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厚い雲のどこかから空に溶け込むような糸が垂れていて、その先に魚がぶら下がっていた。
猫を捕まえるトラップだろうか。野良猫は数匹見かけることはある。
通い慣れた道だが、しかしこんな仕掛けは初めて見た。水の入ったペットボトルとかはよく目にするが、お魚を吊り下げておくなんて、なんだかずいぶん直情的だ。
空に続く糸の仕組みも好奇心を煽って、春は魚の尻尾を指先でちょっと抓んでみた。
それだけだ。
引っ張ったわけでもない。抓んだだけだ。
それなのにその魚は目にも止まらないスピードと威力をもって空に釣り上げられていき、春もそれに引っ張られていった。離すのではなくその魚に身を縋ってしまったのが間違いだった。
空に投げ出される、と思った体はすぐに壁に当たった。固い壁ではない。飛沫の弾き飛ぶ水の壁にぶつかって、気付いた時には春の体は透き通った何もない青いの水中にあった。
足元はどこまでも続く底なしだが、頭上は遠くなるにつれその色を温かみのある暖色に変わっていっている。掴んだ魚はそちらに向かってみるみる上がっていった。
早く顔を出さなければ息が続かなくなると思った春は大急ぎで手をかいて浮上していった。息が出来るかは試さなかったが、本能で出来ないと思い込んでそれはそれは慌てた。
「………」
「ぶはっ! うはあ、うえっ、まず」
そうして出た先には釣り竿を垂らす少年が座っていた。
少年…、青年というにはまだ幼い。長い髪と大きな瞳が女性にも見えた。
ものすごく不愉快そうに顔をしかめて、春と水面を交互に覗き込んだ。
そして教師が持つ指示棒のようなものを持ち出して、水から飛び出した春の額をその先でつんと刺した。
「え…、なに?」
「アルカ・ハルがない」
「はん?」
そういうと少年は釣り竿を放り出して駆け足で走り去っていった。
水面を口を開けた魚がぷぁーとカなく流れていく。その下は美しいとも賛美できる水色だ。その下に土…、きちんと平らな土がある。
春は慌てて足元を手で叩いた。自分の体をすっぽり沈ませるだけの水中にいたはずなのに、自分はその中に座っている。浮いておらず、座っている。水面はとても浅い。立てば膝ほどもないだろう。池というにも小さすぎるほどの小池の中央に自分は座っていた。周囲は洞窟のような土壁で囲まれた空間だ。火や電球のような明かりの元は見当たらないのに、土そのものが光を放っているかのように周囲は柔らかく温かい。
「ど、どうなって…」
「おい、お前」
少年は自分より大きな椅子を持って帰ってきた。
背もたれが必要以上に高い。鉄の色そのままで装飾のない冷たそうな無機質な椅子だ。肘置きに備わる手伽のようなものが物騒この上ない。よく見ると椅子の脚にも枷のようなものがある。
「これに座れ」
「嫌です」
春は本能でそれを拒絶した。
「座れ!」
「嫌です! おかあさーん! おかあさん!」
少年は男性にしてはすっきりとした細身で身長は春よりいくらか低かった。
しかし小さな池の中を走り回る春をがっしり捕まえて抗えないほどの力で椅子に放り投げてしまった。そして慣れた手つきで手足を拘束された。映画で見たことがある。外国の死刑囚はこういう椅子で死ぬのだ。
「私の人生これからなんです」
「うるさい」
「殺さないでください!」
「うるさい。本当に殺すよ」
足や背に服越しに伝わる冷たさとは別に、首元に小さな冷感が刺さった。
彫刻などで使う錐のようなものがいつの間にか彼の手元にあって、切っ先は春の喉に向いていた。触れてはいないのにその先が示す辺りがひんやりとして血流が流れる度にうっかり刺さってしまわないか心配になるほどだ。春は反射的に言葉を失った。
少年が椅子の側面辺りをじっと見ている間、これまでの人生が頭の中にきらきらと流れてきた。自分はまだうら若き乙女だ。楽しい学生生活を堪能し終えて、間近に迫る桜の季節に未知の社会人生活を待ちびていた。一抹の寂しさを覚えながらも実家を離れ、憧れの一人暮らし。一人前としての可能性に満ちた未来。
しばらく震えながらじっとしていると首から冷たいものが離れていって、拘束が解かれた。
でも春は何も言えず椅子からも降りられないまま、開かれていた手足を寄せて体を細くまとめた。
「やっぱりない」
椅子にキスしそうなほど顔を近づけていた少年は絶望を表現したような暗い声を絞り出した。
まだ彼の指の間に挟まる細すぎる錐が、彼の肩に合わせて小刻みに震えている。
