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「お前は何が出来るんだ? 呼吸以外出来ないのか?」
「なんて失礼なことを」
凄惨な食卓にルゥマは絶望の表情をしていた。
白かったシチューが茶色になっている。浮かんでいる野菜も黒い。焦げたパンは持つと耳だけが残って中身がぼろぼろの墨になって皿の上に落ちていく。そんな皿の上をマリーが床から黒い目を光らせ白い体を痙攣させながら見ていた。
「料理は才能ですから。あー、あー、ある…持つ力がないのです」
「ふざけんな。本当にただのお荷物だな。お前の世界への道が分かり次第、即座に帰してやるからな」
「ありがとうございます」
ルゥマは文句を垂れつつも、「錬成術の材料として使えないものはこの世に存在しない」と言って、ほぼ灰の残飯を薬棚のようなところへ仕舞った。小さな引き出しがいくつも連なる背の高い巨大な棚だ。土壁に埋もれるような箇所もあって、ほぼ壁と同化している。
草や砂や石や布やガラスや…色々なものが細かく区分されて保存されているらしい。これもかつてこの洞窟で隠れ住んでいた錬成術師の遺物だそうだ。
春は大きな桶を渡されて、裏手で葉っぱを集めてくるよう命じられた。
「何の葉っぱですか?」
「何でもいい。あとでこっちで分ける。花とか、虫でもいい。石はあったらできる限り取ってきてくれ」
「それで何が出来るんですか?」
「色々だ。あまり遠くへ行くな。遅くもなるな。ここは危険な動物はいないが、最近…、パトラたちのようなこともあったし」
パトラとは、街の治安を守る者の一人で、つい最近この近くで四肢を捥がれて死んでいた。
一人でここから出るのは初めてなのに、不安を煽る発言をされて春は怯えた。
しかしその辺に散らばっている草木が一体どのように変化するのだろう、マリーのようになるのだろうかと思うと、その不安は好奇心に転じて、朗らかな声で「行ってきます!」と挨拶をして飛び出した。
言われた通り、春は鍾乳洞から出てその裏手へぐるりと回ると、軽く拾えそうなものを適当に拾って桶に入れていった。あいにく虫は大嫌いなので見かけ次第逃げ出して別の場所へ移動しては落ちている葉っぱや枝を拾い、草を引き抜いて花を摘み、桶を満たしていった。
そうして地面を見ながら歩いていたら、上からこつん、と頭に木の実が落ちてきた。
春の頭をバウンドしてそのまま桶に入っていったのを見て、都合がいいわ、と思ったら、それを追ってきたのか、リスのような動物が同じように春の頭を使って桶の上に落ちてきた。
「わあ、かわいい。ふふ、ここに入ると泉に落とされちゃいますよ」
思わずそう話しかけて、春はリスが木の実を口の中に仕舞うのを見ると、しゃがんでその子を逃がしてやろうと桶を地面に近づけた。
「あら、それ、いらないの?」
その時、風に乗って声がした。
顔を上げてみると、木々の間に女性が立っていた。
女性…、衣擦れの音を草花に交えながら近付いてきて、春の目の前に同じようにしゃがんだのを見て、違うかも、と春は思った。
鼻は高く目は鋭い切れ長だ。決して厚くはないが一目見て分かる程度に化粧を施している。高い位置で一つに纏められた髪の毛には銀色の簪が二つ刺さっていて、それが狐色の髪の毛に映えて目を惹く。しかし輪郭は直線的だ。それに声が、低い。トドメにゆとりのある袖から出てきた手が骨張っていて、これは間違いなく女装の道を歩まれている方だと春は確信した。
―――役立たずだと分かったら殺される―――
急にルゥマの言葉を思い出して、春は息を呑んだ。
バレる前に、なるべく自然を装って離れなければならない。きっと恐ろしい未来が待っている。
そう、この小さなリスのように、こんなじたばた抗っても無力そのもので、生きたままフォークを刺されて固定されナイフでぎこぎこと小分けにされて食べられ………………………………
「わあああ―――――――――!!!」
木々の葉っぱが飛び散りそうなほどの大声を上げて春は尻餅をついて手で土をかきながら木にぶち当たるまで後退した。持っている桶からせっかくの収集品が飛び散ろうと関係なかった。
生僧それほど距離は取れなかった。
もう中身が半分ほど消え去った桶を胸に抱いて体を震わせる春を尻目に、その男性だか女性だか分からない人は二口目をぱくりと食べた。
一口目でリスの豊かな尻尾はまるっと食べられてしまったので、二口目は小さな指が可愛く宙をかく足だった。
