1-2
”お前と居たほうがよさそうだ。”と大ザメは言っていたが、自分の分身だというサメを残し、彼女の前から去っていった。そのことは彼女をほっとさせた。2度目の満月まではまだ時間があるとはいえ、あの海の精といるのは、気の重いことだった。分身だというサメは、大ザメよりはかなり小さいが彼女と並ぶとゆうに2倍の背丈がありそうだった。彼女が泳ぐとつかず離れず付いてくる。まさにつけ馬だ。
下手な泳ぎと馬鹿にされて、彼女は悔しかった。しかし、自己流で泳いでみても、上手く前に進めない。
「いっそ、お前が教えてくれれば良いのに」思わず分身に語り掛けた。
”・・・”
「お前は喋れないのね」
”・・・”分身はゆっくりと旋回した。
腕より足を使えということなのだろうか。彼女は見様見真似で泳いでみたが、意外にうまく泳げる。それは大ザメがくれたドレスのせいかもしれなかった。ギリシャ風の緑のドレスは、薄い絹糸でできたように肌触りが良く、水にぬれても重さを全く感じさせない。肌になじんで体の線を際立たせるくせに、泳ぎの邪魔には全くならなかった。さらに不思議なことに、緑色と思った色合いは陽光に透けて、黄緑、エメラルドグリーン、青と微妙に変化するのだった。
喘がずに泳げるようになると、彼女は自分の姿が気になった。船に捕えられているときは、自分で長い時間をかけて髪を梳ったが、ここには櫛も鏡もない。せいぜい自分の指で髪をとかすだけだった。きっとひどい有様になっているに違いない。
「鏡が欲しいわ。それに櫛も。」無理に決まっていることを分身に頼む。
”・・・”ゆっくりと旋回し、やがて彼女から離れて泳ぎ始めた。
ついて来いというのかしら。訝りながらも彼女は後を追った。分身は深く潜っていく、やがて海底に帆船の残骸が見えた。まだ新しい沈没船だ。確かに、鏡が手に入るかもしれない。しかし、死体もあるかもしれない。そう思うと恐ろしかった。分身が船の側面にできた亀裂の周りを旋回している。ここから入って、自分で採って来いということらしかった。
「そんな仕事を私にさせるなんて。」彼女は腹が立った。「この私をなんだと思っているの。あなたたちは、・・・」
”・・・”
何を言っても答えない分身をそのままにして、彼女は中に入ることにした。ウェストを縛っている紐に髪を押し込んで、沈没船の中に入った。中は闇に包まれていたが、小さな青い光が彼女のそばにやってきた。きっと、分身が呼んだのだろう。その灯りと共に彼女は進んだ。船底に宝物があるはずだから、鏡もそこにあるだろう。階段に白いものがころがっている。頭蓋骨だった。腐乱死体でないだけましだ。と思いつつも、彼女は自分がそうなっていたはずだと思うと、背筋が寒くなった。船底にやはり鏡があった。それと高価な装飾品が山と積まれていた。どれも一級の工芸品ばかりだ。それらが海の底で朽ちて行くのかと思うと残念でならない。鏡は全身が映るほど大型だった。精巧な金細工の施された縁が美しい。幸いにも殆ど傷がついていない。縁の周りに何か石のようなものがついていたが彼女には気にならなかった。かなりな重さだろうと思うと、自分一人ではとても無理なように思えたが、少しづつでも運び出すよりほかにない。ようやく外に運び出すと、辺りは暗くなっていた。
「持って行ってもらいたいのだけど」
”・・・”分身は口に鏡を加え、尾びれを左右に動かした。
「乗れというの?」
サメの背びれをつかみ、馬に乗るように横ずわりをした。海水が風のように彼女の顔に当たる。本当に馬に乗っているようだった。見る間にあのベッドが近づいてくる。しかし、分身は、ベッドではなく少し離れた海底の岩に鏡を立てかけた。
