3.新緑の中
明け方降った雨のせいで、その林のあちこちには水たまりが出来ていた。
葉に溜まっていた水滴が朝の光にキラキラ反射して美しい。
ここもいつかは住宅地にされるのだろうか、と玉城は考えながら低木の間を進んだ。
木陰で白い影がチラリと動いた。
シラサギかと一瞬思ったが、別の「鳥」だった。
一番扱いにくく厄介な研究者泣かせの鳥だ。
「リク」
わりと大きな声で呼んだのに、リクはスケッチブックのような物を左手に持ち、
真っ直ぐ前を見たまま動かない。
「何か描いてんの?」
そう言いながら草を踏んで近づいていくとリクの視線の先からもう一つカサッと音がした。
リクは少しガッカリしたように肩を落とし、ゆっくりと玉城を振り返った。
「逃げちゃったじゃないか。コジュケイ」
初夏の光を浴びてゆるくウエーブした淡めの色の髪が艶やかに光っている。
大きなくるりとした目が一瞬咎めるように玉城を捉えた。
「こじゅけい?動物描いてたのか?」
「声はよく聞くのに、見たのは初めてなんだ」
「どんな奴?」
玉城がリクのスケッチブックを覗くと、コロンとした丸い鳥が何カットか描かれている。
「鳥?ウズラか?」
「コジュケイだよ」
「邪魔しちゃった?俺」
「いつだって邪魔ばっかりだ」
リクはいつものように感情を込めずに言うと足元に転がっているペンケースを拾い、
家に戻るべく歩き出した。
隔月美術誌「グリッド」の取材をOKしてくれてはいるが、リクは相変わらず素っ気ない。
けれど人付き合いが苦手なこの若い画家を、玉城は嫌いではなかった。
初めて出会ったときに起きた事件で玉城はこの青年の「得意体質」に気付かず傷つけた。
リクは呆気ないほどあっさりと玉城を許した。
けれどそれが優しさからではなく、他人へのあきらめからなのではないかと玉城は思っていた。
いつまでも心を開かないこの青年をどこまで知ることができるだろう。
ライターとしての欲望からなのか、玉城はさらにもう一歩彼の中に踏み込んでみたかった。
「そうだ、リク、これあげようと思ってさあ」
玉城はショルダーバッグをゴソゴソとかき回すと小さな白い封筒を取りだした。
だが端っこを持ちすぎたためポトリと足元の草の間にそれを落としてしまう。
おっと、と草の中に手を伸ばす玉城。
「その草、気を付けてね。草の汁が目に入ったら目が見えなくなっちゃうから」
「え!」
玉城の手が宙で止まった。
「大丈夫。」
リクは少し笑いながら手を伸ばして落とした封筒を拾うと、玉城に手渡した。
「若芽のエキスを体内に取り込むと筋肉麻痺を起こして昏睡状態に陥ってしまうんだけど・・・
手に付けたりしなければいいんだから」
玉城は苦笑した。
「まるで試したことがあるような言い方するなあ。そういうことにも詳しいのか?」
「春先に咲くアセビの白い花は食べると神経麻痺を起こすし、玉ちゃんの頭の上に咲いてるイチイの実は
種まで食べてしまうと呼吸麻痺を起こして命を落とすこともある」
心なしかリクの口調が楽しそうだった。
玉城はおもむろに自分のすぐ上で頭を垂れている赤い実を見上げた。
「危険がいっぱいだな」
「デンジャラス・フォレストへようこそ」リクが笑う。
基本彼は饒舌だった。心は開かないくせに。
どこまでが本当でどこまでが嘘なのかわからない。
あの女編集長が嫌うのはリクのそんな部分だろう。
けれど玉城は思う。
彼にしか見えない「モノ」たちが彼をそんな人間にしてしまったのだと。
「ここにも沢山現れるのか?」玉城は尋ねた。
「現れる?」キョトンとしてリクが聞き返す。
「ほら、あれだよ。リクにしか見えない奴ら」
「ああ、霊のこと言ってる?」
リクはゆっくり家の方へ歩き出した。
「そう、そいつら。あんまりそいつらに好かれると良いこと無いって思ってさ」
「そっくりそのまま返すよ」
「俺は違うって。あの時はきっとたまたまなんだ。俺の事はいいんだって」
玉城はそういうと封筒から取りだした物をリクの前に差し出した。
「これ、持ってろ」
驚いて立ち止まるリク。
「お守り?」
「よく効くんだって知人が教えてくれたんだ」
派手な朱色のお守りを玉城から受け取り、まじまじと眺めるリク。
「魔除けって書いてある」
「間違ってないだろ?なんでもいいから持っとけよ。何か効くかもしんないだろ?」
「そうかな」
「そうだよ。せっかく持ってきたんだから捨てるなよ」
「効かないと思う」
「いいからポケットにでも入れとけって」
あっさりと人の好意を踏みにじるリクに少々ムッとしながら玉城は
ショルダーバッグを肩に掛け直して前を歩いて行った。
前を行く玉城に近づくと、リクはそのお守りを玉城のバッグのサイドポケットに
気付かれないように落とし込んだ。
「効いたらいいね」
玉城に聞こえないように、リクはそっと呟いた。
◇
今にも唸り声をあげるのではないか。
須藤は怯えながら暇さえあればファックスを睨みつけていた。
活動限界の午後8時をまわり須藤は街宣から帰ってきたが、事務所にはまだ十数名の運動員が残って
明日からの予定を確認している。気が抜けない。
「落ち着かないですね、叔父さん。どうかしましたか?」
応援に来ていた妻の甥、美木多が銀縁メガネの奥から訝しげに須藤を見た。
エリート商社マンである彼だが、母親、つまり須藤の妻の姉に応援を頼まれて
時間の空いた時に手伝ってくれている。
たいして教養もない叔父が無所属新で当選するほど甘くはないと何処かで思っているのだろうと、
須藤は勘ぐっていた。
「いや、なんでもないよ。今日もすまないね、応援してもらって」
「いえ、いいんです。叔父さんには勝って頂かないと困りますから」
営業的に美木多は笑った。
それは文字通り「勝って頂かないと、自分が迷惑を被るので困る」と言っているように須藤には聞こえた。
信頼などあの冷たいメガネの奥からは感じられなかった。
だがそんなことはこの際須藤にはどうでもいい。
自分には力がある。
経営していた小さな自動車整備工場は倒産に追い込まれたが、
粘って粘って今の印刷工場を知人から受け継ぐ形で立ち上げることができた。
自分には力がある。
だが、いつも邪魔が入る。
血の通わない奴らがいつも邪魔をする。
“あの時”も。そして今も。
邪魔をする奴は許さない。その思いが須藤のすべての原動力になっていた。
ふいにファックスが甲高い機械音を響かせて受信を開始した。
ギクリとして須藤はファックスに飛びつく。
不自然な動きを感じたのか美木多がチラリと須藤を見た。
嫌な汗が出る。
けれどはき出されたファックス用紙には選挙管理事務所からの連絡が無愛想に並んでいるだけだった。
ホッと肩の力を緩める須藤だったが、一方でウズウズと熱を帯びてくる怒りを胃の辺りに感じていた。
何処かで悪意を持ち、自分を脅かせる影に怒りが募っていく。
膨れあがってくる怒りをどう処理していいか分からなかった。
もっと早く手を打つべきだった。「あの夜」に。
須藤はまだ衰えていない握力で何の罪もないその連絡書をグシャリと握りつぶした。




