日本紀の御局(三十と一夜の短篇第40回)
内裏で内侍司の女官たちが、控えの場所で寛いでおりました。長官である尚侍はおらず、次官の典侍や三等官である掌侍たちが集い、唐衣や裳を外し、重苦しい衣装から解放されて、脇息にもたれかかったり、横座りになったりして、体を休めておりました。
典侍の一人がふと嘆息を洩らしました。この年嵩の典侍は長年勤め続けて、内侍司はこの女性無しでは回らぬと、同僚や部下のみならず、殿上人や天皇からも頼りにされている方です。その女性が顔を曇らせたとなると、周囲はさっと緊張しました。
「源典侍様、如何遊ばしました? 何か厄介事でもございましたか?」
源典侍は自分の溜息が目立ってしまったと、かえって恥じらいました。
「いえいえ、ご案じくださるような事はいささかも」
ほっとする者、それでも窺うようにしている者がいて、源典侍は言いました。
「今日も今日とて、中納言様から『中宮(天皇のお后)様にお仕えしている女房(女官、侍女)のように物語は書かないのか』とお戯れを仰言られて、気が重いと感じましたので、つい……」
同調するように掌侍の一人、左衛門の内侍が言います。
「中納言様はあらゆる書に通じ、音曲も詩歌も巧みでいらっしゃる、知らぬ事はないと評判で、三舟の才をもてはやされる方でございますが、わたくしどもの働き方には疎くていらっしゃいますわねぇ」
源典侍は日頃から目を掛け、そして自分の仕事を手助けしてくれる左衛門の内侍がそう言ってくれるのを待っていたかのように話し続けました。
「全くです。中宮様に仕えている物語を書く女房、藤式部だとか紫式部だとかの候名ですが、かつてわたしと縁のあった藤原説孝殿の弟の宣孝殿の何番目かの妻でした。だからといって……、説孝殿と妹背の仲だったのは疾の昔。説孝殿とは息子を生した後、ほかの女人にお通いになられました。紫式部が宣孝殿と添われた頃には、わたしの許への説孝殿の訪れはなくなっておりました。それに宣孝殿はお亡くなりなっているのですから、わたしとその方とは縁戚と言えるほど関わりは深くありません」
この平安時代は招婿婚が通例で、源典侍は親から相続した屋敷に住まい、そこに説孝が通っていたのです。子が生まれてから、夫婦仲が冷め、説孝は別の女性の許に通い出し、当時のこととて、半年以上男性からの訪問が無ければ離婚したと世間も女性もとらえます。源典侍は別れた男性に未練が無く、子の父親の役目を果たしてくれれば充分としか考えておりません。
「きちんと顔を合わせて挨拶したのは宣孝殿のお弔いの時くらい、宮中で見掛けても会釈程度。それだのに中納言様は紫式部とわたしが義理の姉妹で親しいとお思いになっていらっしゃるのです。勘違いなさっていると強く申して、恥をかかせてはならないと気を遣い、曖昧に誤魔化しているのに気疲れしました」
「官位の高い方がお気を悪くなさらぬよう、そこまでお心遣いなさっていらっしゃるのですから、源典侍様はご立派です」
女官たちは口々に源典侍を慰めました。
「後宮や加茂の斎院御所の女房たちと違って、わたくしどもは多忙に過しております。主上の身の周りの雑事やお世話、主上と殿上人とのお文やお言葉の取り次ぎなど、常に細々と立ち働いておりますから、直に政治に関わっていらっしゃらない中宮様や斎院様の御殿のようにはまいりません。
清少納言でしたか、前のお后様の女房のように日々の出来事を面白おかしく書き付けたり、紫式部のごとく長い物語を綴る暇はございません」
「ええ、ええ、読み書きのできぬ賤の者ではございませんもの。わたくしたちだって『白氏文集』や『古今集』は読んでおりますし、幾つか譜じております。古くからのお作法だって頭に入れております。そうでなければ高貴な方々が何を仰せか判りませんし、内裏でのお仕えや数々の年中行事に加われましょうや」
「内裏にいて、急に『うち渡すをちかた人に物申す我』と問い掛けられれば、梅、それとも別の白い花かと頭に浮かべて、もしくは殿方ばらの好き心かと、機転の利いたお返しをするがわたくしどものお勤めのうちですわよねえ」
紫式部が書いている『源氏物語』の一節で、『古今和歌集』の旋頭歌を踏まえて展開している部分があるのを引き合いに出して、悔しそうに左衛門の内侍が言います。左衛門の内侍は橘氏の出身です。当代の帝、一条天皇の乳母で典侍の、同じく橘氏出身の女性が橘三位と呼ばれているので、区別の為に橘の姓を使わず、家族の官職名を候名にしております。