遅い月が登ってきた。
青白い光が海底にさし、青い世界が広がっている。しかし、その世界を楽しむ余裕は彼女にはなかった。自分がどんな姿になってしまったか彼女は不安だった。大ザメは美しいといっていたが、陸の人間と海の精の感覚はきっと違うはず、それに髪は?色こそ平凡な色であったが、長い絹糸のような髪は彼女の自慢だった。きっとひどい状態になっているのだろう。こわごわ鏡をのぞく。
映った姿に彼女は息をのんだ。鏡の中の女は、本当に自分なのだろうか。しかし、それは決して不快な変貌ではなかった。攫われてから、自分で泳いだためか、むき出しの腕やドレスに隠れた体の線は、船にいた時よりも引き締まって見える。船に居た時にあった目のくまは今はすっかり消え、生気が甦った顔だち。そして、自慢の絹糸のような髪は水の流れに沿って時には揺らめき時には逆立ちながら彼女の顔を縁取っていた。結い上げた髪こそ最も美しいと彼女は思っていたが、乱れた髪の女は麗しく艶かしかった。
”どうした?そんなに見とれて、”いつの間にか大ザメが来ていた。
からかわれて彼女の頬が染まる。
「乱れ髪などだらしないだけだわ。それもこれも髪飾りまで全部、あなたが壊してしまったせいよ」
”窮屈そうに縛り上げているより、ずっと美しい。それに快適だろう。”
海の精は手を伸ばし彼女を抱き寄せると、指先で彼女の首筋に沿うように髪の毛をそっと、すき始めた。思わず身を固くする。
”次の次の満月までは何もしないさ。姫君。”
「なぜ、私をプランセスと呼ぶの。」
”お前の名前だろう。船の連中はそう呼んでいたじゃないか。”
「違うわ。プランセスは敬称よ。」
海の精は意外な顔をしている。”では、本当の名は?”
答えたくなかった。本名を教えると、妖精に思いのままに操られてしまう。そんな迷信を思い出していた。
”まあ、いい。これからもプランセスと呼ぶさ。”頑なな女だと海の精は思った。”それより、俺の贈り物は気に言って貰えたかな?”
「ドレスのことね。おかげでとても泳ぎやすいわ。ありがとう。」
”そうじゃない。”海の精は苦笑した。”お前の瞳のことさ。海のものになった証に、海の瞳を与えた。お前の茶色の瞳はとても美しかったんだが・・・”
驚いて鏡を見返す。印象が変わったのは髪のせいではなかったのだ。鏡の中の女の瞳は、中心が藍色、外側が澄んだ海の青に染まっている。
「なんてきれいな青い眼。」感嘆しきった声になった。「でも、それなら、この青い瞳にふさわしく、髪も金色に変えてほしかったわ。肌ももっと白く・・・」
”こ、この業突張りが・・・”海の精はカンカンに怒っている。”強欲なのは帆船の連中といい勝負だな。俺の贈り物にさらに上乗せを求めたのはお前が初めてだ!”
強欲と言われて、彼女は恥と怒りに真っ赤になった。
真っ赤になって睨み付ける女を見て、海の精は彼女が泣きだすのではと思った。しかし、彼女は泣かなかった。何と頑なで強情な女だろう。島の女たちなら、泣きたいときには泣き、笑いたいときには笑ったものだった。自然に身を任せ、海と一体化した女たちに比べて、この不自然さ、頑なさは一体何なのか。理解できない振る舞いに海の精は不安な気持ちになった。このまま暮らしたとしても、この女が自分を受け入れることは無いのかもしれない。
”悪かったな。俺も言い過ぎた。”
海の精に謝られて、彼女は驚いた。
「私も確かに強欲でしたわ。」小さな声だった。
”なぜ金色の髪がいいんだ?”
