真「海を走る電車から」
終業のチャイムがなる。
おもむろに席を立ち、ただ義務的に教師に礼をする。
今日図書館で勉強する?
いや、俺は学習室でやるわ
模試の結果やばいよぉ
すぐには結果でないもんだって
なんとか志望校行けそうだわ
途端に飛び交うそんな声は、僕に向かない。僕には関係のない事だから。ここはそれなりの進学校。センター試験があと4ヶ月後に迫ったこの時期に、教室がそんな会話で溢れるのは自然な事だ。
そんな中一人僕が傍観者として立ち尽くしているのは、僕が志す職業が声優だからだ。
そんな僕、前原 結実也は、クラスメートとは微妙な、いや絶妙な距離感を保っている。
皆、別に僕を卑下するでもなく、むしろ応援してくれている。僕も心の中では、そんな皆の受験を応援している。皮肉に取られるのが怖いので、声は掛けないけど。僕はさっさと駅へ向かった。
田舎の電車は空いているのが取り柄だ。好きな席に座れるから。1時間に1本しか来ないのも、もう許せた。
1人気楽に過ごしているように思われがちだが、僕だって悩まないわけではない。声優なんて狭き狭き門だ。努力はいくらしても足りないのだ。
暗いトンネルを抜けると、そんな気分が彼方に忘れさられるような、そんな景色が広がる。
海だ。
心の中でそう呟くのも、もう何度目だろう。線路のすぐ側は崖で、車窓からは海しか見えない。まるで海の上を電車が走っているかのような、そんな眺めだ。
僕はまるで子供のように食い入るように外を見ていて、向かいに人が座った事に気が付かなかった。
やがて海が途切れ暗いトンネルに入ると、車窓越しに向かいの人と目が合って、ようやく気づいた。
この電車は、2人用シートが向かい合わせに置かれるタイプだが、僕の向かいに1人の女の人が座っていた。年は…僕より少し上……だろうか。長い黒髪の似合う清楚な顔立ちの女性だ。
他にいくらでも空いてるのに、なんで僕の向かいに座ったんだろう。そんなふうに思っていると、その人が上品な仕草で会釈したので、慌てて頭を下げた。
「海が好きなんですか?」
「え?あっ、はい」
いきなり話かけられて若干声がうわずった。
情けない。最近学校で会話が減ったとはいえ、コミュニケーション能力の低下も甚だしい。
「すみません、いきなり。いつも海ばかり眺めているから、気になって」
いつも…僕を見ていたのだろうか。海に夢中の僕が気付くはずもなかった。
「えっと」
言葉を探す。
「なんか、海を見てると、自分の悩みとか不安とか、そういうのがちっぽけに思えて」
言葉を、紡ぐ。
「なんか、前に進もうって、そう思えるんです」
その時その人は、ハッとしたような顔をした。そして目を伏せ、詰まった声で言った。
「……私、あなたが羨ましいです」
意味がわからなかったが、聞き返せはしなかった。その言葉には、何か踏み込めない気配を感じた。
そしてその人は次の駅で降りていった。
「どうしたん?なんか悩んどんの?」
家に帰ってリビングでボーッとしてると、姉がそんなふうに話しかけてきた。
「別に悩んでなんか」
「なんけあんた、姉ちゃんに隠し事すんがけ。姉ちゃん分かるがいぜ」
「なんでもないって」
姉をいなして自分の部屋へ避難する。勝気な姉にはいつも振り回されがちだ。
それから学校帰りは毎回、帰りの電車でその人と居合わせ、言葉を交わすようになった。他に人もいないし、迷惑にもなるまい。
その人の名前も知った。源 好海子さんというらしい。
「前原さんは、どんな音楽が好きなんですか?」
「…えっと、セカオワとか」
「セカオワ、!私もよく聞きますよ、惹き込まれる音楽ですよね」
「源さんは、好きな映画とかあります?」
「そうですねぇ……ドラえもんの恐竜の話とか」
「ど……ドラえもん」
そんな他愛のない会話を日々とともに繰り返した。そんなある日、
「あんたさ、最近どうしたん?」
姉がそんなふうに話しかけてきた。
「なにが?」
「なぁんか、変なんやちゃねぇ」
「……変?どこがよ」
そう返すと、姉がじろりと目を合わせてくる。
「なんとなく察しは付いとるんよ。あんたは控えめやからなぁ」
何だこの人、一体何をどこまで見抜いてるんだ?
