夢歩き
夢を見て起きたとき、その夢を覚えていることは人それぞれだが
完全に内容把握している人は少ないだろう。
僕も多数派の一人で完全には夢の内容を覚えていないことが多い。
その内容が例え幸福に満ちていようが不幸に襲われていようが関係ない。
僕自身、数多く夢を見る人ではないがたまにとんでもなく幸福感に満ちた夢を見ることがある。
ただ、それは見た感覚がそこにただ呆然と存在するだけで見たという現実と確信は存在せず虚無感が残り後味が悪い。だからといってはなんだが、僕は夢が嫌いである。
幸福な夢は内容を思い出せず後に残るのはもどかしさと虚無感。
不幸な夢は言わずとも不幸感。
なぜ望んでもいないのに夢を見なければならない。
もちろん幸福でも不幸でもない夢を見ることもある。
そのときはそのときでムカつくものだ。
どうでもいい夢の時に限って内容を覚えているのはなぜだ。
そういう全てを総じて夢が嫌いである。
ただ、一度だけ、不思議な体験をした。
ある日、夢から覚めたとき泣いていた。僕が。
誰かとキスしたようなそんな光景が脳裏をちらつく。
何か忘れていた大切なものを思い出した感じがした。
いや、実際には思い出せるわけでもなく虚無感だけが心を蝕んでいた
ふと、手のひらに何か物体が入っているの感じた。
不思議な体験というよりは奇怪すぎる体験である。
考えてみてほしい。起きたら虚無感に襲われている心と何か物体を握っているという現実を。
恐る恐る確認してみると、そこには可愛らしいヘアピンがあった。
見覚えのあるような、ないような。
大学二年生にもなった大人がこんな光景を見られたら誤解を生むだろう。
特に妹に見られたら当分はネタにされるか口止め料として金を請求されるだろう。
まあ、自分でフラグを立てておいてなんだが神様のいたずらだと思いたい。
そこには僕を起こしに来た妹の姿があった。しかも憐れみを浮かべた顔で。
「これは、その、違うんだ、自分でもよく分かってい....」
僕の弁解は彼女の耳には届いておらず
「なんでお兄ちゃんは泣きながら女の子のヘアピンを握りしめているの?しかも上裸で」
この点は僕自身にも謎であった。なぜ上裸なのか。
「あれ、そのヘアピンって、見覚えがあるような気がする。いつ見たんだろ....」
「見覚えがあるのか?僕も思い出せないんだ、何か大切な約束があった気がする」
思い出せないもどかしさが広がる。このときもう夢のことなど忘れていた。
「てか、それって小学生とかが付けているような柄だよね、もしかしてロリコン....」
自分自身を疑った。自問自答さえした、ロリコンなのかと。
僕は黙ってしまった。それを見た妹はため息を漏らして
「まさか実の兄が可愛らしいヘアピンを握りしめたまま寝る上裸ロリコンとは....」
「上裸は余計だろ」
「せめてロリコンという点を否定してほしかったよ」
妹との生産性のない会話を繰り広げてから僕は1つの用事を思い出す。
今日は和葉の命日だということを。墓参りに行くということ。
和葉は僕の幼馴染だった。
六年前、事故で亡くなった。夏の終わりだった。
亡くなる一週間前に僕と彼女は二人で花火を見た。
淡く儚い花火だった。僕と彼女を夢中にするには十分だった。
それが二人の中で最大の思い出だった。
予想してなかった。予想できもしないだろう。お別れが近づいていることなど。
和葉の家に寄って仏壇に挨拶してから墓参りすることにしていた。
八月も終わるというのに照りつける太陽にはうんざりしていた。
和葉のご家族は家族ということもあって和葉の面影をどことなく感じられた。
仏壇の前にいつものように座りいつものように近況報告でもしようとしたとき
僕の目にはしっかりとあるものが映っていた。
和葉の遺影には、前髪にさっき握っていたヘアピンが付けられていた。
なにかよくわからない感情が僕を襲っていた。
言葉にはできないような、複雑な感情が。
そのとき僕は思い出していた
和葉との約束を。
僕たちがまだ小学生だったころ、毎日のように遊んでいた二人はどこか互いに魅かれているところがあり両想いになっていた。
そのとき、僕は和葉に誕生日プレゼントとして
数少ないお小遣いをはたいてヘアピンを買ってあげた。
「ありがとう。あのね、将来は私のお嫁さんになってね?」
確かに和葉は頬を赤く染めてそう言った。
あの時は好きだったが結婚なんて漠然としすぎていたから
なんとなくで「いいよ」と答えてしまった。
いくら鈍感な僕にもここまで展開があればうすうす分かっていた。
というか、なんとなく気づいていたのだ。
昨晩の夢の正体を。
肩の高さくらいに揺らした髪をなびかせながら。
まるで夏の花火を見ているかのような笑顔で。
僕が見ることのなかった白く百合の花のような。
世界で一番綺麗だと、そんな君のウェディングドレス姿を。
誓いのキスを交わす僕たち二人が。
叶わなかった夢。
忘れかけていた夢。
君は怒っていたのかな、僕が約束を忘れかけていたことを。
それを思い出させようとしてくれたのかな。
唐突に奪われた二人の約束。
夢の中でいいからと、和葉が神様にでもお願いしたのかもしれない。
できることならもう一度、一緒に花火を見たかった。
実は忘れかけていた、というのは嘘なんだ。
正しくは忘れようとしていた。
和葉がいなくなってぽっかり穴が開いてしまった。
それを埋めるのに必死で、そうしているうちに記憶が薄れていった。
君が僕を何て呼んでいたのかも。
また夢の続きが見たい、会いたい。
ちゃんと言えなかったお別れの言葉を。
君がいなくなってその世界に目を背けていた。
都合のいい世界は寂しかった。
さようならを言って、ありがとうを添えてみたら
「ありがとうが先だろ」とか怒るのかな。
次はちゃんと君を愛せるのかな
そんなこんなで和葉の墓に挨拶を済ませて僕の一日は終わった。
今ならまた夢で会える気がしていた、確証なんてないけれど。
やっぱり次は僕のほうから怒ってみよう。
「もっと早く僕の前に現れてよ」と。
そのとき初めて僕は夢というものを待ち望んでいた。
嫌いだった夢を。
その晩、現れた君は昔のように無邪気な笑顔でこう言った
「幸せになれよ。翔ちゃん」
懐かしい響きだった。暖かい声だった。僕がかつて恋した君だった。
僕は、白いウェディングドレスを着飾った君じゃない人と歩いています。
君のいなくなった世界で僕を愛し僕が愛した人です。
夢の中で歩いた道を、今歩いています。
ありがとう、さようなら
「おめでとう、やるじゃん」
どこかでそんな声が聞こえた気がした。
暑さの残る夏のセミにかきけされていた。