「お前、オトナじゃないのか!」
「ええ?」
「魔法が使えないんだな?」
「あなたよりは大人です」
「トンペなんていらない。帰ってくれ」
びしょ濡れの春は無理矢理立たされて再び池に突き落とされた。
悲鳴を上げて水面に叩き付けられた春は、沈みきらず当然のごとくすぐに顔を上げて口に飛び込んできた水を吐き出した。
「くそ。返せないのか」
「なんてことするんですか! 乱暴です!」
「トンペのくせにでかい口叩くな」
明らかに悪いのはそちらなのに、少年は両手を腰に当てて尊大な態度で池に膝をつく春を見下ろしてきた。
「なんなんですか、その、トンペって」
「役立たずという意味だ。お前のところでは使わないのか? ていうかどの地方から来たんだ?」
こちらが聞きたいくらいだ。
春は彼の無礼と乱暴を注意しようと人差し指を立てた。その動きにぴくりと反応した彼の瞳が、同じ真っ黒のはずなのに自分よりもずっと深く沈んだ色に見えて、息を呑んだ。自然とその手を下ろして池の中で正座していた。
「私は大人です。成人しているし、就職も決まったし…。少なくともあなたよりは年上です」
「魔法を使えない奴はオトナじゃない。いや、そうか……、まさか全くの違う世界から来たのか? そういえばそういうことも有り得るとどこかに書いてあったような」
ふんぞり返っていた少年は池の脇に置いてあった本棚に走り寄って何かを探し始め、「これだ!」と声を上げて本に目を近づけた。
何の本なのか、全くの違う世界とはどういう意味なのか、気になった春は池の中をそろそろと移動して彼に近付き、横からこっそり本を覗き込んだ。ちかちかするほど小さな文字がびっしり埋まった本だ。
「アルカ全般の存在そのものがない世界も存在する…」
「そうだ、お前はそういうところから来たんだな」
他より太字になっている部分を朗読してみると、少年は春にも見やすいように本を寄せてきて、その辺りを指でなぞった。
聞き慣れない単語の多い文章に苦戦していると、少年は頷きながらどんどんページを揺っていって、突如として乱暴に本を閉じた。
「これじゃ味方どころかお荷物だ」
「私は何でここに来たんでしょう」
「僕が錬成したからだ」
「れんせい?」
「……………一人で働くのがそろそろ面倒になってきたので、味方の作り方を学んで調合したんだ」
少年はふてくされたように小さくそう言って本をぽいっとその辺に投げた。池に落ちてしまうところだ。春はポケットからハンカチを取り出して軽く手を拭いて、池の傍から本を離そうと思ったが、ハンカチもびしょびしょで結局手は充分に拭けてなく、それは叶わなかった。しかし放置もしておけないので、目の前にあった手頃な布で手を拭って、本を本棚に戻した。
「何をする!」
「あ、ごめんなさい」
「貴重な服を濡らすな。もう一枚はまだ乾いてないんだからな」
春が手拭い代わりにした上着を慌てて脱いで、少年はそれをばんばんとはたいた。
「ここは…、どこなんですか」
「シャリアール」
「シャリアール?」
「魔法使いの島だ。魔法を使えない奴は、死ぬしかない」
上着をぶんぶんと振り回しながら、少年は細く続く道の先へ進んでいった。
不穏な言葉と徐々に暗くなる池の周囲に、春は途端に怖くなって、縋る思いで彼の背中を追っていった。
***
シャリアールは白い砂の海と深く高い川と森に包まれた大きな島だ。
多くの魔法使いがその知恵と技術で豊かな生活を補い合い、平和で穏やかな日々を満喫している。
しかしそれは、魔法使いになれれば、の話。
ごくごく稀に、魔法使いが持って生まれるべき力を全く持たずに生まれてくる者がいる。その者はこの島では決して幸福では生きていけない。だから、親であれば、愛しているからこそ、何も知らない内に殺してやるべきなのだ。
神様の手が離れる七つの歳までにその力が確認できなければ、聳える山の険しい崖から深い川に向かって投げ捨てて、白い砂の海に帰してやる。
それが本当の親の愛なのだ―――。
*
「それで、僕は七歳の誕生日に木の枝に引っかかった時から殺し屋になると決めた」
「どうしてそこで殺し屋に飛躍してしまったのですか」
「いずれ僕の親を殺してほしいという依頼人が出てくるかもしれない。そうしたら僕は、正当に親を殺していいんだ」
「殺すのに正当も不当もありませんよ」
「役立たずはこうでもしないと生きていけない」
春の言葉を聞いているのかいないのか、答えになっていない答えを少年は帰してきた。