姉の目付きが真剣になる。
「人生の先駆者として言っとくよ。相手の気持ちを推し量る事も確かに大事やよ。でもね、あんたがどうしたいかを、一番大事にすべきやよ」
「……?」
その時は、姉の言葉の意味が分からなかった。
翌日、僕は気づいた。彼女の目を見て。彼女の海を見る目の奥に漂う、どこか悲しげな雰囲気に。
ーー私、あなたが羨ましいです。
踏み込めない気配を感じたあの言葉。僕と彼女の間にある深い溝。そして僕は薄々気付いていた。その深い溝を踏み越えない限り、僕は彼女の世界の入れない事に。
その日も乗り合わせた彼女は、こちらに手を振っていた。僕の顔を見て、笑顔のまま首を傾げた。聞かなければ。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「はい?」
怪訝な顔をして聞き返す彼女。聞いてもいいか、それはもしかしたら聞かれたくないことかもしれない時の保険の言葉だ。
「初めてあった時……俺の事を羨ましいって言いましたよね」
彼女の表情が陰る。喋りたくないことを喋らせてしまう気配がしたが、引けない。
「それは……なんでですか?」
俯いていた彼女の目線が海へ向いた。何かに想いを馳せた様子で、彼女は零れるように呟いた。
「……私の父は、漁師でした。……子供がそのまま大人になったみたいな人で、本当に海が大好きでした」
その時、彼女の名前は、海が好きな子と書くのだと教えて貰ったことを思い出した。その名は、彼女の父親が望んだ想いのだと、わかった。
「……でも最期は、その海で亡くなったんです。だから私は……あなたが羨ましい。海を見て、前に進もうと思えるあなたが羨ましい。私は……父が大好きだった海を見て……そう思えないから……」
お父さん……
声にならないような呟きと共に、彼女の頬を雫が滑った。
同じ景色を見て、僕は未来を想い、
彼女は過去を想った。それだけの違いが、僕と彼女の世界を隔てている。深い深い溝となって。
どうすればいい。僕には何が出来る。何が言える。
その時、姉の言葉が脳裏を過ぎった。
ーーあんたがどうしたいがかを、一番大事にすべきやよ。
僕は自分自身に訊いた。どうしたいのかと。
僕は、彼女と同じ世界で、彼女と話をしたい。
踏み出せ。
「僕が……僕がなんとかします。僕は……あなたに前に進んで欲しいから」
そうだ。
「僕が……あなたが前に進もうと思えなくても、僕が手を引きますから!僕は……」
「ーーあなたと前に進みたいんです!」
景色が流れ、海が途切れる寸前、彼女は笑って言った。
「ありがとう……嬉しい」
……良かった。
ギリギリ、間に合ったようだ。
そうして僕は、彼女と付き合うことになった。
海を走る電車の車窓には、紅葉が散るようになった。何を前に付けても許される季節だ。
芸術の秋。彼女の好きなドラえもんの映画を見に、映画館のあるデパートへ出かけた。
券を買ったものの上演まで少し時間があったので、近くの本屋に入る。
読書の秋。読書はいい事だ。漢字も覚えられるし、語彙も増える。そして登場人物の行動、言動、思想を読解する事は、声優として重要な事でもある。本の登場人物の人生を読むことで、その人達は僕の中で活きる。
「実は私、小説家になるのが夢なんです」
唐突なカミングアウトに少し驚いた。
「そうなんですか」
「バイトしながら頑張って書いてるんですけど、何度応募してもいいとこ佳作止まりで」
「へぇ……」
何の賞なのかは分からないが、佳作でも何回も選ばれているのならそれは結構凄いのではないだろうか。
「今書いてる話は、少し自信があるんですけど」
おどけた様子で彼女そう言ったので、どんな話なのか気になるのは必然だったが、それは内緒らしい。
互いにおすすめの本を勧めあったりしていると、そろそろ上演の頃合いだ。
食欲の秋。ポップコーンは2人で1つ、塩とキャラメルが真ん中で区切られたやつを買った。好みが俺がキャラメルで彼女が塩なので、これが一番お得である。2人でシェア出来るというのも決断を後押しした。これは不可抗力だ。飲み物は彼女はアイスコーヒー、僕はいちごオレ。
「結実也さん、甘党なんですか?」
「……子供っぽいと思いますか」
甘党か辛党かで言ったら甘党にメーターが振り切れる。わさびも紅しょうがも大嫌いだ。だけど好みなんて人それぞれだろう。甘党を馬鹿にするのは良くない。
「そんなことないですよ。かっこいいですよ。頭いい感じ。」
それはアレですか、デスノートのLですか。甘いものを食べても頭を使えば太らないと言い放つアイツのイメージですか。
「……好海子さんってちょっと天然ですよね」
「え!?どういう事ですか!?」
激しく反駁する声はスルーしてスクリーンへ向かう。
小学校以来見ていなかったが、意外なほど面白かった。大人になって見て初めて気づく魅力、なんて高校生が言えた事ではないかもしれないが。
見終わった後、イタズラっぽい口調で彼女が聞いた。
「いや〜泣けましたね。結実也さんも最後、うるっと来てたでしょ」
「っ……!そ、そんな事ないですよ」
何故気づかれた。鼻をすすったりはしなかったのに。映画館で泣いている所は見られたくないクチなのに……!
