1-1
次の瞬間、彼女は波間に放り出された。後ろ手に縛られた状態では身動きもままならず、見る間に沈んでいく、豪華なドレスも海水を吸い込んでまるで鉛のように重い。ようやく咬まされていた猿ぐつわが外れたが、その代わりに海水が口に流れ込んでくる。苦しい。しかし、もがけばもがくほど、海水が鼻や口から流れ込んだ。目の前に紫色のカーテンが下りてくる。もう、死ぬのだ。こんな異国の海で。弔う家臣も民もなく。いやだ。死にたくない。彼女はそう切に願った。
薄れていた意識が戻ってきた。温かいベッドに寝かされているようだった。しかし濡れたドレスがべたりと張り付き、金縛りにかかったように身動きもできない。瞼も重く、人を呼ぼうにも声も出なかった。
その時、低い男の声がした。頭の中に響くようだった。
”苦しいか。今、楽にしてやる”
胸元に刃がつき立てられ、ドレスが引き裂かれていく。
ああ、やめて・・・それは、声にならなかった。このまま慰み者になるぐらいなら
「いっそ殺しなさい。無礼者。」声が出た。彼女は眼を見開き、その男を見ようとしたが、霞んだ視界には、ほとんど何も映らなかった。
”気の強い姫君”低い笑い声が聞こえ、口の中に何か小さな丸い粒が入れられる。
粒が溶け出すとともに、彼女の意識はまた遠のいていった。
どれぐらい眠っていたのだろうか。頬に当たる柔らかい風に彼女は目覚めた。遥か上空に満月が見え、月の光が青白く一帯を照らしている。月が風に当たって揺らめいている。一面の青の世界だった。深閑として音もなく、夜の獣の声もしない。身を横たえているベッドは、小さな広間ほどもある巨大なもので、一面に薄紅色の柔らかな凹凸に覆われていた。ここは一体どこなのか。
”やっと目覚めたか。姫君”
あの男の声だ。彼女はぞっとした。そして、一糸まとわぬ姿でベッドに横たわっているのに気がつき、恥と怒りで彼女は身を震わせた。身をよじって起き上がり、手で恥ずかしい部分を隠す。怒りに震える眼差しで逆光の中にいる男を睨み付けた。裸の背の高い逞しい体の男だった。何という無礼者だろうか。しかし、何かが違う、何かが。
”せっかく助けてやったのに。随分な態度だな。”
男は笑った。その時、彼女の眼に、はっきりと男の顔が映った。
彼女は絶叫した。
”なんて声を出す!この恩知らずめが!!”
見る間に、男は大ザメに変身した。彼女は初めて理解した。自分のいる場所が海の底だということを。すでに自分は死んだ人間なのだ。そして、悪霊に取りつかれたのだ。半人半魚のこの海の化け物に。
”化け物だと?なんて女だ”
「さすがに悪魔だけあって、人の心を読むのはお得意なようね。」彼女も言い返した。
”俺が誰だか。お前は知っているのか?”
「知っているわ。海の悪霊でしょう。主から見放された。」
大ザメはしばらく黙っていた。自分にひれ伏さないので、驚いているのだろう。誰かこんな悪霊にひれ伏すものか。彼女は辺りを見回した。切り裂かれたドレスが足元に置かれている。素早く布を取ると恥ずかしい部分を覆った。
”そうか、お前は外の海から来た女だったな、姫君。島の連中じゃない。俺のことも何も知らないのか。”
「何者なの?大ザメよ。」
”俺は海の精霊だ。ここの海も島々も、俺が守っている。”
今度は彼女が呆然とする番だった。
「精霊?では、神だというの?」
”お前さんたちの神とは違うかもしれないがな、島の連中は神だと思っているがね。”大ザメは低い声で笑った。
「そんなものは異教の迷信だわ。」
”だが、俺はここにいる。”
「その異教の神が、私に何の用があるのです。」
”お前を一目見て気に入ったから。”大ザメは平然と言った。
何と厭らしい。彼女はぞっとした。異教の神が好色だという伝説は本当なのだ。
”あの帆船に乗っているお前を何としても手に入れたかった。だが、お前の仲間はお前を吊るそうとしていたな。それで、嵐をおこし、船を沈めたんだ。なんであんなひどい目に遭ったんだ、お前ほど美しい女が?”
