表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
海の底から  作者: 涼華
6/7

3-2

 ついに交わりの日がやって来た。そう言われても、一面の雲に覆われ月は影すら見えない。

 彼女は不安だった。大ザメが間違えるはずがないと思っていても、いや、これは交わりそのものへの不安に違いなかった。淫らでも罪深くもないと言われていても、陸のころの記憶が彼女を縛っていた。こんな気持ちで交わって果たして大丈夫なのだろうか。

 深い闇の中、彼女は交わった。初めての時よりもさらに深く官能的な交わりだった。激しい波に翻弄され、高みから深い淵へ、幾度も幾度も連れ去られた。相手の行為を受け入れ、求め合った。喜びと罪の意識に引き裂かれながら。

 肩をゆすられ、重い瞼を開いたとき、全てが終わったことを彼女は覚った。

「大丈夫か?」

 ぐったりとして言葉も発せられない。

「激しくし過ぎた。」海の精の言葉に、彼女の頬が染まる。

 疲れ果てた彼女の唇に、器が当てられ神酒が流し込まれた。少しずつ力が戻ってくる。彼女は半身を起こすと器を手に取り、残りを飲んだ。器を大ザメに返すとき、彼の指先が触れた。それは、濃密な時を蘇らせる。

 海の中に青い光が煌めき、サンゴの種が漂っている様を映し出した。彼女はほっとした。不安な気持ちのままの交わりだったが、サンゴには関係なかったようだから。彼女は瞼を閉じた。そしてそのまま深い眠りへといざなわれた。


 交わった後の疲れがなかなか取れず、起きられるようになる頃には、もう新月が近かった。

「今度の満月の交わりはやめたほうが良いと思うんだ、プランセス。」

 大ザメの言葉に彼女は驚いた。

「でも、サンゴの種は?」

「一度くらい交わらなくても、大したことじゃない。それよりお前の体が心配なんだ。」

「大丈夫よ。」

「大丈夫なわけがないだろう。お前の寿命を縮めるような事は俺にはできない。お前が何より大切なんだ。俺にとっては」

 その言葉は、彼女の心に沁みとおった。

「心配しないで、」後は言葉にならなかった。胸が苦しい。見つめた大ザメの姿がぼやけている。


 女の眼から、丸い真珠の粒があふれ出した。真珠の粒は、下に落ちると、海の中に散っていく。海の精は彼女を抱き寄せた。

「可哀想なプランセス。」

 女は肩を震わせて泣いている。華奢な肩だった。島の女たちと同じと、なぜ思ってしまったのだろう。こんな壊れやすい彼女になぜあんな扱いをしてしまったかと思うと

「もっと優しくしなきゃならなかったんだ。それなのに」

 女は泣きじゃくりながら首を横に振った。そんな女を海の精はいつまでも抱きしめていた。


 また、満月の夜がやって来た。しかし、海の精は彼女を抱きしめているだけで、それ以上は何もしなかった。彼女の心はすまなさで一杯になる。

「ごめんなさい。」

「いいんだ。そんな事。早く良くなってほしい。お前が何よりも大切だ。」

 その言葉は彼女の心を温めた。もはや彼女には、海の精に対しての恐れや軽侮の心は消えていた。そして、誰にも抱いたことの無い思いが現れてきた。信頼よりも強く、切なさの混じった不思議な気持ちだった。

 

 その時かすかな音が聞こえた。

 サンゴの一枝一枝から、あの種が産みだされていく。夢のような光景だった。海の精も呆然と見つめている。

「驚いたなあ。奇跡だ。」

 神の奇蹟とは、これなのかもしれない。彼女はそう思った。

「どうやら、俺たちがお互いを本当に思いやっている仲になったんだな。それがサンゴに通じたんだ。」

 その言葉に彼女の頬が染まる。

 分身がまた器を持ってきた。

「交わってないのに、飲めないわ。」

「いいんだ。体を早く治してほしい。」大ザメは彼女を抱きしめ、手ずから彼女の口元に器を持って行った。今はされるままに、彼女は神酒を飲んでいる。大ザメも残りを飲んだ。

「今度の満月の夜からまた愛し合おう。」

 直截な言い方に彼女は頬を赤らめた。

「今度は優しく扱うよ。お前の心が遠くにあるような気がして、つい激しくしてしまったんだ。」

 彼女は思わず微笑んだ。そして密やかに笑いだした。

 女の笑った顔が、月の光に透けている。いつもは艶かしいくせに、その笑顔はあどけなく愛らしかった。


 どのくらい時が流れたのか彼女にはわからない。その後幾度か大ザメと交わりが行われた。深く、しかし優しい交わりだった。高みに誘われるとき、喜びに震える自分がいた。深い淵に沈むとき、満ち足りた思いに包まれる。もはや彼女は罪深いとは思わなかった。全てが終わった後、安らいだ気持ちで相手の腕の中にいられる。それは何と素晴らしいことだろう。


 夢のような日々が続いているのに、彼女はふと不安になった。大ザメは私を選んだという。前の女たちはどうなったのだろう。私はいつまでここに居られるのだろうか?