「意外に涙脆いんですね。ポップコーン食べるふりして涙拭いてるのバレバレでしたよ」
クスクスと彼女に笑われて顔が熱くなるのを感じる。なんだ一体、天然って言ったののカウンターか!?
「……そっ、それより、ジャイアンって映画だと良い奴ですよね!」
取り敢えずこのままいじられ続けるのは堪えるので話題を逸らす。
「そう!そうなんですよ!恐竜の映画でもですね、ジャイアンだけは……」
彼女の注意かなんとかジャイアンに逸れたようなので、ホッと胸をなで下ろす。ありがとうジャイアン。君はのび太だけでなく、僕のことも助けてくれたね。心の友よ。
家に返ってリビングに入るなり、姉が声を掛けてきた。
「結実哉ぁ!」
やたらテンションの高い姉の勢いに若干後ずさる。
「……な、何さ」
恐る恐るにそう返すと、姉はジリジリとこちらに歩み寄ってくる。
「今日イオンで一緒におったんあれ!彼女け?!」
「え!?結実哉!彼女出来たの!!」
加わってきたのは母親だ。とてつもない食いつき様である。
「……そうだけど」
あの時自分の気持ちを言えたのは姉のアドバイスのおかげなところもあるので、それに免じて正直に答える。
「あらあら嬉しい〜!ついに結実哉に、結実哉に彼女が!あらまぁ〜!どんな人?ねぇどんな人なの?!」
完全に舞い上がる母。世の母親は息子に彼女が出来ると皆こんな感じなのだろうか。多分違う。
「清楚な感じの子やったよ。結実哉〜あんな感じが好みやったんけ。姉ちゃんも髪伸ばしてあげよか?」
「何言ってんだあんたは!」
「結実哉」
1人静観していた父親から声が掛かる。
「はっはい」
普段はフレンドリーな感じの父だが、その声は真剣な声だったので、思わず敬語で返事をしてしまった。
「……大事にしなさい」
暫しの沈黙の後放たれた言葉に、僕は強く頷いた。
季節は冬。車窓には激しく雪が舞っていた。ウィンタースポーツが好きな僕は、この季節が好きだ。寒くさえなければ。
車の中には、運転席に母、助手席に姉、後部座席に僕と彼女が乗っていた。母が彼女の顔を見たがり、我が家で冬恒例のスノーボードに彼女を誘え彼女を誘えと迫り、一緒にスキー場へ向かう事になった次第である。自宅から車で1時間。運転を頼んだ母がやたらバックミラー越しに目だけで笑っているのがわかる目でこちらをチラチラ見ている。昼ドラ好きな母が、息子が彼女とスノーボードなんていう状況ではしゃぐのは目に見えていたが。
「本当に美人さんねぇ〜」
小声で姉にそう言っているのが後部座席に丸聞こえで彼女は目をぱちくりしていた。そんなこんなでいつもより早く目的地に着いたように感じた。
「楽しんでらっしゃいね〜」
うふふ、と笑う母に、苦笑い。彼女はというと「お母さんもどうぞ楽しんで〜」と、やはりこの人は少し天然だ。母はスキー場に併設された温泉を楽しむらしい。
「好海子さんは初心者なんでしょ?じゃ今日はあんたとは別行動ね」
いつもは姉と共に頂上から一気に滑り降りてはまた登ってを繰り返すのが恒例だが、彼女をほっぽり出す訳にはいかない。
「あんたちゃんと教えてやんなさいよ。じゃ〜ね〜」
そう言ってゴンドラの方へボードを肩に担いで姉は歩き去っていった。謎の貫禄。
彼女はスノボは初めてとの事で、やはり最初から簡単に出来たりはしない。滑ろうと体勢を起こしてもすぐに転んでしまう。
「うう……難しいですね……」
若干痛そうに呻きながら言う彼女。スノボ歴7年の身としてはここで初心者にアドバイスの1つでもしてやらねば立つ瀬があるまい。
「下向いてちゃダメですよ。前を見るんですよ前。進みたい方を向くんです。」
これが基本中の基本だ。スノボでもスキーでも自転車でも何でも同じ事、進行方向に目線を向けなければバランス感覚がフルに発揮されない。
「前……」
復唱しながら彼女が体勢を起こす。真剣な目で前を見据え滑り出す。すると明らかに先程までとは様子が違う。
「おお…!」
