19 家庭教師(1)
カイルは庭師の人達が世話をしている綺麗な庭園を通り抜けて本館に行く。
今まで一人でここを通った事がなかったから、とても新鮮だった。
どんな先生なのだろうと想像する。しかし、この世界で知っている大人の人達は良い印象の人がいなかったから、カイルは期待はしなかった。
本館の表の玄関から入り、万が一正妻のエルザや、ロペスに会うと何を言われるかわからない。なので、以前通った事のある使用人の使う搬入口からそっと入った。
リネン室の横に狭い階段があり、2階にはそこから上がる。
誰にも会わないように2階の事務室に入る事ができた。
ホッとしていると、執事と侍従が入ってきた。カイルは家庭教師の先生だと勘違いして、慌てて挨拶をする。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げたが二人がはははと笑うのでカイルは首をかしげる。
「ごめんね。私達は違いますよ。
少しここの書類に記載不足が見つかって暫くここで作業をしますが、気にせずに勉強をして下さい」
二人の男性は、ビックリするくらいに優しい笑顔でカイルに椅子を勧めてくれた。
二人は奥の部屋から書類を持って、入り口近くの部屋で作業を始めた。
奥の部屋で待っていると、メガネを掛けた気難しそうな若い男性が入ってきた。
カイルはまた挨拶をしようと立ち上がるが、その男性に止められた。
「挨拶は結構。皇帝陛下からの要請で君の事は聞いている。
私の名前はリリオ・ディサだ。皇帝陛下の第一側近リジュール・ディサの弟だ。君はリジュールに会ったことがあるだろう?」
「はい。テストの時に」
カイルは短く返事をした。
カイルにとって、リジュールは危険人物のグループに入っている。その人の弟ならば、気を付けないといけない。しかも、なぜかこの人はカイルの事を嫌っているように感じる。
「その兄が直接、陛下に頼んで君に家庭教師をつけさせたんだよ。そして、その役が私に回ってきた。まあ、君の実力は聞いているが、見ていないので今日は実力テストだ」
リリオはそういうと黒い重そうな鞄から、数枚のテスト用紙を出した。
今回は算数だけでなく、理科、歴史、社会の科目の問題もあった。
まずは算数。
やはりカイルには簡単で、どんどん解く事ができた。
だんだんとリリオ先生の表情が変わっていく。
途中で堪らずストップがかかる。
「ちょっと待ってくれ。君には先生はいないと聞いている。ここの奥方も君には先生をつけた事がないと言っていたがどこで教わった?」
あまりの勢いにカイルは困惑する。
何も言わないカイルに、リリオが仮説と唱えた。
「君の部屋に大量の書物があるのだろう? それで勉強したんだな?」
カイルが牢屋を思い出し、首を横に振る。
「あり得ない」
カイルの答えを信じないリリオが、カイルに「部屋に案内しなさい」と言い出した。
「あの・・・僕の部屋は先生にお見せできる部屋ではありません」
なんとか断ろうと頑張るが、リリオは嫌がるカイルを説得し案内させた。
「君の部屋は本館ではないと聞いていたが、どこなのだ?」
建物から随分離れて行くカイルに
リリオは怪しむ。
庭園を抜けていこうとするとリリオがカイルの肩を掴む。
「一体どこに行こうとしているんだ?」
「・・・僕の部屋ですけど・・・」
カイルはリリオが部屋を見せろと言ったのに、忘れたのかなと首を傾げつつ答えた。
「よお、カイル坊っちゃん。勉強は終わったのかい?」
庭師のオリバーが声を掛けた。
リリオはカイルが変な方向に行くので、オリバーが来てくれてホッとした。
「この子の部屋に行こうとしていたんだが、この方向で合っているのかな?」
「部屋って・・・あれを部屋とは呼びませんよ」
オリバーはカイルの境遇に人一倍憤慨していたので乱暴な口調にになった。
「・・・どういう意味だ?」
リリオは眉音を寄せて意味を聞く。
「あれを、部屋とは言いません。牢屋って言うんです」
オリバーの言葉がわからず、「つまり、この先で合っているんだな?」
と確かめて、カイルに再び案内をさせた。
その建物は苔むしたどろがついたレンガ造り。
細い通路を入っていくと、中は鉄格子の嵌まっている6つの牢屋があった。
「ここは・・・」
リリオが言葉を失う。
「君はここにいるのか?」
「違うよ。僕の部屋はこの奥だよ」
カイルはさらに暗い奥の牢屋に入る。
リリオはゴクリと唾を飲み、入り口に立つ。
「・・・独房・・」
普通の者ならば、何もなくても入るのに勇気がいる。
カイルが入って行ってしまったので仕方なく、足を踏み入れる。
先程の牢屋とは全く異質な場所だ。さっきの普通の牢屋が明るく住みやすく感じてしまうくらいに、独房の独特な感じに鳥肌が立った。
カイルは住み慣れた様子でベッドに腰かけている。
その落ち着いた感じで、普段カイルがここに住んでいるとわかった。
それにしても・・とリリオは思う。
見渡しても、何もない。
(こんな場所で住まわせているなんて、皇帝陛下が知ったらどんな罰を受けるかわからないのだろうか?)
