2-1
日が沈むまで、彼女は海の精と、その美しいサンゴ礁に居た。日に焼けることを気にしなければ、そこは素晴らしい所だった。大輪の花のような色鮮やかな魚たち、柔らかなサンゴ、どれも不思議なものばかりだった。海の精に促されて帰路についたころには、海の底にも夜の気配に包まれていた。テーブルサンゴのベッドに身を横たえても、なかなか眠りにつけない。いろいろなことがあり過ぎて、気が高ぶっているせいに違いなかった。何度も寝返りをうち、遅い月が辺りを照らすころ、ようやく彼女は眠りについた。
「侯爵令嬢。侯爵令嬢。」
ドアをたたく音がする。寝入ったばかりだというのに、うるさい。彼女は眼をあけた。船室のいつものベッドである。夢だったのか。今までのことは。
「侯爵令嬢。異端審問のお時間です。お越しください。」冷たい声だ。
そうだ、あんな馬鹿なことがあるはずがない。海の中に精霊がいるなど、聖書のどこに書いてあるというのだろう。彼女は、船長室に連行された。
「あなたが異端の信仰を持つのはこの者たちの証言により明らか、あくまで白を切るのならば、火あぶりになりますぞ。」
「アランフェス卿。あなたがたが、私を陥れるために、でっち上げをやったことは主がすべてご存知のこと、本国にて異端審問でも火あぶりでもなさいませ。」
「では、修道院に入り罪を償うことをあくまで拒否なさるおつもりか。いたしかたありませんな。」
アランフェス卿は、兵士たちに目配せした。男たちは彼女の腕をつかむと後ろ手に縛りあげた。
「なにをする。無体な!」
男たちは無表情のまま、彼女を甲板に引き立てた。
「この茶番は何事です!」
「もう一度言います。侯爵令嬢。修道院に入り、罪を償いますか。さすればお命だけは補償いたしましょう」アランフェス卿は冷たく言い放った。
ここで処刑するつもりか。彼女の脇の下に冷たい汗が流れる。
「私は異端ではない!」
「猿ぐつわをかませろ。」
叫び声を上げる間もなく、布が口の中に押し込まれ、ロープが首にかけられる。
「吊るせ。」
兵士たちがロープを釣り上げた。苦しい。
「主の御手に。侯爵令嬢。」
侯爵令嬢。侯爵令嬢。
その声が何重にも響く。
「プランセス。大丈夫か。プランセス。」
彼女は眼を開けた。大ザメの顔が映る。船のことは夢だったのか。
「動くなよ。」海の精は、彼女の首筋に手を伸ばすと、黄金のネックレスを引きちぎった。
「何をするの?せっかくのネックレスが」首がひりひりする。
「こんなものをつけたままで寝て。見ろ。サンゴの触手に絡まって、下手すれば死んでいたぞ。」
彼女は起き上がった。確かに、ネックレスがサンゴに絡まっている。彼女は深く息をした。
海の精は、彼女の顎を持ち上げ、首筋を見つめている。
「血がにじんでいる。痛いだろう?」
彼女は頷いた。痛いなどという生易しいものではなかった。海水に染みて涙が出るほどだ。分身が何かくわえてきた。それを手に取ると、海の精は彼女の首筋に巻き付けた。海藻のようだった。
しばらくすると、痛みが引いて行った。傷を治す薬が海にもあるのだわ。
「前の方たちにも、こうしたの?傷を治すとき?」
「島の女たちは、お前のようなへまはしないさ。そんなことより、何があった?なんであんなにうなされていたんだ。」
彼女は黙っている。
「今は言わなくてもいい。だが、そのうち話してもらうぞ。満月の夜までにはな。」
海の精は彼女を横たえ、両腕に抱き取った。
「一人で眠れます。大丈夫よ。」
「大丈夫なものか。そんなに震えて。」
確かに大ザメの言う通りだ。今は、この腕のなかで安心して眠りたい。彼女は男の胸に顔を埋めた。
その日以来、彼女は海の精と床を共にするようになった。交わりの夜まではまだ期限があったが、抱き寄せられて眠るとき、彼女は相手の野生を感じ心が乱れるのだった。自分は堕落した女になってしまった。彼女は自嘲した。捕らわれの身であっても、誇り高く死を迎えることだってできたはずだ。ところが、異教の神の誘惑に溺れ、流されて今ここに居る。例え肉体的に交わらなくとも、身が穢れはてたのは同じこと。そう思いつつも、全く別の思いが彼女の心をかき乱す。あのサンゴ礁で触れあった時のことを。あの時確かに思ったのだ。交わりたいと。何とふしだらなことだろう。彼女はそんな思いは打ち消したかった。しかし、事実なのだ。他人は騙せても、自分の心は騙せない。
