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海の底から  作者: 涼華
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2-2


 忘れることなど、できるはずがない。ではどうすれば良いのか。彼女は考えあぐねた。しかし、もう新月だ。この月が満ちた時、彼女は大ザメのものになる。交わりの時が近づいてきているのだ。そのことが、全ての煩いを忘れさせることとなった。


 その日、太陽が水平線に沈んだ後、東の水平線から赤い月が登ってきた。月が中天にかかり、海底一面を青い光で満たすころ、彼女は大ザメにいざなわれた。海の精の腕にいだかれ、テーブルサンゴの上に横たわる。つと、男の腕が彼女のドレスにかかり、音もなくドレスが滑り落ちた。彼女は生まれたままの姿にされ、男の腕の中に捉えられている。裸にされるのは初めてではないとはいえ、思わず手で恥ずかしい部分を覆おうとした。海の精は彼女の手をつかむとテーブルサンゴに押し付けた。全てを露わにされ、見つめられる。恥ずかしさに気が遠くなりそうだった。

「お前の美しい姿を見ていたい。」彼がささやいた。

 海の精が覆いかぶさり、裸の胸と胸が触れ合う。サンゴ礁の時と同じだ、と彼女は思った。しかし、薄絹一枚身につけていた時と、素肌とは全く違う。相手の肌を直に感じ、体の芯が疼く。彼女は怯えた。いけない。こんな罪深いこと。

「何を怯えている?素晴らしいことなのに」彼は苦笑した。


 経験したこともない感覚に彼女は翻弄された。息苦しさに胸が張り裂けそうになる。

「お願いです。もうやめて、やめてください。」

「苦しいのか?」

 彼女は頷いた。

「今やめればもっと苦しくなる。我慢するんだ。耐えられなければ泣き叫んでも構わない。」

 そんな恥ずかしいことはとてもできない。彼女は歯を食いしばった。

 海の精の笑い声が聞こえたような気がした。しかし、彼女が覚えていたのもそこまでだった。荒々しい波が幾度も打ち寄せる。彼女はその波に弄ばれ、深い淵に吸い込まれていった。


 額のおくれ毛を誰かがかき上げているのを彼女は感じた。ぐったりと疲れ果て指先一つ動かせない。どこからか声が聞こえる。

 プランセス。プランセス。プランセス・・・

 ああ、お願い。眠らせて、眠りたいのに・・・彼女は重い瞼を薄く開いた。

 大ザメの顔が見える。そうだ。私は交わったのだ。この海の精と。しかもあんな風に・・・顔から火が出そうになる。何と罪深いことだろう。

「何を恥ずかしがっている?さあ。」半身を抱き起された。「辛いだろうが、周りを見てみろ。」

 見ると、辺り一面に薄紅色の真珠が浮かんでいる。月の光を反射して、バラ色に輝いている。蒼い海の中に小さな明かりがともったようだ。よく見ると、彼女がいるテーブルサンゴの上だけでなく他のサンゴの上も薄紅色の真珠で一杯だった。