体制を崩すこと無く、すいすい前へ進んでいく。しばらく進んで転んでしまったが、初めてにしては上々だ。素質があると言っていい。間違いない。
「大丈夫ですか?」
手を差し伸べると、彼女は嬉しそう笑っていた。
「結実也さんの言う通りですね!私、行ける気がします!」
彼女が満足気な笑顔でそう言ってくれたのが、無性に嬉しかった。
「じゃあ次、ターンの練習しましょうか。こんな感じで…」
実際にやって見せようとした所へ、
「結実也〜〜楽しんでるゥ〜〜??」
聞き覚えのあるハイテンションな声に振り返ると同時に雪が顔面に吹っかけられる。
「ぶはっ!ちょっと姉さん!!」
「あははははは〜仲良くねェ〜」
通りすがりにターンで弟に雪をぶっかけて行くなんて。勝気過ぎるにも程がある。
後ろを振り向くと、彼女が爆笑していた。
「お姉さん、自由な人ですね〜。結実也さんのその性格はお姉さんの影響ですね。振り回されるタイプですもん」
「いや本当にあの人はもう自由過ぎてもう……」
苦笑いしながら頭をかく。
冷たい雪風の中で、少し顔が熱くなるのを感じた。
「おかえり。楽しかったか?」
家に帰ると父がそう声をかけてきた。
「まぁね」
「そうか。まさか滑れない彼女をほって置いて姉さんと滑ってた訳じゃないだろうな」
「そんな訳ないだろ。ちゃんと教えたよ」
「はっは、冗談だ。お前は約束を守る子だからな」
父がコーヒーに目を落としながらそう言った。約束。
大事にしなさい。父はそう言った。
「これからもその約束を忘れるな。その人とどれだけ離れても」
そう言って、父は去っていった。
そうして彼女と過ごした約半年の時間。電車から見る景色のように、時間はあっという間に流れさっていった。
桜舞い散る春。何気ない散歩という名目で、僕は彼女を近所の浜に連れ出した。
本当の理由は、話さなければならないことがあるから。穏やかな海を見ていると、不思議と落ち着いて話すことが出来た。
「あの」
僕は彼女に話した。僕は生まれ育った土地を離れざるを得ないことを。
僕が志す職は声優。何をどうしても、もっとも有利なのは東京にいることなのだ。
彼女は黙って聞いていた。何も訊かなかった。
「いつか、本当の意味であなたと前へ進むために、僕は今、前に進まなくちゃならない。」
真っ直ぐ彼女の目を見て、僕は言った。
「少しだけ、待ってて下さい」
彼女は、少し俯いた後、いたずらっ子のような笑顔で言った。
「……少しだけですよ。あんまり遅いと、先に行きますからね」
この人に会えて、良かった。
目の前に止まった新幹線のドアが開き、僕は中へ乗り込む。
席に座ると、窓の向こうに彼女がいる。父さんと母さん、姉さんと一緒に。皆の笑顔に、つられて微笑んだ。
彼女が手を振って、その唇がかすかに動く。
分厚いガラスに遮られ、何も音は届かなかったけど、その想いは胸に届いた。
「ありがとう」
そうして僕は、東京へ発った。
※
その頃、私にとって電車から眺める海は、過去の象徴だった。
父と共に貝殻を探した場所。一緒に魚釣りをした場所。父が一番好きな場所。
その景色から蘇る記憶には、父がいた。
私は、父がいた頃に戻りたかった。
そんな時、彼を見つけた。
まるで子供のように、食い入るように海を眺めるその目は、どことなく父に似ていた。私は何かを期待して、彼に話しかけた。だけど、彼の言った言葉ですぐに分かった。
前に進もうって、そう思えるんです。
私は、彼と同じ世界にいない。
いじましく彼と話しても、空虚な感覚はずっと胸にあった。
やがて、自分が何を期待していたのかに気づいた。
彼なら父がいなくなって胸に空いた穴を埋めてくれるのではないか。
なんて、なんて浅はかな期待だろう。
根拠なんてただの1つ。ただ、海を見る目が父に似てるから。
ーーそれだけなのに、父と同じ目をした彼は、溝を飛び越えて、私の世界に入って来てくれた。
僕が手を引くから、僕と前に進もうと。
私と一緒に前に進みたいのだと。
心が、暖かさで満たされるのを感じた。
