で連絡をするなよ』と散々言っていたのだから驚きもする。
三人が口を開けて驚いているのを見つつ、洋一は「コホン」と咳払いをして話を続ける。
「それから・・葵の中学校のことだが・・・お前が希望する所にいけばいい。その代わりしっかりと勉強しろよ」
そういうと、また洋一はパクパクとご飯を食べ出した。
ここで百合は心の中で・・・いや、本当にガッツポーズをしていた。
翌日、カイルが出掛ける時に洋一がカイルの頭を撫でて、「今度は旅行に行こう」と約束をした。
「カイル、そろそろ遅刻するから行ってらっしゃい」
百合に急かされて、急いで靴を履いて出掛けていく。
それから、蘭も葵も学校に行った。
洋一がサムソナイトスーツケース
を持って玄関に向かう。
「今度の休みは必ず家に帰るよ」
そう言って立ち上がる。
「今度は期待して待っているわ」
百合が久しぶりに笑って見送った。
「うーん」と百合は背伸びをする。家に洋一がいると頼もしい反面、肩の力が抜けないのでいなくなるとそれはそれで楽になる。
「昔、母が言っていた。『亭主元気で留守がいい』って本当ね」
ストーブを消して窓を開けて、掃除を始めた。
次の日の朝。カイルは昨日と同じ時刻ぴったりに事務室に入った。
「おはよう」
リリオ先生が先に来ていてカイルは焦った。
「先生おはようございます。あの、僕は遅かったでしょうか?」
「いいえ、私が早めに来たので気にしなくていいですよ」
リリオはカイルがちょうどに来たので、「やはり」と思う。
あの独房に時計はなかった。しかし時間通りにカイルが来た。と言う事は時計がどこかにあるのだ。
リリオの想像が現実を帯びてくる。
それから、昨日の算数の残りのテストをした。
カイルがテストをしている時にリリオはカイルが背負ってきたランドセルに目が行く。
形も独特で金具はかなりの技術を要して造られている。
カイルを育てているのは、金持ちなのだろうかと考えた。
「できました」と見せられたテストは小学5年生レベルの問題だった。
理科のテストも中々の出来映えだった。しかもこの世界では解き明かされていない様々な事を詳しく書いていた。
(この国の者ではない、もっと進んだ国の者に教わっているとしか考えられない。いや、この世界の者ではない可能性がある)
リリオがそう考えたのには訳がある。カイルが歴史のテストでは、一問も解けていなかったからだ。
「五歳の子供でも、クランクルの争いを止めた英雄の名前を知っているが、本当に聞いた事はないのかね?」
リリオの言葉に恥ずかしそうに小さな声で「知りませんでした」とカイルが答える。
「君の学習進度には、随分と落差があるな。歴史がここまで出来ないのは、君に教えていた者が余程出来の悪い者だったのだろう」
リリオはわざと嫌味っぽく口の端をクッと上げて馬鹿にするよう笑った。
「そんな事ない!葵兄ちゃんはとっても優秀で、運動だって・・・っっ!」
カイルがしまったと、口を手で押さえたが遅かった。
「幼い君にこんなやり方は卑怯だと思ったんだが、さすがに一人でここまで勉強が出来るのは不自然だろう?」
警戒してたのに、うっかりしてしまった自分に腹が立ったのか、カイルは真っ赤な顔で目に涙を溜めてリリオを睨んだ。
「大丈夫だよ。私は第二皇子の人達とは違う。君を貶めようなんてしないし、誰かに言う事もしない。私は君とあの牢屋の壁に興味があるだけだよ」
『壁』と言う言葉にビクっと反応したカイルだが、リリオはにこにこと微笑んでいるだけだった。
(でも、いい人かどうかなんて分からないから、みんなに帰ったら相談しよう)
目の前の男が何を考えているのか全く分からないカイルは、その後は何を聞かれても黙っていた。
諦めたリリオは、カイルの点数が壊滅的な歴史の授業を始めた。
もっと質問攻めにされると思っていたカイルは、授業が始まってホッとした。