政治的に考えたリリオはため息しかでない。
(カイルの母、サシャが嫁いできた当時は人質と言う身分だったかも知れない。それにしても、皇帝陛下の血を引く子供をこんな場所に捨て置いたとは、やはりカイルの父であるポールは愚鈍の皇子と言われるのだ)
カイルに向き直り、リリオがしゃがんでカイルの目の高さに合わせて話す。
「君はこんな場所に居ていい人ではない。今からここを出て本館に移る手続きをしよう」
「いやだ」
間髪入れずに大きな声で拒否する。
「嫌だ、嫌だ。ここがいい」
泣き崩れるカイルにリリオが驚く。
誰だってこんな場所よりも、暖かい部屋がいいだろう。
だから、こんなにも嫌がられると思っていなかったリリオは戸惑う。
(長く住んでいると、どんな場所にも愛着がわくのだろうか?)
「いいかい?ずっとここにいて、わからなくなっているのかも知れないが、ここにいては君の為にはならないんだ」
リリオは何とか説得しようといい続ける。
リリオが困っていると風のせいか、独房の扉が閉まりそうになり、只でさえ気味が悪い場所なのに閉じ込められてはいけないと、扉が閉まらないように何か挟みに行く。
丁度その時、蘭の部屋からカイルの泣き声が聞こえた百合が様子を見に来ていた。
壁の向こうにカイルがグスグスと泣いている。
慌てて牢屋を見渡すが、ちょうどリリオの姿が死角にいる為に見えない。
それで、百合が手を差し伸べるが、手だけ壁の中に入る。
手に持っていたふかふかタオルで、カイルの顔を拭いてやる。
「どうしたの? 誰かに何かされたの?」
百合が聞くが、カイルはリリオがいるから答えられない。
「これでお顔を拭いてて。飲み物を持ってきてあげるわ」
タオルを渡すと、百合は急いで飲み物をキッチンに取りに行く。
百合がタオルを渡す瞬間、リリオは目撃していた。
「!!!?・・・壁から手が出ていた?」
驚いたリリオはまた死角になっているところに隠れて様子を見守る。
すると優しい慈愛の満ち溢れる女性の声が、カイルにどうしたのかと聞いている。
(今のはなんだ?)