「なあ、プランセス」その夜、彼女を腕に抱きながら海の精は話しかけた。「あの夜、うなされた訳を話してくれないか。」
彼女は黙っている。話したくなかった。
「黙っていても苦しいだけだ。逃げ回っていても苦しさからは逃れられんぞ。」
大ザメの眼が彼女を捉える。
「わかったわ。話します。」
彼女は覚悟を決め、話し始めた。自分が国境地帯の領主の跡継ぎだったこと。敵対する国から逃れるために外海に出たが、味方であったはずの家臣たちから裏切られ、ここ南太平洋で処刑されそうになったこと。何とか故郷に戻り統治したかったこと。
「何としても戻りたかったわ。」無念だった。
「だが、お前の話を聞いていると、もうすべて終わってるんじゃないのか。それに」海の精は呆れたような話しぶりだった。大ザメには私の立場などわからないのだろう。
「誰がそこを治めても同じなんじゃないか?土地の人間にとっては。」
「なんてことを言うの!」あんまりな言い方だった。
「お前たち外の世界の連中は、土地の人間から搾り取ってるだけじゃないか、贅沢するためによ。」
「失礼な!」
「島の連中にも、上に立つ奴がいるが、そいつは本当に知恵も力もある人間だし、人望もある。代々同じ家から出るわけじゃない。そっちのが自然だ。」
「私に人望がないというのね!」屈辱感で一杯だった。
「お前はまだ未熟だよ。だが、外の世界の連中がそこまで酷いとは思わなかった。」
悔しさも忘れて彼女は聞き返した。「え?」
「そうじゃないか。神様がいて、その前では騙すなといってるくせに、やってることは騙し討ちばかりじゃないか。島の連中の方がずっとましだ。連中は仲間をだました人間を、空船に乗せて沖に流す罰を与えるから、絶対に約束は守るし、俺の海で勝手なことはしない。だが、人間ってやつは、国が少しでも大きくなると、ろくでも無いことしかやりはしないんだ。だが、お前の仲間のやってることは滅茶苦茶だ。」
考えても見なかったことを、大ザメに言われて、彼女は怒りも忘れている。自分たちが、島の野蛮人よりも劣っているなどとは。
「でも悔しいわ。」
「何が?」
「私は死んで海の底なのに、陥れたアランフェスたちは、本国へ大手を振って帰っていったのよ。」悔しさに涙がにじんでくる。
大ザメは大声で笑いだした。
「何がおかしいのです。バカ笑いはやめてください。」話さなければ良かった。彼女を唇をかんで睨み付けている。
「俺があいつらを生かしてここから出したとでも思っているのか?」
「でも・・・証拠があるの?」
「あるさ。見たいか?」大ザメが挑むような目をした。
「見たいわ。」
「後悔するぞ。」
「しないわ。」
「意地っ張りめ。」大ザメは起き上がると、彼女を背に乗せた。「しっかり掴まっていろよ。」
サンゴ礁から離れると海は急に深さを増した。深い藍色の世界が広がっている。崖の中腹に岩がせり出し、そこにまだ新しい帆船が引っかかっていた。紋章から確かに自分がのっていた船だとわかる。彼女の体は小刻みに震えた。
「怖いのか。」
「違います。」
「どうする?帰るか?」からかうような口ぶりだ。
「いいえ、中に入ります。」
「死体があるぞ。」
「死体の中に、アランフェスがいるか確かめます。」硬い表情で彼女は答えた。
何と意地っ張りで、執念深い女だろう。海の精は呆れている。死体を見て卒倒されたりしたら厄介だ。そこまでこだわる地位とは何なのだ。とにかく一人で船室に入らせるわけにはいかない。海の精は、彼女と共に狭い船の中に入った。