もう彼女…彼…あの人とは距離が出来たというのに、咀嚼する度骨を噛み砕く硬い音が、ごり、ごり、と聞こえてきて、春は再び叫んだ。往生際悪くもまだキーキーと鳴き続けるリスの鳴き声よりも大きく耳に届いた。走って逃げたいけれど足が腰を持ち上げてくれない。何故か分からないけれど、昨日の人死にを見た時より春は怯えていた。
「どうした!」
悲鳴を聞いたのか、ルゥマが走ってやってきた。
一緒に近寄ってきたマリーを春は即座に捕まえて桶の代わりに胸に抱き、ルウマの足を引っ張って自分の前に立たせた。
「今は足を食べてます!!」
「は?」
「足を召し上がっているのです!!」
「そ、そうか、大丈夫か…?」
よく分からなかったルゥマは戸惑いながらも春の長いスカートをちらりと捲って中を確認した。
春は側頭部に平手を打って変態行為を蔑んだ。
ルゥマはあまりに納得がいかず打たれた頭部を抑えながら春を睨んで小言を言おうとしたが、彼女があまりに泣き換くのでその叫声に圧倒されて黙ってしまった。
ようやく彼が背後の存在に気付いたのは、硬い頭蓋骨を潰す音が響いた時だ。
ルゥマの細い足の間から覗き込んで確認してみると、その人は上品な手付きで手拭いで口元を拭いながら、恥ずかしそうに目を伏せて小さく謝った。
「わたしの口には少し大きかったみたいで…。不作法してしまって」
「春、帰ろう」
強い力で二の腕を引き上げられて、春の体は持ち上がった。
もう歩けないほどカが入らないということもないようだ。ふらつきながらも春は辛うじて桶の上にマリーを置いてルゥマに体重を預けながら歩き出した。
「魔法使いですか?」
「分からない。顔を覚えられたら困る。それに拠点を知られたくない」
鍾乳洞からは近い場所で収集作業をしていたのでさすがに春も帰り道は覚えていたが、ルウマはその道を歩いては行かなかった。
全く見当違いの方向に歩いて行って、一際太い木に小刀を刺しながら登っていった。呆然と見ていた春のことは、枝から放り投げたロープに捕まらせて引き上げた。
「ここでしばらくやり過ごそう」
「追ってきては、いないようですが」
「なんだあれは」
「分かりません。リスを食べていました」
「あんなところで? そのまま?」
「あんなところで、そのまま」
枝にしがみつきながらまだ涙がほろり、ほろりと流れ続ける春の言葉を、ルウマは半信半疑ながらも信じることにした。
ちょうど上の方の枝をリスが可愛らしい声を漏らしながらてててと走って行って、春の悲しみは倍増した。
「少し前から妙な気配がするとは思っていたんだ」
ルゥマは下の方を警戒しながらも、声を潜めて独り言のように話し始めた。
「視線を感じたわけではないんだが、獣とは違う足跡があったり、匂いが残っていたり。あいつだったのか」
「リスを食べていました!!」
「聞いた」
いい加減に落ち着くよう何度も言い聞かせたが春はずっと泣いていた。
慰めるような言葉なんて知らないルゥマは悩んだ末錐を構えて静かにするよう脅した。
泣くのは終わらなかったが、声を殺す努力を始めたので、ルウマはこのやり方で間違っていなかったと安心した。
下に残されて木の周りを高速周回していたマリーが、唐突にその足を止めて、地面に潜っていった。ルゥマは錐の刃先を春の方へ向けたまま下を注視した。
男は、腰帯で胸下に留めた長いローブを草の上を引きずるようにしてゆっくり近付いてきた。笑みは美しいほど優しげで先ほどまでリスの躍り食いをしていたようにはとても見えない。白い肌に赤い唇が映える。
「あら…? かわいい動物がいらっしゃると思ったのだけど」
そう一人ごちて、男はマリーが潜っていった辺りを素手で掘り始めた。
もう春にとっては錐よりその光景の方が恐ろしく、精一杯の精神力を込めて押し黙り身じろぎを耐えていた。
じわじわと太陽が傾いて木が作り出す影は徐々に伸びていった。
途中で春は疲れがかって枝からずり落ちそうになったが、ルゥマが支えてくれて事なきを得た。枝は軌み葉は落ちたが、下の人物は土に夢中で気が付いていなかったようだ。
一心不乱に土をかいていたその人物も数時間経ってとうとう諦めて、それは悲しそうな顔で顔を覆いながら遅い足取りで去って行った。
「降りていいですか? 足が痩れて死にそう」
「今落ちたらもっと悲惨な死に方が出来るぞ」
二人はしばらく枝の上から空を眺め続けた。そして何が合図になったのか、ルゥマが枝からするする下りていって、それと同じタイミングで土からマリーも飛び出してきた。