幻なのかと目を擦る。
次の瞬間にはもう手は消えていた。
しかし、カイルの手には先程までなかったタオルが握られている。
(幻ではない)
そう確信したリリオは、カイルに近付き真意を聞こうとしたが、思い直した。
(この子はきっと何も言わないだろう。そして、今私が騒ぎ立てても自分が狂ったのだと思われるだけだ)
不思議なこの子とこの牢屋の関係を調べて見ようとリリオは思った。
何も見ていないフリをして、牢屋の隅々を見て回る。そして手が出ていた壁も触ってみるが、普通の壁だった。
粗末なベッド。床に鎖が落ちていた。
「君は鎖で繋がれていたのか?」
リリオが怖い顔でカイルに訪ねる。
カイルは鎖を外していた事を怒られるのかと思って身を竦めた。
「少し前から外してもいいって言われてそれで外していたんです。勝手に外した訳ではないです」
カイルの言葉にリリオの顔が真っ赤になってくる。
リリオはビックリしていた。自分の中にこれ程の怒りが込み上げることがあるのだと。
リリオはその鎖を持った。
冷たく重かった。
(こんなのをつけてこんなところに閉じ込めていたなんて・・・ここの連中はクズばっかりだな)
リリオは深呼吸をして、怒りが爆発しないように気持ちを落ち着けた。
しかし、折角落ち着けた怒りが次の瞬間また急上昇した。
小さなテーブルに残飯が置かれていた。
リリオの手の震えが治まらない。
「カイル・・・こ・これは君の・・ご飯かな?」
「あ、はい。そうです」
「ほ・ほう・・こんなのが朝昼晩運ばれてくるのか?」
「いいえ、朝だけです」
ガンっっっっ
ぐしゃっっっ
リリオは怒りに任せて壁を蹴り、残飯のようなご飯を踏みつけてしまった。
「はっ! すまない。君にとっては大事なご飯だったのに・・・」
(何が第2皇子だ。この子の親は人ではない)
額に手を当てて、リリオは動かなくなった。
「君はここにいたいのだね?」
リリオが優しく聞くとカイルは嬉しそうに「うん」と答えた。
その手を見るとふわふわのタオルが握られている。
「ちょっといいかな?」
リリオがそのタオルを触ると、驚くほど柔らかい。
カイルを見るとあの残飯で、ここまで健康そうにはならない筈だ。
しかも、カイルの髪はどこの裕福な子供より清潔だ。
(この子はこの部屋の秘密に守られている。この子をここから出すと言うことは反対に危険なのかも知れない。良し、慎重に調べよう)
もう一度牢屋を見回して、リリオとカイルは牢屋を出た。
帰りも庭師のオリバーにあった。
「今本館に帰るのは止めといた方がいい。エルザ奥様がヒステリーを起こしているんだ。カイルの顔を見たら危険だ」
リリオの顔がぴくっとひきつる。
「危険とは?」
オリバーは言うのをためらっていたが、ポツリと言う。
「・・・ムチとか・・」
「クッ」リリオは奥歯を噛み締めた。その横でカイルが花壇の花を眺めて目を輝かせている。
「勉強は明日からにしよう。私はこの庭師の方と少し話があるから、カイルはここで私の目の届く範囲で遊んでいなさい」
カイルがぱぁぁーと目を輝かせて走っていく。
その様子を見送りながら、リリオは庭師に向き合う。
「私は今日からカイルの家庭教師をすることになったリリオといいます。貴方に聞きたい事があるのですが、よろしいですか?」
オリバーは警戒したが直感で悪い奴ではないと判断した。
「俺はオリバー。聞きたい事ってなんすか?」
「カイルはいつからあの牢屋に?」
「確か・・4月だったかな?」
「そうですか。あの牢屋の変な話を聞いた事がありますか?」
「色々あるよ。全部噂だったけど、スライムが大量に発生したとかいつのまにか扉が変わっているとか、この前は部屋に大男が出たって騒ぎがあったけど、カイルに聞いたら知らないって言ってたし・・見間違いだったらしいよ」
「・・・・そうですか。ありがとうございました」
無邪気に遊んでいるカイルを見てリリオがそろそろ事務室に帰ろうと声をかけた。
事務室に戻りカイルに明日も同じ時間にくるようにと言った。
「はい、わかりました」
カイルがにこにこお辞儀をして、ドアに向かう。その背中にランドセルがある。
「さようなら」とリリオが声をかけた。
カイルの帰った後、リリオは牢屋にはなかったが、カイルの様子から確実に時計があるようだと推理する。そして、この屋敷以外の者があの牢屋で手厚くカイルを育てている。
そして、カイルの解いていたテストに目をやる。
そして、その誰かは勉強も教えていると確信した。