「これは何?」

「サンゴの種だ。満月の夜、俺たちの交わりに呼応して、サンゴたちも交わり、種を産むんだ。」

 彼女は驚いたように周りを見渡した。潮が流れ、薄紅色の真珠たちが旅立って行く。

「どこに行くの?」

「潮が導くままに」海の精は答えた。「そして、運良く根付けば、長い時間をかけて、サンゴ礁に育って行くんだ。」

「そのための交わりだったの?」

「そうだ。勿論それだけじゃないが。」彼はニヤリと笑った。

 彼女は自分が恥ずかしくなった。そんな大切なことが隠されていたとは想像すらつかなかった。島の女たちはきっとこのことを知っていたに違いない。

「俺たちの交合は」海の精は続けた。「海と陸との交わりなんだ。互いの豊饒のための」

「じゃあ、とても大切な・・・交わり・・・なのね」その言葉を出すのが気恥ずかしく口ごもった。

「ああ」海の精は彼女を抱きなおした。

 分身がやってきた。また何かをくわえている。海の精は、それを手に取って彼女に見せた。男の掌に虹色に輝く鶏の卵ほどの大きさの丸い器がのっている。

「これは?」

「交わった証として飲むものだ。俺とお前と。お前たちの言葉だと”酒”が一番近いかもしれないな。」

「でもこんな少しでは」両手で受け取りながら彼女は戸惑った。「あなたの分がないわ。」

「試してみろ」大ザメは笑っている。

 そっと口を付けた。爽やかで、かすかに甘くそれでいて濃厚な味わいだった。一口飲むごとに生気が甦ってくる。不思議なことにいくら飲んでも空にはならなかった。異教の神はネクタルという神酒を飲むと聞いたことがあるが、これもその一つなのだろうか。飲み終わった器を大ザメに渡す。海の精も一気に飲み干した。分身は飲み終わった器を口にくわえると、何処かに去っていった。

 サンゴの旅立ちを、彼女はじっと見つめていた。潮に流され、一体どこまで行くのだろうか。

「さあ、もう眠ろう、俺たちも。」海の精はその手で彼女の頬をにそっと触れた。「疲れただろう。」

 温かい腕に抱かれ、すぐに彼女は眠りに落ちた。目覚めると、いつものサンゴの上ではなく海底の砂の上に寝かされていた。太陽の光もここでは弱く、深い青い世界が広がっている。彼女の傍らに、大ザメも沿い伏している。

「随分深く眠っていたな。」からかわれて彼女の頬が染まる。

「どうしてここに?」

「疲れ切った体に、太陽の光は強すぎる。特に深く交わった後では」

 昨日の交わりを思い出す。何と甘美で苦しく濃密な出来事であったことか。淫らで罪深いことと言われていても、海の精の行為に応え、受け入れてしまった自分がいた。あのしどけない姿を思い出すと、ますます頬が熱くなる。

「なぜ恥ずかしがる?素晴らしいことなのに」

 海の精の手が彼女の首筋に触れる。触れられただけなのに体が熱い。

「満月の時だけだ。交わるのは、」

「月に一度だけなのね。」ほっとしつつも、寂しくなった。

「なんだ。」海の精はからかうように付け加えた。「あれだけしてやったのに、まだ足りないのか。」

 顔から火が出そうになる。悔しさのあまり思わず言い返した。

「厭らしい人ね!だれがあなたなんかと!」

 起き上がろうとする彼女を海の精はきつく抱きしめた。

「悪かったなあ。でも、安心したよ。あまり大人しいので、疲れすぎて病気になったかと思ったんだ。」

 思わず目が合う。やさしい眼差しだった。


 交わるのは月一度だけ、そういった大ザメだったが、交わらない時も彼女と床を共にした。その態度は、彼女の心を温めた。世継ぎが生まれた後、塔に閉じ込められたり、辺境の城に追いやられた正妻はいくらでもいる。交わる交わらないにかかわらず、自分を大切にしてくれる心遣いを、彼女は好ましく思った。半身半魚の海の精は、彼女の知る陸の男よりはるかにましな相手だった。それが例え罪深いことだったとしても。


 太陽の出ている間、彼女はサンゴ礁の中を漂った。あの美しい場所へは大ザメがいないといけなかったが、テーブルサンゴの周りは分身と佇んだ。日差しは細い矢のようにサンゴ礁に降り注いでいる。太陽に焼かれ、彼女の肌はすっかり金赤色に変わっている。前の彼女だったら気に病んだろうが、今はどうでも良くなっていた。のんびりとサンゴの海を漂うとき、自分が海に溶けて行くような気がする。

 彼女は沈没船にはほとんど行かなくなっていた。高価な装飾品にも飽きてしまったのだ。鏡の前には相変わらず座って、時間をかけて髪をすいたが、揺らめく髪を髪飾りで止めようとはもう思わなかった。鏡の中の女は、深い肌の色に青い瞳が生き生きと輝き、その顔を逆立った髪と揺らめくおくれ毛が縁取っている。ドレスの色は日に透けてターコイズブルーに変わっていた。

