9.君の心の中
打ち合わせを終えて自分のデスクに戻ってきた長谷川は、
机の隅に昨夜から置きっぱなしになっていた名刺に気が付いた。
玉城が置いていったものだ。
リクの過去をひとしきり話し、詮索好きな玉城に大きな疑問を抱かせて去った男、里井の名刺だった。
正直、リクの過去にそんな忌まわしい事件があったことに、長谷川は驚いた。
同時に、あのひねくれた可愛げのない性格がそれに起因しているのかも知れないと、妙に納得した。
---リクを襲った犯人は、リク自身が記憶を失っているとしたら永遠に発覚することはない。
とっくに時効だろうし。
それから養父母の事故。
これも本当に事故なのか仕組まれたことなのか、結局分からないまま終わっている。
こんな消化不良な事はない。
・・・リクは何を思ったのだろう。
養父母まで亡くし、幼い彼は何を思ったのだろう---
長谷川はデスクに並べてあるグリッドのバックナンバーの背表紙を眺めた。
発行されて間もない最新号、vol.33にリクの名がある。
リクの名は本名だ。
事件を知っている人間がハッとすることもあるのかもしれない。
里井のように。
長谷川は里井の名刺をもう一度じっと見つめた後、受話器を手に取った。
自分がなぜそんな事をするのかよく分からないまま、そこに書かれている番号をゆっくり押した。
◇
落ち着いた感じの喫茶店だった。
赤いヨーロッパ調のシェードの向こうで、鮮やかな緑の街路樹が揺れている。
控えめな木漏れ日が、テーブルの上に置かれたリクの左手の上に落ちる。
手の綺麗な女性は容姿も美しいと玉城は思っていたが、男にも当てはまるのだろうか。
リクは綺麗な手をしていた。
リクの方を意識しながら緊張気味にウエイトレスの女の子がアイスコーヒーを2つ運んできた。
そのコーヒーを前に、玉城はいったい何の話しをしようと今更ながら考えた。
結局何も浮かばず、さっきの話しのリベンジをしてみる。
「やっぱり、写真は載せちゃだめか?」
「だめ」
身も蓋もなくリクが答える。
「こういう密着取材でさあ、本人の写真が無いなんて不自然だし様にならないんだよ」
「僕の知ったこっちゃないって長谷川さんに言っておいてよ」
不機嫌そうにリクは窓の外に視線を移した。
今日は『閉じてる』日だな。
何となく玉城はそう感じた。
「わかった、あきらめる。代わりに次号は絵を数点使わせてもらうよ」
リクは少し上の空で小さく「うん」と言うと、またじっと窓の外を見ている。
中性的な綺麗な横顔だ。
写真を載せたら別の意味で反響がすごいだろうに、と玉城はチラリと思った。
その瞬間ふと、その背中にある忌まわしい傷跡を思い出した。
---あの傷跡はこの男にどんな影を落としているのだろうか。---
リクは前に置いたアイスコーヒーに手も付けず、まるで固まったように外を見つめたまま動かない。
少し様子がおかしいのに玉城は気付いた。
「どうした?リク」
少しハッとしたようにリクは玉城を振り返った。
「え?」
「え?じゃないよ。何かまた、見えた?」
「あ・・・いや、そんなことないよ」
「そうか?それならいいけど・・・」
けれど玉城は少し訝しげな目をリクから外さない。
リクはそれに気付いたように泳いでいた視線をゆっくり玉城に合わせ、呟いた。
「後悔するなら、仕掛けなきゃいいのにって思う」
「え?なに?」
「弱虫で、わがままだ」
「え?え?何の話し?」
玉城は何のことか分からず、うろたえた。
じっと自分を見つめてくる目が、不満と不安の色をたたえている。
「玉ちゃんのせいだからね」
「だから何がだよ!」
玉城は目の前の野生の犬、ならぬ異星人を気持ちをなだめながら見返した。
この男を、どこまで知れば自分は納得する記事が書けるのだろう。
そもそも、自分はこの男を少しでも理解できているのだろうか・・・。
「ちゃんと話をしようか」
低く、改まった声で玉城は言った。
今度はリクがいぶかしげに首を動かした。
「何の話?」
「まだ俺たちはちゃんと話をしていない」
「記事を書くのに足りない?」
「そうじゃないよ。・・いや、それもあるけど」
「玉ちゃんは僕の記事を書くために僕のそばにいるんだろ?
僕は取材を一度OKしたから仕方なくそれを受け入れた。ちゃんと話もしてる。
あと、どうして欲しいの」
涼しげな大きな瞳が真正面から玉城を捉える。
玉城は言葉に詰まった。
リクの言うことは少しも間違っていない。
一度傷つけて、玉城はサヨナラを言われた。
そのリクを探し出し、仕事だからと追いかけて付きまとっているのは玉城だった。
けれど、ここで引き下がれない。
「じゃあ記者としての質問をするよ」
リクが少し怒ったような目をしているのを無視して玉城は続けた。
「リクは何を幸せと感じ、何を辛いと感じ、今、何を怖がってるんだ?」
リクは少し挑むような目をしたが、すぐに目をそらして小さく呟いた。
「何も怖がってなんかいない」
ほんの少し懐きかけた野生の犬が、くいと背を向けて森の中へ消えて行こうとしている。
玉城の中で嫌になるほどそんなイメージが広がっていた。
◇
駅からタクシーに乗り換えた須藤は上機嫌だった。
憑き物が取れたように体が軽くなった快感を存分に堪能していた。
「お客さん、何か良い事ありました?」
人の良さそうな丸顔の運転手がミラー越しに聞いてきた。
「ああ、そうなんですよ。会いたかった人に会えましてね」
須藤も今朝までとは別人のように、にこやかに答えた。
---思い過ごしだった。
すべて思い過ごしだったのだ。
自分が恐れていた事実は、あいつの記憶に存在しなかった。
杞憂だった。
自分をとがめるモノはもうこの世には何もない。
ファックスもきっと何かの間違いなのだ---
鉄の手かせ足かせは一瞬のうちに消えてなくなった。
これからは全てうまくいく。
もう一度須藤はニヤリとした。
ふと、先程リクがサインを書いてくれたノートの存在を思い出した。
ボールペンを挟んだまま、無造作にカバンに突っ込まれている。
慌てていた自分を思い返し、可笑しくなってまた笑った。
須藤は何の気もなく、ペンが挟まれているそのページを開いた。
柔らかいタッチの文字が須藤の目に入ってきた。
音が消えた。
口元の笑みが一瞬のうちに凍り付いた。
ノートの中央に書かれていた一行の文章。
それは須藤を再び暗い憎悪に満ちた闇の中に突き落とすのに、充分だった。
『今さら、あなたは何を恐れているのですか?』
ほんの一行。 そう書いてあった。