74.「この味がいいね」って先輩が言ったから
「いただきます」
先輩と俺の声が重なる。
あと何回言えるかわからない、二人きりの『いただきます』。
だから俺は、いつもよりも強い思いを込めてその言葉を口にした。強い強い、感謝の思いを込めて。
横目で観察していると、予想通り、先輩は真っ先にハンバーグへ箸をつけた。メインのおかずから食べるのが先輩スタイルだ。
「相変わらずおいしい~。タマネギの食感がいいよねぇ」
と、おかかふりかけのかかった麦ごはんをぱくり。
「ちゃんと下味がついてるから、ごはんにも合うし」
満面の笑みでごくりと飲み込んでから、先輩は手を止めて言う。
「わたしも多少は作れるようになったけど、やっぱり人に作ってもらったごはんの方がおいしく感じる。特にゴウくんの料理だとね」
「そうですか? 平凡な家庭料理ですけどね」
「その平凡なのが、わたしにとってはとびきりのご馳走だもん。それに……いつも、わたしのことを思って作ってくれてるんだよね?」
「……そうですね」
頬が熱くなるのを感じつつも、俺ははっきりと肯定する。
俺の運命を変えた、二人の出会いの日の翌日からずっと。俺は先輩のことだけを思って飯を作っている。
「あ、この卵焼き、ツナが入ってる。……なんか久しぶりに食べたなぁ。やっぱりおいしい……」
もごもごと卵焼きを咀嚼しつつ、先輩はツナの旨味に酔ったかのように表情を和らがせた。
……よし、とうとうこのときがきた。
俺は、先輩が卵焼きに箸をつけるときを待っていた。深呼吸してから、告げる。
「実は、九月に入ってからあえてツナ入り卵焼きは作ってなかったんですよね。今日のために取っておこうって」
「どうして?」
目をぱちくりさせる先輩。
「ツナ入り卵焼きは……俺の思い出の味だからです」
本当は真面目な顔をして伝えたかったんだけど、口元には照れからくる笑みが浮かんでしまった。でも、今さら口ごもるわけにはいかないから、言ってしまおう。
「初めて先輩と出会ったとき、食べてもらった味ですから。先輩に『おいしい』って、『いいね』って言ってもらった味です。俺に自信を与えてくれた味です」
そのときのことは、未だ鮮明に覚えている。
繰り返し『おいしい』と言ってくれて、最後にぽつりと『いいね』と漏らした。
その心の奥底から染み出たような『いいね』の響きを、俺は生涯忘れないだろう。
「……うん、覚えてる」
先輩も、懐かしそうに微笑みながら言う。
「すごくおいしかった。とっても感動した。もっと食べたかった……」
「あの日、先輩があの卵焼きを褒めてくれたからこそ、今の俺があるんですよ」
ゆっくりと説き聞かせるように言うと、先輩はハッと目を見開いたあと、しみじみとした様子で「そっか」と頷いた。残りの卵焼きを口に含むと、再び懐かしそうに笑う。
「わたしもゴウくんと同じだよ。
あの日、ゴウくんが卵焼きを分けてくれたから、今のわたしがある。ゴウくんがいてくれたから、毎日一人ぼっちで過ごさずに済んだ。毎日ワクワクすることができた。パパとママにちょっとした親孝行することができた。ゴウくんと知り合う前よりも、ずっとずっと笑顔が増えたよ。
だから、ゴウくんがわたしと出会った日のことを覚えていてくれて、今日、そのときの思い出の味を作ってきてくれたのは、すごく嬉しい……」
その言葉を証明するように、先輩は目を細め、顔いっぱいに喜色を浮かべる。俺の軟弱なハートを何度も撃ち抜いてきた、破壊力抜群の笑顔。
永遠に見ていたいけれど、俺は『時間』を進めなければいけない。未来へ向かって。
「先輩からもそう言ってもらえて、俺も嬉しいです。俺は、『俺の役目』をちゃーんと果たせていたんだなぁって実感できます」
「役目……?」
首をかしげる先輩へ、できるだけ悲観的にならないよう告げる。
「生徒会に関して、俺にはなにもできることがない。それを思い知らされたとき、本当につらかったんです……」
「ゴウくん……ごめ」
「でも、俺にはたった一つだけできることがあるって気付いたんです」
先輩の謝罪を、俺は強い口調でさえぎる。
