亡霊
水色のガラス瓶2つ両手に持った自分の姿を発見すると、彼女は「ラムネ!」と元気よくサンダルで駆け寄ってきた。
「ん、これ差し入れ」
「わーやったー、一緒に飲も」
キンキンに冷えたラムネを前に彼女のテンションは高い。
俺はそれに頷くと彼女の家の縁側に腰を下ろした。ラムネ瓶を脇に置いてビー玉をプシュッと押し込む。彼女はじーっとその様子を見ている。
「なんだよ、別にそっちだけ振ってるトラップとかねえよ」
「えーほんとかなあ」
そう言いながら彼女も自分のラムネを開ける。しゅわしゅわと少しだけ泡が吹き出して木の板の上に溢れる。
「あっほら、やっぱり」
じとーっと視線を向けてくる彼女に、きっと村に運ばれてくる途中のトラックで少し揺れたんだよ、と弁解する。彼女は自分の左手についた液体をペロリと舐める。Tシャツに短パン、薄着姿。学校で会うときとは違ってラフな格好だ。
前を向く。彼女の家の縁側からは田んぼを超えて遠くの山まで見える。日はもうほとんど沈み、あたりは暗闇に飲まれかけている。そんな夏の夕刻だった。
「あちー」
後ろに手をついて仰け反る。もう夜になるというのにとにかく暑い。ここまで歩ってくるだけで汗びっしょりだ。彼女も、ねー、と手のひらをパタパタさせる。違う。こんなことを言いにきたんじゃない。無言の時間が過ぎる。上を向いたまま再び口を開いた。
「お前さ、高校卒業したら東京行くの?」
言った。彼女の顔を見るのが怖い。隣から、そうだねえ、と肯定とも相づちとも取れる曖昧な返事が聞こえる。また沈黙。あんなに昼間うるさいセミの声が止んで、あたりは虫たちの控えめな鳴き声が響いている。あとは生ぬるい風の音、背後からおばさんの夕飯の支度音。
「行くかなあ」
ポツリと彼女が呟いた。ぽろりと口から溢れ落ちたような、そんな感じ。
俺はしばらく空を見つめていた。やがて大きく息を吸った。
「はーそっか。じゃあそろそろ行くわ俺」
ラムネ瓶を手にしたまま立つ。
「夕飯、うちで食べていったら?」
「あー、親父の手伝いしなきゃだから今日はいっかな」
「そっか」
またな、と去ろうとすると、後ろからまた学校でね、と声をかけられた。もうすぐ夏休みも終わる。高校生最後の夏休み。
瓶の中のビー玉をカランコロンと転がしながら帰り道を歩いた。草の茂る土道路の上に轍ができている。その草むらと砂利の境界線付近をゆらゆらと進む。東京かあ、と彼女の言葉を反芻する。「卒業したら俺の仕事継げよ」という親父の言葉もフラッシュバックする。
暗いあぜ道をおぼつかない足取りでふらふらと一人歩く。今この瞬間、自分の姿は誰の目にも映らない。まるで幽霊みたいだ叶え残した思い出を胸に抱えて、さまよう夏の亡霊だ。
汗を拭った。決して忘れないように全身で夏を感じていた。