リリオは以外にも、教え方が上手くとても分かりやすかった。しかも歴史の授業は沢山の絵の付いた資料集をテンポ良く見せてくれるので、絵と連動してすんなりと頭に入った。
「君はとても優秀だな。教えた事をすぐに他と繋げて考える事が出来る。さっきは君の『葵兄ちゃん』だったかな? その人を悪く言ってしまったが、その人の教え方が良かったのだろう」
カイルは大好きな葵が褒められて、満面の笑みで頷いてしまった。
リリオはクスッと笑う。
(他の事なら警戒心で、顔色ひとつ変えずにいるのに余程その男が好きなのだろう)
リリオは、兄のリジュールに頼まれて、皇帝陛下の血族の勉強を教えにいろんな人物を教えに行った。家庭教師と言う名目で、その人物の人柄や教養のある無し、学問に対する向上心等を見てきた。
第2王子には元々リジュール、リリオ兄弟には因縁のある人物だったが兄に頼まれて嫌々ロペスとリロを教えに来たことがある。
この兄妹を見に来た時は、ここには二度と足を踏み入れたく無いと思ったくらいに最悪だった。
第2皇子のポールは子供の勉学に興味がなく、彼からは人の悪口しか聞けなかった。正妻のエルザには次のパーティーに着ていく服やアクセサリーの自慢話を散々聞かされた。
そして、そんな二人に育てられた7歳の息子と5歳の娘は人の話を聞く事を知らなかった。
リリオの『教科書を開けて下さい』には、
『お前が開けろよ』で答える。
『3+2= 分からなければおはじきを数える所から始めましょう』
と言えば、おはじきを投げつけられた。
妹も同じようなものだった。
ロペスとリロの兄妹が我が儘いっぱいに育てられている頃、カイルは暗い独房にいたのか・・そう思うと今カイルが笑っている事を嬉しく思う。そして、カイルに勉強を教えている男に握手をしたい気分だった。
カイルが今日習った歴史のおさらいテストを満点で終わると、リリオはお昼休憩の時間だった。
「私はここで昼ご飯を食べるが、カイル君はどうしますか?」
ランドセルには百合が朝から作ってくれたお弁当が入っている。
これは、『家に帰って来れなかった時に食べてね』と言われてたのだ。
(どうせ食べるなら、お母さんと一緒に食べたいな)
暖かいリビングを思い出し、リリオに「外で食べてもいいですか?」と聞く。
ドキドキ尋ねてみたが、リリオは鞄のお弁当を探しているのか、カイルを見ることなく、「それなら、1時30分までに帰ってきてね」と了承してくれた。
カイルはランドセルを背負って走って我が家に帰った。
リリオは鞄から顔を上げて、カイルが出ていった後をそっとつけた。
「ただいまー」
靴をポーンと壁際に脱ぎ捨てて、家にかえった。
「おかえりー。もう授業は終わったの?」
「お昼ご飯はどこで食べてもいいから、家に帰ってきた」
カイルが話ながら洗面所に手を洗いに行く。
それから、お弁当をレンジで温めて百合と一緒にご飯を食べた。
歴史の授業の事を話しているとあっという間に時間が過ぎた。
百合が水筒のお茶が減っていないのを気にする。
「冬でもきちんと水分をとらないとダメよ」
「うん。わかった。あっもうこんな時間。1時30分までに帰ってきなさいって言われてるからそろそろいくね」
カイルが蘭の部屋に入る前に、どうしても百合に見せたいものがあるのを思い出した。廊下でゴソゴソとランドセルの中の満点の歴史のテストを自慢げに百合に見せた。
「お母さん、今日のテストなんだ」
「す・す凄いじゃないカイル。流石ねー初めての授業の試験なのに満点を取るなんてー」
廊下できゃーきゃーと百合が騒ぐ。
「えへへ」とカイルは嬉しそうにしていたが時間が迫っているので、蘭の部屋に入った。
壁に何かサッと動く物を感じたが、急いでいたのでそのまま靴を履いて飛び出した。
走って本館に向かうカイルを、リリオはじっと見つめていた。