それは思い出したくないことだった。
「私はここで何をすればいいの?」
”俺と交わるんだ。2度目の満月の夜から、交合を行う。”
冗談ではない。海の精にとっては当たり前のことなのだろうが、嫌悪感で一杯になる。
”それまでは自由にしているがいい。もう、眠ることだ。”
眠れと言われても、とても眠る気にはなれなかった。だが、眠りの精に捕らわれたのだろう。彼女は、すぐに深い眠りに落ちた。目覚めた時には、巨大なベッドの上にすでに太陽の光が燦燦と降り注いでいた。大ザメの姿はどこにもない。逃げるなら今だ。海の精霊とはいえ、あんな化け物と交合するなど真っ平だ。彼女は泳ぎだした、とは言え、お世辞にもうまい泳ぎではなく、なかなか前に進むことはできなかった。両腕で水をかきながら彼女はあえいだ。ようやく、ベッドも見えなくなり、一面の青い世界が広がっている。このまま島の人間のところに逃げて、ポルトガル船の港まで連れて行ってもらうしかない。彼女はそう思った。
”何をしている。”背後で低い声がした。大ザメだ。いつの間に。
”体がまだ出来上がっていないのに、休んでいろと言ったはずだ、死んでしまうぞ!それに、”
彼女は振り返った。大ザメは半人半魚の姿に戻り、手に緑のものをつかんでいる。
”さあ、陸の服を脱いで、これを着るんだ。”
彼女は抵抗する間もなく、腕を掴まれ引き寄せられた。身を包んでいた布が苦も無くはぎ取られる。恥ずかしさに一瞬身を固くした彼女の顔に緑の布がかぶせられた。
「何をするの、乱暴な!」
”思った通りよく似合う。”
緑の布と思ったのは、古代ギリシャ風のドレスであった、腕がむき出しなのに彼女は顔をしかめたが、柔らかなドレーブが全身を覆い、優雅な体の線を際立たせている。彼女は頬を染めた。
”本当は服など必要ないのだが、お前は裸が恥ずかしそうだからな、さあ、帰るぞ。”
半人半魚の姿になった大ザメは、彼女を抱き上げた。
「自分で帰れます。」男の胸に顔を押し付けられ、彼女は身を固くした。
”お前のへたくそな泳ぎでは、日が暮れてしまう。”海の精は意地の悪い笑いを浮かべた。
悔しいがその通りだった。
腕に彼女を抱きながら、海の精は飛ぶように泳いだ。辺りを見回すと、サメの群れが一緒に泳いでいる。体をほとんど動かさず、どうしてあのように速く泳げるのだろうか。まるでツバメのようだ。彼女はそう思った。
”お前ほど泳ぎの下手な女にあったのは初めてだ。”
からかわれて彼女はかっとなった。
「仕方がないでしょう。初めて泳いだのだから。」
今度は海の精が驚いた。
”泳げもしないのに船に乗ったのか?外の世界の連中はそれほど馬鹿者か。”
「船乗りは泳げるわ。でも私は客人だった。」
”さあ、着いたぞ。”
自分の手ではあれほど時間がかかったのに、戻ってくるのはあっという間だった。
太陽の降り注ぐベッドに横たえられ、大ザメが沿い伏している。降り注ぐ光が眩しい。
”これからは、お前と居たほうがよさそうだ。また逃げ出されてはな。”なめ回すような目で見つめられる。
「もう逃げないわ。」もう、逃げられない、彼女は悲しげにつぶやいた。
俺の見たて違いだったのか。大ザメは、彼女に初めてあった時のことを思い起こしていた。
あの日、外の海からの帆船が、大ザメの海にやってきた。北からやってくる帆船とは違い、外の海の人間たちは島々を荒らすことで有名だった。さっさと追い出すか、沈めるしかあるまい。嵐を呼ぶのは煩わしいことだったが、海を荒らされることは我慢ならなかった。帆船は一艘だけで海を漂っていた。潮に流され仲間とは逸れたのだろう。この様子なら沈めたとしても、仲間が追ってくることはないだろう。並んで泳ぎながら、彼はそう思った。その時、甲板に女の姿が見えた。外の世界の女だった。島の女たちを見慣れた彼ではあったが、外の世界の女を見るの初めてだった。好奇心から思わず、水を蹴って海面から飛び出し、女を見つめた。それが、この姫君だった。すらりとした体つき、しかし窮屈そうな鈍重な衣装に身を包んだ姿はやつれているように見えた。きつく編み込まれた茶色の髪、青白い頬。しかし、そんなことは気にもならないほど、その女は美しかった。大きな瞳、通った鼻すじ、やや小ぶりだが形の良い唇、濃く長いまつ毛、何よりも印象的だったのはその瞳の色だった。悲しみをたたえた茶色の瞳が大ザメの心をとらえて離さなかった。これほど美しい女が、なぜあのような悲しい瞳をしているのか、彼には理解できなかった。彼女にも島の女たちのように、この美しい海で幸せに暮らさせたい。そう思ったのだった。
しかし、連れてきた女は、華奢で儚げな船の様子とは全く違った。
俺を化け物呼ばわりするとは・・・
腹を立てるべきところなのだろうが、あまりの反応に大ザメもあきれてしまっていた。かつて連れてきた女たちは、島の人間であれ北の連中であれ、海の精霊には、尊敬と信頼を持って、恭しく体を捧げたものだった。それを、まだ何もしていない1日目から逃げ出そうとするとは。外の世界の連中とはそれほど傲慢な人間か。しかし、すでに彼女を選んでしまったのだ。自分の相手として。もう、替えることなどできない。例え替えられたとしても、大ザメ自体、彼女を取り換える気にはとてもなれなかった。この海の世界は美しい。美しい所にいれば、プランセスの心だって和むはずだ。そうすれば、ここでの暮らしを、あの姫君だって、きっと気に入ってくれるに違いない。