6.小松菜とほうれん草と先輩
かくして翌日の昼休み。
弁当の入った巾着袋を手にした俺は、第一資料室もとい生徒会室の扉の前で、激しく苦悩していた。
ここまで来ておいて、扉に手をかけることができない。足がすくんで、一歩も動けない。
昨日、巴先輩は『遠慮しないでおいで』みたいに言ってくれたけれど……それって本音なのだろうか。社交辞令みたいなもんじゃないんだろうか。
俺の姿を見るなり、『うわ、本当に来た……』なんて嫌な顔されないだろうか。
さらには他の生徒会役員も揃っていて、みんなでプークスクスされないだろうか。
そんなことになったら、一生立ち直れない。
今になって思い返すと、昨日の先輩とのやり取りは、ぼっち生活に疲弊した俺が作り出した、都合のいい幻だったんじゃないか、なんて急に不安になってくる。
いや、さすがに現実だったってことはわかってるんだけど、先輩にとっては単なる気まぐれだったかもしれない。一人寂しく弁当を食おうとしていた俺に対し、捨て猫に餌をやるような一時の優しさを見せてくれただけかも。
だとしたら惨めだし、虚しい。
……よし、教室に帰ろう。
踵を返しかけたとき、生徒会室の扉が勢いよく開いた。
立っていたのは、昨日と変わらず、目を見張るほど美しい先輩の姿。
俺を見るなり、くすっと愛嬌たっぷりの笑みを浮かべた。
「やっぱりゴウくんだった」
扉の前で立ちすくんでいたことを見抜かれた気恥ずかしさに、俺は息を詰まらせる。先輩はわずかに眉尻を下げ、困ったような、怒ったような表情を作った。
「もう、遠慮せずに来て、って言ったのに」
「ええと……迷惑じゃないかな、って思って……」
「なんでそういう考えになるかなぁ?」
先輩は軽快な仕草で俺の後ろに回り込むと、ぐいぐいと背中を押して、中へ入るように催促した。
制服越しに先輩の手のひらの感触を感じた俺は、目を白黒させながらも一歩を踏み出す。
奥へ奥へと歩を進めるごとに、昨日の先輩の態度は気まぐれなんかじゃなかったんだ、俺を本当に歓迎してくれてるんだ、っていう喜びが湧き上がってくる。
気付けば、口元が緩々になっていた。きゅっとくちびるを引き締めて、昨日と同じ場所に巾着袋を置き、パイプ椅子を引き出す。
先輩はすでに机上に昼食を広げていた。昨日とは別のコンビニのサラダと、サンドイッチ。毎日こういう昼食を食べているのなら、手作り弁当に興味津々なのは仕方ないのかもしれない。
昨日のように横並びで腰掛け、ランチタイムスタート。
俺が弁当の蓋を開けると、先輩はほんの少しだけ頭をこちらへ向けた。見てるな。
「今日の弁当はこんな感じですよ」
と弁当箱を先輩の方へ差し出すと、小さく『わぁ』と歓声を上げた。
「なんだか健康的でいいねぇ!」
「そうですね」
メインは肉野菜炒め、定番の卵焼き、カップに小松菜のおひたし、隙間にミニトマトとブロッコリー。
野菜を多めに使う方が女子ウケがいいかな、なんて魂胆から出来上がったのが今日の俺の弁当だ。
俺は、先輩の優しさを『気まぐれや幻想じゃないか?』なんて疑いながらも、心に一抹の希望を抱いて、先輩を喜ばせるための弁当を作ってきていたのだった。
「その、かつお節が混ぜてあるのって、いわゆる『ほうれん草のおひたし』ってやつ?」
先輩のやや珍妙な問いに、俺はわずかに戸惑った。和えてある状態でほうれん草と小松菜の見分けがつかないのは当然だろうけど、一目見てこれが『おひたし』だと確信できないもんなのか。あんまり和食を食べない家庭なのかな。
「ええと、ほうれん草じゃなくて、小松菜のおひたしです」
「小松菜?!」
先輩の声のトーンが跳ね上がる。
「小松菜とほうれん草って、なにが違うの?」
「両方とも同じ緑の葉物野菜ですけど、味はぜんぜん違いますよ。個人的には、小松菜の方が味にクセがなくて扱いやすいですね」
「扱いやすい?」
「えーっと、ほうれん草はえぐみがあるから下茹でとかしないといけないんですけど、小松菜は洗って切ったらすぐに料理に使えるんです。価格も安いですし、鉄分やカルシウムも多いらしいですよ」
「へ~え。じゃあ、ほうれん草よりも小松菜の方が優れてるってこと?」
ほうれん草の存在意義を疑い始めた先輩に、俺はつい苦笑しながら説明する。
「いえ、味が違うから、合う料理も違うんですよ。カレーやシチュー、パスタにはほうれん草が合いますし、炒め物や、厚揚げと煮びたしにするなら小松菜ですね」
「そんなに味が違うの?」
訝しげに眉根を寄せる先輩に対し、俺は自然と口から言葉を発していた。
「食べてみますか?」
「えっ、いいの?」
先輩が喜々とした声をあげる。
「今度はほうれん草のおひたしを作ってくるんで、食べ比べてみてください」
言い終えてから、俺は『しまった!』と後悔して口元を押さえる。『今度』だなんて、明日以降も生徒会室にお邪魔する気満々の、図々しい物言いをしてしまった。
恐る恐る先輩の顔色を窺うと、照れたように笑んでいた。
「うん、食べ比べてみたいな。小松菜の味の記憶がなくなる前に作ってきてね」
それから遠慮がちに声をひそめて、上目がちで、
「やくそく、だよ」
「は、はいっ、必ず!」
俺は居住まいを正して、勢いよく誓言した。この約束は命に代えても果たしましゅ!
うーん、心の中の声でさえ噛むなんて、相当舞い上がってるな、俺。