「マリー! 無事でよかったです」
「降りてこい」
「私、木登りはしたことがなくて」
「飛び降りていい」
下で「ん」と手を広げた男に向かって、春は落下した。
片足はずり落ちたがちゃんと受け止めてもらえて、ひどい打ち身を覚悟していた春は拍手を贈ったのだった。
***
行動はさておくとしても人知られずに生活している拠点周辺に人がいるということは問題だ。
春は引越を提案したが、錬成に必要不可欠な二枝の泉がある限りここを離れるわけにはいかないと言う。
「あれは特別な泉だ。今朝のパンで言えば小麦粉にネギの成分であるクロムモリブデン材とフェノール樹脂、ポリアミドを抽出して適合させ形作るのは普通の水の集合体では」
「よく分からないので続けなくて結構です」
「僕の親切をなんだと思っているんだ」
「我々が食べているのは人間が摂取していいものなんですか?」
余計な心配が増えてしまって春は暴れるマリーをカ尽くで抱き留めた。
あの謎生命体を待つばかりに今日はほとんど仕事にならなかったとごちるルゥマが食事を作り終わるのをひたすら待っていた。
鍋の沸き立つ音に、風のような音が混ざる。
春も気付いたがルゥマも気付いた。洞窟が作り出した細い岩の道を走り続けるような音だ。
「人の声だ」
「風の音ってたまにそう聞こえますよね~。猫の声が赤ん坊の声にみたいな」
「人のうめき声だ。見てくる」
「待って! 一人にしないで!」
火を止めて玄関を目指し始めたルゥマの上着の裾に手をかけて春は縋った。ルゥマは意にも介さずいつも通り歩みを進めていったために春はずいぶん地面を引きずられた。その胸に抱かれたマリーも春の体と土にごりごりと潰されて白い猫は茶トラになっていった。
土壁の振りをする扉を開けてみると、その音は一層強まった。
鎌乳洞の奥から流れてくる風の昔だと信じたかったが、それは間違いなく開けているはずの森の方がら聞こえた。
ルゥマは後ろ手で春に透明なゴムボールを濃してきた。
「何ですか? これは」
「…」
「これは何ですか?」
「別に心配しているわけではなく、お前は僕のたった一人の味方だからな。裏切ったら殺す」
「何故今その話を??」
とりあえず受け取ったものを手の平に収めて、慎重な足取りで進んでいくルゥマの後に続いていった。
森に出てみるとその声は間違いなく人の声であることが明白になった。風一つない静かな夜だ。何の気配もないことを確認して、ルゥマは何歩か森の方へ歩み出た。葵はルゥマの背中を見るのをやめて、辺りをきょろきょろ見回しながら、その一歩後ろにいて、そして、
顔面を真正面から平手打ちされた。
「いたい!」
鼻の頭を思いっきり潰されて吹っ飛び、鍾乳洞の湿った床に背中をしたたかに打ち付けた。
文句を言おうとすぐに体を起こしてみると、洞窟の外にいたルゥマが低い姿勢から即座に近付いてきて、春を背にして森に体を向けた。その様子は明らかに何かに敵意を示していることを伝えてきたので、春はマリーの頬を力の限り引っ張りながら生唾を飲み込んだ。
小さな手足と黒い目鼻が高速で動き回っていても誰も気にしている余裕がない。
「トンペ。二人もいたのか。哀れな。殺してもらえず隠れ住まい。きょうだいか?」
まるで石が水中に沈んでいくように、空気の抵抗を軽く受けながら黒い箒にまたがった赤いローブが上からとぷんと降りてきた。
見たことのある人だ。
つり上がった目につんとした鼻にオールバックの……
「パトラ? 生きていたのか」
「ああ、治安維持班の方」
ルゥマが名前を言って、春はようやく思い出した。
何日か前に亡くなったという役立たずを憎んでいるらしい治安維持班員だ。四肢を擁がれて亡くなったという。
「リネール様に治して頂いた。手足のリハビリ中でまだ任務には従事していない」
「それで一人なのか。不用心だな、こんな森の奥で」
「俺を食べようとした妖怪を退治しにきた。俺の不始末だ。俺一人でやるべきことだ」
パトラは見た目通りの堅物そうな喋り方だった。はきはきとして聞き取りやすく堅苦しい。
「妖怪?」
「男とも女とも付かず、魔法使いであったが魔法使いでない、なり損ないの―――」
何故彼が喋るのをやめたのか、春にはちっとも分からなかった。
外はもう暗く、ここは鍾乳洞の中だ。
月明かりが彼を照らしているがそれはぼんやりとした灯火だった。
だから、彼の喉から、銀色の質のいいフォークが飛び出していることなんて、ルゥマに言われるまで気付かなかったのだ。