少年はルゥマと名乗り、一応は呼び出した者の責任として帰り道を探してやると偉そうに言った。当然の責務だと思ったので、春はあくまで淑やかにはしていたが頑としてお礼は言わなかった。
「あなたも魔法?は使えないのですか」
「世間からはトンペと呼ばれる身だが、僕は一人で勉学を重ね技術も身につけた。一人前ではある」
春の質問にルウマは明らかにむっとしてスプーンを大皿に投げ捨てた。
可哀想な春のためにルゥマは食事を用意してくれて、二人は分け合って食事をとった。
池のある広間から続いていた細い道の先も、同じように窓もない洞窟の中だった。紙やペンが散らばった大きな机に、池の隣にあったものよりずっと大きい本棚、簡素なベッド、背の低い机とそれを囲うソファ。ところどころ糸がほつれたり綿が出ているけれどこのソファは上等なものに見える。
「技術」
「殺し屋としてはそこそこ稼げるようになってきた。それに、錬成術も間違いなく成長している」
就活のために自然な黒色に戻していた春に比べて、ルゥマは明るくも暗くも見える紫色だった。しかしその質はよさそうで、ろくな手入れもせずに伸ばし続けられたように見える長髪は光に艶めいてさらさらと流れて腰の辺りまで続いている。
そんな髪をたなびかせながら、ルゥマは食卓を走り去ってすぐに一冊の本を持って帰ってきた。
薄いけれど装丁は立派だ。大分傷つき表紙の皮は捲れているが、確かに大きく錬成術という三文字が掠れて載っている。
「錬成術…、って、錬金術のような、何かから金を作り出すものでしたっけ」
「金だけではない。色々なものを色々なものに変換できる。魔法が発展するまでは、この島で長いこと繁栄していた技術なんだ。魔法の発見と同時に廃れていき、アルカ・ハルを持たない者は消えていったそうだが…。こうして森の深くで錬成術を守り続けていたんだ。それを見つけたんだ! 僕はそれを親に捨てられてから何年も勉強し続けているんだ!」
ルゥマはそれは嬉しそうに早ロで捲し立てた。
「アルカ・ハル、とは…」
「持つ力は、魔法の…、魔法を使うのに、絶対必要な力だ。産まれた時にその力がどれだけあるかは人による。それは努力では成長させられない。僕にはなかった」
一転して暗い顔になったかと思うと、ルゥマは机の上に放り出されたスプーンを持ち上げてそれをパキッと二つに割った。
なんてことするんだ、こいつは、と、何度目か分からない思いを抱きながら春は黙ってそれを見た。
ルゥマは割れたスプーンの半分を、ズポンのポケットから取り出したハンカチで包んですーっと撫でた。そこには細く長い針のようなものが三本ほど現れ出でた。
確かに折れたスプーンだったはずなのに。その手品のような現象に驚いた春のことなんてまるで無視して、ルゥマはその三つを同時に壁に向かって投げた。
「取ってこい」
「嫌です」
「殺すぞ」
春のささやかな抵抗は一刀両断され、春は渋々壁に刺さった三本の針を取りに行った。
それぞれの刺さった場所に、一匹ずつ虫が死んでいた。
「うわあ! 無理です!」
「ただの蜘蛛だ」
「うわあん! おかあさん! !」
近寄ってきたルゥマの背に隠れて、春は視界から死んだ蜘蛛を遠ざけた。
あまりの怯えぶりに狼現したルウマはすぐに針を片付けて蜘蛛の死骸をどこかにしまい、もう安全であることをぎこちない素振りで春に伝えた。
「お前も街を歩いていて、トンペだと分かったら殺されるんだからな」
「そうなの??!!」
「当たり前だ。この世界にトンペは不要品だ。ゴミ捨て場にナマものを生きたまま捨てる奴はいないだろう? 七つで死ななかったトンペは、殺される」
春は祈るように手を組んでぼろぼろ泣いた。
ようやく制服を脱ぎ捨てる。新調してまだ袖を通していないスーツ。
契約したばかりでまだ鍵も貰っていない新居。
おばあちゃんから譲り受ける予定の意匠の凝った棚。
父に買ってもらった大きなテレビ、母が選んでくれた洗濯機。
社会に出て、これから出会うのであろう運命の人。
まだ、まだ、春は人生の春を堪能していない。
「お前は、僕の、たった一人の味方なんだから、お前の味方も僕しかいないんだから、裏切るような真似するなよ」
勝手に私を"錬成"しておいて、なんて言い草だろう。
春はルゥマを厳しく責めたかったが、悲しみが喉を塞いで言葉にならず、底知れない彼の存在と輝かしくない未知が恐ろしくて涙ばかりが湧いてくる。
黒目がちな大きな瞳に、首に針の先を差し向けてくるこの腕に、春の未来は託された。