「お前ってやつは・・・」大ザメは呆れている。

「なぜ今を見ず、過去に拘ったり、遠い未来を心配したりするんだ。」

 彼女は黙っている。不安そうな様子に大ザメも渋々話し始めた。前の女たちのことを

「前の女たちの話を聞いて、お前が気分が晴れるとも思えんがな。」

「私の前の方たちはどうなったのです?」

「島に返してやったのさ。1000回の交わりの後、返す掟になっている。その前にお互い飽きてしまえば・・・」

 そんないい加減な、彼女は腹が立ってきた。

「私たちの誓いは、死が互いを分かつまでなのです。そんないい加減なこと・・・」

「でも、お前たちの方がもっとひどいじゃないか。好きでも無い相手と交わって、結局合わないから不幸になっている。島の連中はもっと自然さ。好き合った者通しが一緒になり、冷めてしまえば分かれる。それが自然さ。それに、」大ザメは厳しい顔になった。

「もし死ぬまでいられるとすれば、それは人の命が短いからだ。」

「でも、1000回も交わったら、私はお祖母さんになってしまうわ。」

 大ザメは大声で笑いだした。

「何のためにあれを飲んでいると思う?お前の時をゆっくりと回すためのものだ。交わるたびに1日、1000回の満月を見たとしても、1000日がたったに過ぎないのさ。」

 彼女が呆然とした。

「人の寿命は短すぎる。俺と暮らすには。それに1000回も満月を見るうちに、互いに飽きてくるものなんだ。」

「返された女の人たちはどうなったの?」一瞬火あぶりの光景が心に浮かぶ。

「海からの授かり物だ。大切にされたに決まっているじゃないか。」

「じゃあ、私もいつか・・・」返されるのね。彼女は寂しくなった。

「まだずっとずっと、ずっと先のことさ。人の心は変わる。お前の心だって、俺とあったころとは変わってしまったじゃないか。」

「でも、私は変わりたくないわ。帰る島なんかない。」そういう彼女を、海の精は抱き寄せた。

「まだ始まったばかりだぞ。」

 意地悪な言葉に、彼女は悔しくてたまらなくなった。そんな彼女の顔を、海の精はいとおしげに見つめている。


 長い年月としつきが流れた。彼女は海を知るようになった。引き潮も満ち潮も、サンゴ礁の魚たちの暮らしも、海底の洞窟や白い砂の海の砂漠のことも、今日は彼女は分身と共に、あの美しいサンゴ礁に漂っている。

 大ザメはこのごろ、といっても人間の暦で言うと何時からなのか彼女にはわからないが、彼女のそばから離れることが多かった。一人気ままに海を散策できるのは楽しかったが、寂しさがぬぐえない。満月ごとの交わりも、途切れがちになっていた。大ザメは私に飽きてしまったのだわ。そう思うと悔しかった。きっと、気に入った島の女ができたのだ。私をもう返すつもりなのだろうか。帰る島など無いのに。思わずため息が出る。

「いっそ私も島の男と、浮気しようかしら」思わず分身に話しかけた。

”・・・”分身は相変わらずゆっくりと旋回している。初めてきたころと同じようだ。

 彼女は考える。しかし、悔しいことに、大ザメよりましな男はどこを探してもいないような気がした。

「全く悔しいわ。あなたの本体は、より取り見取りなくせに、私には相手がいないじゃない。」

”・・・”浮気しても良いぞというように、分身は尾びれを悠然と動かした。

 古代の神は浮気者で、正妻の女神が嫉妬の余り、浮気相手をひどい目に遭わせると聞いたことがあるけれど、私はそれもできやしない。

 ぼんやり見ている彼女の眼に、サンゴ礁の魚たちのダンスが映った。くよくよしても仕方がない。今の状態を楽しむことだわ。来たばかりの頃は警戒していた魚たちも、今は彼女にすっかり慣れ、彼女の周りに集まってきている。色とりどりの小鳥に囲まれているようだ、と彼女は遠い昔を思い出した。どの小魚も個性的だ。なかでも、毒の触手を持った花に暮らす小魚が特に彼女は気に入っていた。煌めく日差しの中、サンゴ礁は美しく、飽きさせない。 その日一日、彼女はサンゴ礁を散策した。

 夕日が海面を染めている。

 彼女は海面に顔を出した。西側は見渡す限り海も空も茜色に染まっている。雲がバラ色に輝いている。その中をオレンジ色の太陽がゆっくりと沈んでいく。東は藍色に染められ夜の気配が漂っていた。気の早い星が一つ二つ輝き始めている。遮るもの何一つもない。何と気持ちの良い事だろう。