「うわあ!! 本当にフォークが出ている!! 何で教えてくれちゃったんですか?!」
「の、喉からフォークが出てるなんておかしいだろ! だから思わず」
「おかしいですよ! パトラさん! 大丈夫ですか! お気を確かに…」
近付こうとした肩をルゥマが引き留めた。
フォークはぐるりと180度回転し、引き抜かれていった。
パトラがまるでマネキンのようにぐしゃりと膝を落としたその向こうに、昼間に見かけた女のような装束の男が立っていた。
「ふっ、あっ、リスの人!」
恐ろしさが蘇り、春は再びルゥマの背後に戻った。ルゥマは春を隠すように手を広げ、黙って様子を見ていた。
男は高い位置で結められている髪の束に挿していた簪を抜き出した。それは簪ではなく、ナイフだった。食卓に置くテーブルナイフだ。そしてそれでフォークの下にぶらさがる首の筋肉たちをぎこぎこと切った。とても肉を断ち切れるナイフには見えないのに、それはさくさくと紙を切るみたいに肉片を刻んだ。
そして少し頭を上に傾けて、フォークに乗った骨と肉塊をぱっくりと一ロで食べた。
硬い塊を砕く音が、行儀よく閉じられた口から、がり、ごり、と響き、洞窟の壁に反響した。
「……………殺しましょう」
「…依頼以外の殺しはしない」
「あれ、あれは人じゃありません! わー!! こわい!」
春はルゥマの細い足に抱きついて泣いた。
潰されたマリーも怯えているのか小さな手足を一生懸命ルゥマの足に引っ付かせていた。
男は大きなものを口に含んだ際の見苦しいロ元を隠すように、骨張っているけれど細い指を口に添えて咀嚼を続けた。その顔は豊かに笑んでいて、幸せそうにも見えた。
「申し訳なかったわ…、わたしの食べ残しを、こんな風に晒してしまって」
パトラは恭しく横抱きされて、洞窟の入り口の端に寄せられた。もう誰の目から見ても死んでいた。血がだくだくと流れる首は、首の筋一枚で胴体と辛うじて繋がっていることが月明かりでもよく分かる。
そして、本当にゆっくりと、一歩ずつ丁寧に春とルウマに向かって歩いてきた。
「逃げろ!」
「で、でも」
「僕は大丈夫だ。早く逃げろ!」
「ええ、もちろんそうしたいです! でも足が立たないんです!」
振り返ったルゥマはその反動も併せて思いっきり足を蹴り上げて春を洞窟の奥に蹴っ飛ばした。
反射的に春はマリーを盾にしたので幸い春自身は負傷しなかった。その代わりにマリーの黒い目がルゥマの踵によって片方吹っ飛んで、そこから中の綿がぼろぼろ出て地面に転がった。からからと音を立てて転がっていく黒い目が痛ましかったが、同情する者はやはりいなかった。
ごろごろと冷たく湿った地面を転がって、ようやく体勢を立て直してもと居た道を見てみると、あの切り裂き鮮やかなテーブルナイフを今にもルゥマの目に刺そうとしている男が目に入った。ずいぶんな体格差があったが、ルゥマはその手を錐を持った手で留めてなんとか被害を選けていた。
「ルゥマさん!」
「ボールを!」
「ボール?」
「早くしろ! このトンペ!」
片目を失って涙のように綿をぼろぼろと零すマリーの手が春が握りしめていた透明なゴムボールをべしべし叩いた。
自分がこれを持っていたことをすっかり忘れていた春は、一体これは何だろうと左右上下からそれを一通り見回して、なんとなく接着面になっている部分を外そうと両サイドから引っ張ってみた。ボールは簡単に弾けて開き、中から出てきたビニールのようなものがむくむくと広がって、やがて大きなゴムボールに変化した。座り込んでいた春とマリーはちょうどその中にすっぽり収まっていた。
「お可愛らしい」
いつの間にかルゥマは洞窟の外まで吹っ飛ばされて木の上の方に引っかかっていた。
そして、ゴムボール越しに、すぐ目の前に、男が立っていた。
にこやかに細められた目は狐のようだ。赤みがかったアイラインは濃くその瞳を強調する。白い肌。薄い唇に艶めいた紅。銀色にを照り返すナイフとフォーク。
「お可愛らしくて、美味しそう…」
大仰な動きでフォークがこちらに向かってきた。
春は悲鳴を上げてマリーを抱いた。
フォークはゴムボールに弾かれて、男を遠ざけた。
そればかりかその勢いを受けて、春の体重が後方に移動したのも手伝って、鍾乳洞の奥へ奥へところころ転がっていった。
視界は上も下もなくぐるぐる回り、やがて鍾乳洞が落とした雫が作り出す流水の溜まりに辿り着くまで、春を玩具のように運んでいったのだった。