「先輩に、俺の料理を食べてもらうこと。おいしいと喜んでもらうこと。元気になってもらうこと。笑顔になってもらうことです。
ねぇ先輩、改めて聞きますけど、俺は『俺の役目』を全うできていますか……?」
「うん、できてるよ!」
どくどくと胸を高鳴らせる俺に対し、先輩は元気よく即答した。
「ゴウくんが思っている以上に、できてる! わたしが言うんだから間違いない!」
溌剌とした声が俺の胸に染み渡る。あふれ返った感情が鼻の奥をツンとさせたけれど、一度だけ啜って、外に漏れないようにした。
俺にはまだ、伝えなくてはならない気持ちがある。
「その言葉を聞けて、安心しました」
揺れる心を宥めすかせ、できる限り平然とした調子で続ける。
「それで……先輩。俺、欲しいものがあるんですけど……ダメもとで言ってもいいですか? 無理だったらハッキリ断ってくれていいんで」
俺はパイプ椅子ごと先輩へ身体を向けた。膝の上でこぶしを握り、視界の中に先輩の顔だけを収める。
このことを告げるのは、今このタイミングで本当にいいのかはわからないけれど。でも、たとえ今日が俺の命日になったとしても、今以上の好機はない、そんな気がする。
「え、なぁに?」
先輩は目をまたたかせつつ、箸を置いて俺に向き直ってくれた。
「俺の欲しいもの……それは、『権利』……です」
「権利……?」
訝しげに眉根を寄せる先輩。
俺は胸の鼓動を必死で抑え込みながら、かねてよりのシミュレーション通り冷静に言葉を紡ぐ。
「来年、先輩が大学生になって一人暮らしをしたとき、その部屋へ行って料理を作る権利です」
ああああとうとう言ったああああ……。心の中で第二の俺がビクンビクンと身悶えする。
でも、これだけじゃ十全に伝わらないだろう。現に先輩は、いまいちピンときていない、といったような表情を浮かべている。
「うん、べつにいいけど……?」
「いいんですか?!」
興奮に声が上擦った。先輩は未だ不可解そうに頷く。
「そりゃ、来年もゴウくんのごはんを食べれるなんて、願ってもないことだけど……。でも、電車で一時間以上かけて料理を作りに来る権利なんて欲しいの? 大変だと思うよ」
俺は慌てて頭を振る。
「そんなことないです! ってゆーか俺が欲しいのは、料理を作って、二人で食べて、そのあとも一緒に過ごす権利です!」
「……えっと、それは」
なにかを察したらしい先輩は、視線を泳がせた。
よし、ここまできたら、もう一気にぶちまけてしまえ! 当たって砕けろ!
「それだけじゃないです! 先輩が作ったごはんを食べる権利もください! 先輩と外食する権利も欲しいです! 映画館とか動物園とかにも行きたいです!
会えるのは週末だけだと思うから、電話とかする権利も欲しいです! なんだったら、合鍵もください!」
「……なにそれ。いきなりそんなたくさん言われても、困っちゃうなぁ」
先輩は小さく嘆息して、呆れ返ったようにそう言った。
あ、これは玉砕決定か……。俺の言い方も悪かったかなぁ。絶望感にガックリと肩が落ちる。
「ええと……すみませんでした……」
分不相応のことを望んでしまって、最後の最後に困らせてしまって、本当に申し訳ない……。床に落ちているホコリを眺めながら、自己嫌悪に陥る。
「ね、ねぇ、ゴウくん……」
先輩からの呼びかけは、びっくりするくらい動揺にまみれていた。俺は思わず顔を上げる。
先輩は気まずそうに目を伏せていた。頬は熟れたリンゴみたいに真っ赤っか。
「そ、そういうのってさぁ……ひとまとめにして言えるんじゃないの……?」
「え……? ……あ!!」
少し遅れて先輩の言葉の意図を正確に理解した俺は、数秒ほど狼狽えたあと、ガタッと起立して、シュバッと姿勢を正す。
真っ向から先輩を見つめると、先輩も俺を真っ直ぐ見つめてくる。試すように、期待するように、俺の次声を待ってくれている。
だから俺は大きく深呼吸してから、今まで溜め込んできた想いを、ここぞとばかりに放出した。
「先輩、好きです! 付き合ってください!!」
食べかけの弁当箱から、箸がころんと転がり落ちた。