「私のいた国では、金髪碧眼が最も珍重されるのです。そして肌は透き通るように白い方が」
”ハ!そんな死にかけた魚みたいな、気の抜けた色のどこがいいんだ。”
余りといえば余りな言い方に、彼女は怒りのあまり二の句が継げない。
海の精が腕を伸ばし、また彼女を抱き寄せた。何もしないと言われても、裸の胸に体が密着すると、知らず知らずのうちに体がこわばる。
”さあ、”海の精は手のひらを見せた。小さな真珠が一粒置かれている。
「この真珠は?」
大ザメは含み笑いをすると、指先を彼女の唇に滑り込ませた。
「あ・・・」唇の隙間から真珠が流れ込み、溶けだした。溺れて意識が戻った時、飲まされたのはこの粒だったのか。あの時、自分はこの海の精のものにされたのだ。
”ゆっくりお休み。俺のプランセス。”海の精が耳元で囁く
馴れ馴れしい言い方に、彼女は言い返したかったが、心地良い眠りに捕らわれ言葉が出ない。低い笑い声が聞こえ、抱きなおされた。息苦しさが消えていくとともに、彼女はより深い所に沈んでいった。
彼女は海底の沈没船を訪れることが日課になっていた。
金細工と真珠のネックレスやブレスレット、サンゴの櫛など一級の工芸品を鏡の立てかけてある海底に持ち帰り、大きな貝殻に積めた。今日も彼女は、サンゴの櫛でその長い髪を梳き、黄金のネックレスを身に纏い、鏡にその姿を映している。鏡の中の姿は、とかした髪が揺れて、おくれ毛が優美に表れていた。首の線が露わになっているため、黄金のネックレスが陽光に煌めいている。髪を結わずにおくれ毛を見せられるなんて、と彼女は満足している。しかし、彼女は眉をひそめた。強い日差しのせいで、肌が赤みががった金色に変わっている。こんなに日に焼けて、せっかくのネックレスなのに、いや、どの装身具もこの肌の色では台無しだ。あのベッドは日差しが強すぎる。
”お前は文句しか言えないのか。”大ザメは機嫌が悪い。
「もっと深い所のベッドが欲しいだけだわ」
”それなら、海底にでも寝ることだ。”
砂地に直に寝ろというのか。何と野蛮な。
”お前がベッドだといっているあれはテーブルサンゴだ。あれ以上深い所にはいない。”
「サンゴですって?サンゴってもっと堅いものじゃないの」
大ザメは笑い出した。
”なんだ、知らんのか。お前たちが有難がっているのは、サンゴの骨さ。あいつらは太陽の無い所では生きられない。”
笑っていた海の精だったが、彼女が呆然としているのを見て、付け足した。
”島の人間じゃなければ、知るはずがないか。悪かったなあ。”
彼女は恥ずかしげに微笑んだ。
女の恥ずかしげな様子に、大ザメは見とれている。そして、初めて会った時の姿を思い出させた。頑なで気の強い我儘な姫君だったが、その笑みの美しさは全ての欠点を補って余りあるものだった。
”やっと笑った顔が見られた。”
そう言われ女は恥じらっている。海の精は、その女の手を取った。
”行こう。”
「どこへ?」
”一番美しい所へ。”
彼女を背に乗せ、青い海の中を大ザメは進んだ。太陽の光が幾筋も差し込み、青い世界を煌めかせている。彼方にサンゴ礁が見えてきた。ここで一番美しい場所だ。きっとプランセスも気にいるに違いない。
これではまた日に焼けてしまう。太陽を遮るように片手をあげながら彼女はため息をついた。目の前に見えてきたサンゴ礁にも、日差しが降り注いでいる。帽子でもあればと、彼女は思う。
”着いたぞ。”海の精は、彼女の手を取り、エスコートした。一瞬、騎士にエスコートされているような錯覚を起こし彼女は戸惑った。
”どうした?気に入らないのか?”
「とてもきれいな所だけど、また日に焼けてしまうわ。せっかくの海の瞳も台無しよ。」
海の精は絶句している。
「せっかく青い瞳になれたのだから、白い肌でいたかったわ。」
”お前は大バカだ。自分の美しさに気がつかんのか?”