満天の星空を眺めながら、彼女は時間のたつのを忘れていた。できることなら夜明けまで星を見ていたい。

 分身に促され、ようやく彼女は帰路についた。テーブルサンゴの上にはやはり大ザメは居なかった。夫の訪れを待つだけのつまらない女にはなりたくなかったのに、彼女はそう思う。しかし、海の中では、彼女の陸で身につけた教養や立ち居振る舞いも何の役にも立たないのだった。島の女ならば大ザメを飽きさせない術を心得ているのだろう。


 全く呆れた女だ。大ザメは思っている。つまみ食いも許さないのか?誰よりも一番彼女を大切に思っているのに、だからこそ仲間に加えたのに、思わず苦笑した。とんだ焼きもち焼きだ。強情で気が強く執念深いうえに、嫉妬深いとは。愛らしく一途なところがなければ、とうの昔にどこかの島に返しているさ。それがわからぬのか。全くあの娘は俺に要求し過ぎるぞ。そう思いつつも、あの船で見せた、孤独な姿、陸にただ一人の見方も無しに流離った姿を思い出すと、どんなわがままでも許したくなる。ただこればかりは・・・大ザメは思った。海の精霊の種を島々に残すのも、自分の大切な役目なのだ。島の人間たちを結界で守るためには。


 満月も近づいたある夜、久しぶりに大ザメが訪れた。嬉しい反面、分身が伝えたのだろうと思うと、全て筒抜けなのが悔しかった。大ザメにとっては、ごくわずかな時でも、人にとっては長い間なのに。

「拗ねているのか?」

 からかわれて悔しい。

「なあ、プランセス。どの女よりもお前が一番大切だ。それではダメか?」

「ただ一人の女として、大切にしてほしいのです。」それが無理なことは彼女にもわかっている。

「それはできない。」

 海の精は彼女を抱き寄せた。彼女は男の腕に身を任せている。

「わかってくれ、プランセス。ただの男ならばそれができるかもしれない。だが、俺は・・・」

「わかっています。でも、悔しいのよ。あなたはより取り見取りなのに・・・」

 大ザメは苦笑した。自分の気持ちを告白し彼女は悔しくてたまらない。

 男の手が彼女のドレスにかかる。ドレスはするりと身から外れ、滑らかな素肌が現れた。夜の光の中に青白く浮かび上がっている。ゆっくりと押し倒され、肌と肌が触れ合う。

「ああ・・・やめて」体が熱くなる。このまま自分の欲望に押し流されるのは嫌だ。

「もっと素直になれ。」海の精は含み笑いをした。

「たとえ体がどんなに望んでも、心は違うわ。」彼女はあえぎながら言った。

「そうかな?」

 確かに男の言う通りだ、彼女は認めざるを得ない。心が求めているからこそ体も応えるのだ。

「これ以上は何もしないさ。」その言葉に力が抜けていく。

 満月の夜、彼女は交わった。久しぶりの交わりは、激しく深いものだった。肌をなぶられ、高みを味わい、翻弄された。疲れ果てて相手の腕のなかで眠る頃、夜は既に開けようとしていた。交わりの後、大ザメはしばらく彼女のもとにいた。しかし、また行ってしまうのだろうと思うと、寂しさがぬぐえなかった。


 そんなある日、彼女は分身と沖に出た。ふと海面を見上げると、一隻の小舟が浮かんでいる。島の人間のカヌーだった。こんな結界の近くまで島民が来ているのだと、彼女は感心し、そばに寄ってみたくなった。

 分身が気づかわしげに旋回している。

 島民たちは銛で漁をするはず、この深さなら届かない。

「もし、投網を使われたら、お前が食い破って」彼女は分身に話しかけた。

 次の瞬間、何かが投げ込まれ、海面が泡立った。石だろうか?一瞬身構える。

 泡が消えていく。投げ込まれたものは、人間の子供だった。まだ、12・3ぐらいの少年だ。だが、島の子供ではない。白い肌に、赤茶色の髪の毛、黒い眼の少年だ。

 見られたと、彼女は思った。しかし少年は、息をするためだろう。すぐに海面に上がっていく。その隙に彼女は海底の岩の間に身を隠した。


 少年は、海面に顔を出すと、咳きこんだ。その少年に、カヌーに乗ったもう一人の少年が声をかけた。

「大丈夫かい?ミカル。」

「大丈夫だよ。ナイア。それより大変だ。女の人が溺れてる。」

「え?」ナイアと呼ばれた少年は慌てて銛と命綱をつかんで飛び込んだ。

 先に潜ったミカルという少年が海底を指さしている。ナイアもすぐに潜った。


 私を探しているのかしら?彼女は身を潜めながら少年たちを見つめた。分身は海中をゆっくりと旋回している。少年たちはしばらく潜っていたが、やがてカヌーに戻っていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