彼となら、私は前に進める。乗り越えていける。父を失ってから初めて、私は自分に自信を持つことが出来た。
それから、彼と過ごす時間は、幸せだった。
一緒に見た映画。実はほとんど横目で彼を見ていた。こっそり涙を拭いてるのが、いじらしくて、愛おしくて。
一緒に行ったスノーボード。教え方はとても丁寧で、優しくて。颯爽と雪山を駆ける彼は、普段の少し気弱な雰囲気が嘘のようにカッコよくて。
そんな彼と共にいることが、私に勇気をくれた。
そしてこの春、彼は私の元を去る。
冬が終わる頃、彼は私に話した。自分が声優を目指している事。高校を卒業したら、東京にある声優の学校に進むのだと。
もう今までのようには会えない。そんな悲しさは、彼の目を見て消し飛んだ。彼の、前を見据えた目を見て。
彼は私に、前へ進もうと思わせてくれた。彼のおかげで私は前へ進める。
そして彼が今、前に進もうとしている。自分の夢を叶えようとして。
いつか、本当の意味で私と前に進みたいから。そう彼が言った。私がすべき事、それはーー
私の手を引いてくれた彼の、背中を押すことなのだ。
彼に受けた恩を返せる。こんな嬉しいことがあるだろうか。誇らしいことがあるだろうか。
少しだけ待っていて欲しいと、彼が言った。
いつまでも待ちますとも。
窓の向こうにいる彼に、私は言った。
あなたには、前に進む強い心がある。きっと、前に進める力がある。あなたなら、あなたの望む夢を叶えることが出来る。
もしあなたが壁にぶつかったら、私が背中を押すから。だから、
ーー頑張ってね。
まるでテレパシーのように、想いは届いたみたいだ。笑った彼の口元が微かに動いた。
もう新幹線が見えなくなった。
……お礼を言うのは私の方です。
「……結実哉なら大丈夫やよ。声優なんてなれるなれる。イケボやもん」
立ち尽くしている私に、お姉さんがニカッと笑ってそう言ってきた。
「……そうですね」
彼なら、彼の望むところを叶えられる。そう信じてよう。
※
それから、5年の月日が流れた。
この電車に乗るのも、随分久しぶりだ。
僕は声優業が軌道に乗り、食っていける声優になっていた。
「久しぶりに見られるね、あなたの好きな景色」
「そうだね」
隣には、この電車でいつも向かい合わせに座っていた彼女が、妻として僕の隣にいる。親と姉への顔見せに、お互いの実家を巡りにきたのだ。
ふと、彼女の表情が嬉しそうに閃く。
「ねぇ、あれ」
「ん?」
言いつつ彼女の目線をおってみると、その先には本を読む高校生が。
彼女が嬉しそうに笑っている。その本は彼女が書いた本だった。彼女が以前話した少し自信のある話はベストセラーとなり、彼女もまた夢を叶えた。電車で出会った男女のラブストーリーらしいが、一体どこの誰がモデルなんだろうか皆目見当もつかない。
「あの話がもしアニメになったら、あなたに声を当てて欲しいな」
「……それはちょっと恥ずかしいな」
自分がした恋愛に改めて声を当てるとなると、結構恥ずかしい。振り回されるタイプとは誰が言ったか、僕は先輩声優たちに若干悪い意味で気に入られてしまった。結構な無茶ぶり演技を要求されたり、呑みの席でもやれ惚気話のひとつでもしてみろだのなんだの、それが自分の恋愛劇を演じるなんて事になれば冷やかしが暴走して止まらなくなることが目に見えている。
でも
「でも、やってみたい。好海子さんが書いた本だから」
ふふっと彼女が笑う。
「嬉しい」
ふと彼女が、愛おしそうに目線を落とす。彼女が抱いているのは、1歳になった僕らの子だ。名前はたいよう。
太陽のように明るく、大洋のように広い心を。名前に込めた意味は、健やかに前向きに育って欲しいという願いのほんのおまけだ。この子の歩んだ人生の中に、そっとその名前が残るだけなのだから。
トンネルを抜け、たいようが彼女の肩越しに外を指さす。
よく目に焼き付けておけ、我が子よ。
海を走る電車から望む、僕らを前に進めてくれた景色を。