大ザメがついてきてくれるので彼女は少しほっとしている。勢いで言ってしまった言葉だったが、やはり確かめずにはいられなかった。船内には、自分を吊るそうとした兵士たちの姿はなかったが、異端審問を行った書記たちの変わり果てた姿があった。変わり果てた?そう、魚たちに食い荒らされた無残な姿だ。彼女は吐き気が込み上げてきた。アランフェスは?あの男だけは許せない。くまなく船室を見回ったが見つからない。彼女は甲板に出た。そして、マストに引っかかっている死体を見つけた。見覚えのある服だった。だが、首がない。右上半身が食いちぎられている。サメに食われたようだった。彼女は死体の左手を確認した。指にはめられている指輪を外し、紋章を確かめた。確かにアランフェス卿に違いない。
「これで満足か。プランセス。お前を殺そうとした男は、俺が始末したのだぞ。」
一辺に力が抜けていく。
とんでもない女だな、全く。気を失った彼女を抱き上げながら、大ザメはつぶやいた。ここまで気性が激しいとは思わなかった。考えてみれば、彼女は海の精の理解を越えたことばかりしている。こんなものを見て、後でまた悪夢にうなされなければいいのだが。とんだ厄介者を背負い込んだと思いつつも、サンゴ礁で見せた愛らしい様子や船での寂しげな姿を思い出すと、とても放り出す気になどなれない。寝顔はこんなに儚げで可憐なのに、言葉の激しさはどうだろう。
目覚めるとそこはテーブルサンゴの上であった。大ザメが隣に沿い伏している。甲板で死体の指輪を抜き取った後の記憶が全くないことから、気絶したことは明らかだった。偉そうなことを言って、結局、大ザメに助けてもらったのだと思うと、恥ずかしさと情けなさに、彼女は涙も出ない。
「やっと目が覚めたか。」からかうような眼差しだった。
「ごめんなさい。」素直に謝られて、大ザメは戸惑った。「全部、あなたに助けてもらったのね。偉そうなことを言って・・・」
「バカだなあ。お前はずいぶん頑張ったじゃないか、何の力もないただの人間としては。陸でもここでも」
思いがけない言葉をかけられ、彼女は胸が詰まる。涙があふれそうになった。
「泣きたければ」海の精は彼女をそっと抱き寄せた。「泣けばいい。我慢するなよ。」
泣ければどれほど良いだろう。彼女は思う。だが、彼女の眼からは一滴も涙はこぼれなかった。今までの過酷な環境から、彼女は泣くことを忘れてしまったかのようだった。彼女は頼りなげに海の精の腕のなかで身を任せている。そのまま泡のように消えてしまいそうな儚げな姿だった。やはりこれがプランセスの本当の姿なのかもしれない。海の精は彼女をそっと抱きしめた。
自分を陥れた者たちの最期を知ってから、彼女の心にある考えが浮かんだ。直接の下手人は斃した。しかし、首謀者はまだ生きている。
「全く、お前らはここまでいいって気にはなれんのか?物欲も復讐も。」
「私はどんな罰を受けても構いません。首謀者はまだ生きているのです。大ザメよ。お願いです。あなたの力で」
「俺がお前の国にできるのは、嵐を呼び、太陽を覆い隠すことだけだ。」
そんな程度のことか、彼女はがっかりした。やはり、大ザメとは言え、結界の外では力がなくなるのだろう。
「島の連中なら、魚の群れを追って西に東に、新しい島に移るだけのことだろうが、土地に縛り付けられている連中はどうなるかな。」
飢饉を起こそうというのか。彼女の顔色が変わった。領民たちはどうなるのだろう。
「体力の無い者から死んでいき、ついには逃げ出すだろう。海に出れば全員嵐で沈めてやろう。首謀者とやらが陸づたいに他国へ逃げれば、そこの太陽も奪ってやる。100年も続ければ、誰も残らんさ。それでいいか?」大ザメはこともなげに言った。
黙っている彼女に大ザメは続けた。
「選ぶのはお前だ。やるのかやらないのか。お前が決めろ。」
こんな方法しかないのか。どうすれば良いと言うのだろう。
「なあ、プランセス。失ったものを嘆くより、今あるものを見ることはできぬのか?お前はもう外の世界へは戻れない。」
「許せというの?私を陥れた者たちを、」
「忘れてしまえ。そんな奴らのためじゃない。お前自身のために。」