彼女は黙っていた。
”いいか、プランセス、船にいた時より今の深い肌の色の方がずっと生き生きと美しいぞ。海の瞳もその肌の色の方がずっと似あうんだ。”
彼女は頬を染めた。海の精は彼女を抱き寄せ、髪をそっと撫ぜた。
サンゴ礁に沿って、潮が緩やかに流れている。彼女はその流れに身を任せ、長い間、海の精と共に漂った。太陽のもと、色鮮やかなサンゴ礁に極彩色の魚たちが見え隠れする。どれも小さく愛らしい魚たちだった。思わず手を伸ばす。
”触るな!咬みつかれるぞ。”
こんなに可愛らしいのに
”サンゴに穴をあけて住んでいる連中だ。お前の指など簡単に食いちぎれる。”意地の悪い笑いだった。
「何よ。意地が悪いわ。」思わず言い返したが、なぜか可笑しくなった。彼女はくすくすと笑いだした。
彼女のかすかな動きにあわせるように水流が沸き起こり、豊かな髪を捲き上げた。柔らかな流れにほどけた髪が揺らめいている。太陽の光を受けて髪の毛1本1本が金茶色に透けていた。水草のような柔らかな髪に縁取られた顔だちは、神々しいほどの美しさだ。優美な身のこなし、柔らかな笑顔、透き通った眼差しに、海の精も目が離せない。
彼にまじまじと見詰められているのに気がつき、彼女は目を伏せた。女の首筋に海の精は手を伸ばし、そっと顎を上げさせた。再び真正面から見据えられ、恥ずかしさに彼女は頬を赤らめ、目をそらした。
”どうした?”
再び抱き寄せられ、胸と胸が合わさった。ドレスを着ているとはいえ、薄絹一枚では素肌と変わらない。相手の堅い胸を感じ、鼓動が早くなる。何もしないと言われていても、相手の野生を感じ、彼女の心は乱れた。こんなに恥じらうなんて、彼女は当惑した。何度も寝顔を見られているのだ。それどころか、この海の精に、ドレスを切り裂かれ生まれたままの姿にされてしまったのではなかったか。しかし、この考えに至った時、一層彼女の心は怪しくかき乱された。この男の手で幾重にも重ねられた衣装が、どのように剥がされていったかと思うだけで、体が熱くなる。なんと淫らなことを考えているのだろう。
海の精は、腕の力を緩め彼女のウエストに腕を回した。密着していた胸と胸がはがれ、彼女は男の胸に顔を埋めた。
”このまま、交わりたいが、”
思わず体がこわばる。
”楽しみは後でとっておくさ。”
自分の心を見透かされて、彼女は悔しくて仕方がない。海の精から顔を背けるように、彼女はサンゴ礁を見回した。愛らしい魚たちだけでなく、美しい花も咲いている。その花の中にもオレンジ色の魚が顔をのぞかせていた。
”機嫌が直ったか。”
彼女は頷いた。「とてもきれいな所だわ。また来てもいいの?」
”いつでもつれていってやる。”
「分身が?」
”いや、俺自身が。”意外な答えだった。
「なぜ?」
”お前はまだ海に慣れていない。危険もわからんからさ。”
こんな穏やかな場所なのに
”お前、あの小魚を見て可愛いとしか思わなかったんだろう?”
「ええ、綺麗な花の中に住んでいるわ。それがどうかして。」
”あの綺麗な花は、1本1本が触手でね。毒針を使ってやってきた魚をみんな絡めとって、食ってしまうのさ。”
「じゃあ、あの魚も」
”あれはもとから、一緒に住んでいる。毒が効かないのさ。”
感心したように、彼女は、その魚を見つめている。
”サンゴ礁にいる魚たちは、俺の仲間のように泳ぎがうまくない。だから、ここで隠れているのさ。”
何と不思議な話だろう。しかし、陸とは異なり海はそのような不思議に満ちているのかもしれない。