10.闇
まだクーラーが恋しくなる季節では無かったが、息苦しくて長谷川はデスクの後ろの窓を開けた。
風に当たりたい。
長谷川はそう思いながら受話器を持ち、出ない相手にいつまでもコールを発信し続けていた。
もう20コールもしただろうか。
いい加減、あきらめ掛けたときプチッと言う音と共に相手が電話口に出た。
「はい」
穏やかで温厚そうな初老の男の声が聞こえると、長谷川は前のめりになって受話器を掴みなおした。
「里井さんですね?突然のお電話申しわけありません。
私、ミサキリクの特集を組んでいます『グリッド』の編集長、長谷川と申します」
「ああ、あの雑誌の」
美術誌を雑誌と呼ばれる事を嫌う長谷川だが、ここは聞き逃す。
「単刀直入に言います。リクの事を教えてください」
あまりにも唐突に長谷川は切り出した。
「リクを殺そうとした人間に里井さんは心当たりがありますか?」
電話の向こうで少し息を飲むような間があった。
「それはリク君が覚えていない以上誰にも分かりませんし、軽はずみなことも言いたくはありません。第一、もう十何年も昔の話ですからね」
里井は乱暴な質問をする長谷川をいぶかる様子もなく、穏やかに返した。
「でも里井さんの中では思い当たる人物がいるわけですね」
長谷川は強引に食い下がる。
電話の向こうの主はまた何かを考え込むように暫し黙り込んだ。
もうそれ以上話を深めたくないという雰囲気が伝わってくる。
長谷川自身、自分が何を聞き出そうとしてこの電話を掛けたのか分からなくなっていた。
もうとっくに時効も過ぎて風化した事件であり、その犯人はもうこの世に居ないかも知れないと言うのに。
窓に面した国道がにわかに賑やかになった。
今日何台目かの選挙カーが、大音量で市民に候補者の名前をひたすら連呼する声が響きわたる。
長谷川は電話に差し支えると思い、窓を閉めた。
「ああ、そういえば・・・」と、里井は呟いた。
選挙カーの声を聞き取ったらしい。
「須藤さんは、そちらの市で立候補されてたんですね。先日そちらに伺ったときに知りました」
「須藤?」
長谷川はいきなり知らない名前を出されて思わず聞き返した。
「ええ、須藤浩三さんです。リク君の養父母に土地を借りて個人会社を経営してた人です。
よくあの家に相談にきてたのを見かけましたから覚えてます。
たしか自動車整備工場。その後倒産して転居されたらしいんですが、ご立派になられてたんですね。それにしても、市会議員候補とは、少し驚きました」
「へえ、そうなんですか」
長谷川は特に気に止めず、その話を流した。
里井が羨望でも妬みでもなく、単にその須藤という男が好きでは無いことが声のトーンから推測できたが、何にしても長谷川は今、市議会選に興味は無かった。
◇
選挙当日まで後3日。街宣活動は2日間しかない。
須藤の選挙事務所には朝早くから選対メンバーが集まり、活動計画を確認し合っていた。
けれども当の本人の姿はない。
午後から顔を出してその状況を知った美木多は唖然とした。
これだけの人々が必死に戦おうとしている中で、本人が連絡も取れない状況にあるなどどは
あり得ないことだった。
もう全てを放棄して自社に戻ろうとした美木多の前に、青い顔をした須藤が現れたのは午後4時を回っていた。
「叔父さんはいったい何の勝算ががあって全てのスケジュールをすっぽかすんですか?
今現在も運動員は炎天下の中個別訪問を実施してるんですよ。
午後からの街宣活動は全て候補者不在で進めました。
道楽で立候補したんなら、私も仕事がありますので失礼します」
冷たく事務的に言うと美木多は背を向けてドアに手をかけた。
「あいつさえ、いなければ」
消え入りそうなくらい小さく呟いた須藤の言葉を聞いてか聞かずか、美木多は再び須藤を振り返り
言い忘れた伝達をした。
「手紙がこの事務所宛に届いていました。興信所からです。
誰の何を調べてるのか知りませんが、叔母さんを不快にさせるような事はやめてくださいね」
気が済んだのか美木多は事務所を出ていった。
有能で正直で絵に描いた完璧なエリートだと須藤は思った。
勝ち負けの分類があるとすれば、美木多は完璧に前者だ。
非の打ち所のない人間は時に、絶望的な闇に支配される人間にはこの上なく癪にさわる存在になる。
須藤は美木多が置いていった興信所からの通知を無造作にスチールの机の引き出しに突っ込んだ。
差出人欄に書いてある社名は普通の企業と変わりのないものだったが、美木多はあっさりそれを見抜いた。
さらに忌々しさが込み上げてくるのを禁じ得なかった。
その興信所の仕事は素早く正確だった。
あるフリーライターを尾行し、目的の男の居場所と行動を確かめる。
できるなら自然な形で目的の男に出会える日時を調べて欲しい。
二日のうちにその仕事をやり遂げた成功報酬は妥当な金額であった。
“すべてうまくいくはずだった”
スタッフも出払ってガランとした事務所。
机の上に視線を走らせた時、伏せて置かれてあったファックス用紙に気が付き、須藤は手に取った。
青ざめていた須藤の顔は次第に怒りに満ち、赤黒く変色していった。
ガッチリした骨太の手で、その薄っぺらい紙をビリビリに引き裂き丸め、床に叩きつけ、足で踏みにじった。
もしそこに運動員の女の子でもいたなら、恐怖を抱いて飛び出して行ったかも知れない。
自分の中にこれほどまでに煮えたぎる憎しみが生まれるとは須藤自身、思いもよらなかった。
その感情は「あの夜」終わり、完結したのだと思っていた。
あの青年が呼び覚ましたのだ。
「あいつさえいなければ・・・」
須藤は誰もいない事務所で唸るようにそう呟いた。