「伊予国の湯は都に住まう者にも知られております。『伊予の湯の湯桁』の戯れ歌は知っていても品がないからと口にはしません。それをわざわざ国司の娘の心映えの劣る様子を伝えるのに使うのは、嫌味っぽい書き方です」
「物語への『長恨歌』の引き方もどうかと思いますわ」
「ご自身のお屋敷や中宮様の御殿やそのお里にいてばかりで、どこまで宮中のことをご存知ですやら」
源典侍は自分の後任は彼の女しかいないと篤く信頼している左衛門の内侍をはじめ、周囲の女官たちも同様の言葉を述べるので、気持ちが晴れました。
あれこれと厳しい評価を下しながらも、つまりはその場にいる全員が紫式部の物語を熟読しているのですが、気にしないでおきましょう。
「皆さんから言葉で励まされました。嬉しく思います」
源典侍の言葉で、紫式部の話はそれで終わりになりました。
後日、一条天皇は自らの后である彰子中宮から『源氏物語』の続きを贈られました。一条天皇は物語を楽しみにしておりましたので、政務が空いた時に、清涼殿で女官に音読させ、物語を聞いていらっしゃいました。
新しく手にした物語を一通り聞き終えますと、天皇はのたまいました。
「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」
『源氏物語』を書いている人はこの国の史書をよく読んでいる、本当に学識がある、との天皇からのお褒めの言葉でした。一条天皇は中宮の許でのたまわれればよろしかったのですが、場所は天皇の御在所である清涼殿、内侍司の女官たちばかりが取り巻いておりました。源典侍の不満を耳にしたばかりの女官たち、特に左衛門の内侍は天皇の仰せに胸の内で憤りました。帝の仰せに逆うなど欠片も頭にございませんから、その憤りは紫式部に向かっていました。
「学識があるですって!
権門の家の生まれでなければ、男は国司となって財を蓄えてその財を出世の助けとするか、学を積んでその才で上つ方に認められるか。
我が橘家は代々学究の家柄。父も兄もずっと漢籍を読み、漢詩の注を作ったりと長年努めてきている。わたくしも内裏でお仕えしても恥ずかしくないようにと、父から手ほどきを受けて、それなりの才を磨いてきた。
四書五経や国史を読み、和歌を嗜むのは貴族の常。
たまさか手慰みに物語を綴る徒然に恵まれているだけの女房を、主上がお褒め遊ばすとはなんと嘆かわしいことか!
物語に漢詩や古歌のほか唐や我が国の歴史をさらりと書き込んで、紫式部は漢学の知識が余程ご自慢なのだわ。そんなに史書にお詳しいのなら紫式部ではなく、『日本紀の御局』とお呼び申し上げたらよろしいのではないかしら」
左衛門の内侍は、紫式部に「日本紀の御局」とあだ名を付けたと同僚たちに触れ回りました。
こうして内裏では紫式部を「日本紀の御局」と囃し立てるのが流行ってしまいました。源典侍も、紫式部は赤の他人と一切かばいたてせず、共に面白がりました。
当の紫式部は目立つのを好まぬ性質でした。学識を誇るというよりも、心に浮かぶ様々な感情や事柄を、架空の人物に託して表現したいと筆を執ったのでした。「一」の文字さえ読めぬ振りをし、自分の屋敷でさえ使用人に学があるから女性として仕合せになれないと言われて、こっそりと書を読むようにしているのにと、憂い、かなしみました。
――上辺だけでは人の心の内は判らぬものを……。
自らの姿を突き放して眺めることのできるこの女性は、日記を付けていました。そして『源氏物語』だけでなく、『紫式部日記』も千年の時を超えて残りました。
それらは長い時間を通して読み継がれ、左衛門の内侍はやっかみのひどい女性と読者から感想を持たれ、(女好きとも言われる)学者から物語に出てくる「源典侍」にはモデルがいるのではないかと考察されました。
後世、どのように自分たちが伝わってしまったか、彼の女たちはあずかり知らぬことでございます。
参考文献
『紫式部日記 紫式部集』 新潮日本古典集成
『尊卑文脈』 吉川弘文館
『源氏物語一 完訳日本の古典』 小学館
『紫式部伝』 角田文衞 法藏館
『天皇たちの孤独』 繁田信一 角川選書
『紫式部の父親たち 中級貴族たちの王朝時代へ』 繁田信一 笠間書院
『角川日本史辞典 第二版』 角川書店