 なぜそんな気持ちになったのかはわからない。ふと彼女は、自分の素肌を見てみたいと思った。ウェストを縛った紐をほどき、ドレスを滑らかし、おずおずと鏡をのぞく。不思議なことにドレスで覆われていたはずの部分も腕と同じ深い色に変わっている。引き締まったウェスト、豊かな胸のふくらみ、すらりと伸びた足、古代の女神の裸身のようだ。自分はこんなに美しかったのか。思わず鏡の中の女に向かってポーズを取る。日に金赤色の肌が煌めき、眩しいくらいだった。大ザメが見ていたのはこの姿だったのかと彼女は感心し、すぐに自惚れだと諫めた。慌ててドレスを身に纏う。水流がおこり、髪の毛が揺らめいた。乱れ髪の女はひどく艶かしいが、何もつけていない首筋が寂しいわ。彼女はそう思ったが、ネックレスをつける気にはなれなかった、あの悪夢を見た夜のことを思い出すと。


 その夜も、彼女は海の精の腕の中にいた。大ザメは交わるとき以外は、ドレスを脱がす気はないらしい。交わってしまった相手なのだから、裸を見られても恥ずかしいことはないはずなのに、彼女の心はざわめくのであった。自分の裸身を見た大ザメが、どう考えたかと想像するだけで、頬が熱くなる。

「どうした?待ちきれないのか?プランセス。満月はまだ先だ。」じらすような言い方だ。

いつもなら言い返すはずの、彼女は顔を赤らめて黙っている。


 頑なな女だと、海の精は思う。あれほど深くまじりあい、身も心も解け合ったというのに、彼女の心には、まだ自分を受け入れない何者かがある。それは、陸の恋人でないことは明らかだった。愛する者がいるのなら、俺との交わりは辛いかもしれない。しかし、それもいないはずなのに、なぜかたくなさが取れないのだろう。謎めいた女に、海の精は強く惹かれていた。島の女たちであれば、手に取るように心がわかるのに、このあいまいさ、頼りなさは何なのか。プランセスが自分を嫌っているわけではない、むしろ好いているはずだ。海の精は思う。そうでなければ、あれほど官能的な交わりになるはずがないのだ。


「お前は強情な女だよ。」

 彼女が驚いて見詰めている。

「あんなに深く交わり、喜びを分かち合ったというのに、まだ、俺を受け入れていない。」

 彼女は、顔を赤らめ恥じらっている。

「だって、罪深いことですわ。」消え入りそうな声だった。

「なぜ?」

「教えでは、交わることは罪深く、交わってできた子供にもその罪が伝わるのです。」

 恥ずかしくてたまらないという風情で彼女は伝えた。

「だから、感じるなんてとんでもないことなのか?」

 赤い顔で彼女は頷いた。

「『産めよ増えよ。地に満てよ』じゃないのか?」

 大ザメは聖書の言葉を知っている、彼女は驚いた。

「交わらなきゃ、産むことも増えることもできないだろうが。交わった喜びも大きければ大きいほど実りも多くなるんだ。」

 直截な言い方に、彼女はいよいよ赤くなる。

「全く、やってることも言ってることも滅茶苦茶だな、外の世界は。だから、お前たちは『神殺し』なんだろうなあ。」

「神殺しってなんですの?」恥ずかしさも忘れて彼女は尋ねた。

「神や精霊はいたるところにいるのさ。島にも地の底にも、森にも、川にも、もちろん海にも、ここは俺が守っているが、北には別の奴がいる。お前たち外の世界にも、神は沢山いたはずだ。」

「それは異教の迷信です。神はただ一つの存在よ。」

「じゃあ、俺は?」

 言葉に詰まった。

「なあ、プランセス。島の連中は俺たちを信じているから、島の連中には俺たちが見える。」

 不思議な言葉だった。では信じなければ?

「見えないのさ。外の世界にも俺たちみたいなのは大勢いるはずだ、昔は見えた。でも、お前たちが信じなくなったから見えなくなってしまったのさ。」

「小人や妖精がいるという迷信はあるわ。それが神だったというの?」

「昔は大きくて力もあったはずだ。」

「信じなくなったから、小さくなって消えていった。だから神殺しなのね。」

 大ザメは頷いた。

「じゃあ、私が信じている神は?」それは恐ろしい疑問だった。

「お前たちの祖先が作った幻さ。」

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