〇日目.4 異世界へようこそ‼︎
ふわっと風がそよいだと思うと、嗅いだことのない匂いが鼻をくすぐる。
いつの間にか目を閉じていたらしく、ゆっくり目を開けると青々とした草原が視界いっぱいに飛び込んで来た。
遮る物のない景色をずっと見ていると目が痛みを訴え始める。普段はこんなに遠くまで見ることが無いから、ちょっと驚いた。
鼻に届く匂いはこの広い草原から生まれたんだろう。
近所の公園のように狭い空間で生まれた匂いじゃなく、踏まれた草、掘り返された土、生き物の生活する匂い。そのなんとも言えない匂いに、高揚感が高まっていくのがわかる。
僕達が出現した場所は、見晴らしが良い小高い丘になっていた。
ぐるりと見回すと、草原の反対には川があり、沿うように壁に囲われた街がある。
その奥、川の両岸に黄金色の畑が広がっている。
あれは稲だろうか? それとも麦だろうか?
あんなに綺麗な色になっているなら、収穫が近いのかもしれない。
その畑の傍を街道が通っていて、道を挟んだ反対側には横に枝の長い広葉樹に見える木々が密集している。
街の向こう、川を越えた随分先に険しそうな山と木々が見える。こちらは針葉樹らしく、木々の背が高い。山の麓が切り拓かれているところを見つけた。白っぽい壁は採掘の跡かもしれない。
今いる場所、見えてる範囲だけでもドキドキする、ワクワクする。
これからどんな事が起こるんだろう、どんな出会いがあるんだろう、僕は──
「ようこそ、ヴェストラへ」
会長さんは僕の視界に僅かに入って、礼をする。タイミングを見計らった行動だと思うけれど、その見事さに感動するしかない。
僕は息を深く吸い込んで、深々と頭を下げた。
「会長さん、連れて来ていただいて本当にありがとうございます! この景色を見ただけで、まるで物語の中に入り込んでしまったようです!」
「嬉しいお言葉ありがとう存じます。お気に召された御様子、なによりでございます」
「はい、旅行が楽しみになりました」
「それでは見えている街までご案内いたしましょう」
会長さんは街までの道案内と、この地域について教えてくれた。
まず、この世界であるヴェストラは愛された大地の意味。素敵な名前だと思うけど、普段使われる事は無いそうだ。地球も態々地球に住んでると言わないから、そんなものかもしれない。
そして今から向かう街は、水の街アクアルム。
この世界の中では標準的な街で、領主が常駐していて治安が良く、近隣には大きな獣も少ないので過ごしやすい所と説明された。
そのアクアルムの領主に、地球人を連れて挨拶に伺う事を伝えてあるらしい。
領主の方でも来訪する人物を把握しておきたいと言われたそうだ。
「挨拶するのに、何か気をつけておいたほうが良い事はありますか?」
「本日の接遇でございましたら、御心配は必要ありません」
特別何かしたわけでは無いので、丁寧に対応すると良いのだろう。
「あ、そうだ。聞いておきたい事がもう一つありました」
「何でございましょう」
「えっと、この世界の言葉って習う事出来ますか?」
会長さんはちょっと不思議な顔をすると、納得したらしく、説明不足を詫びた。
「ご説明が遅くなって申し訳ありません。諒真様のお言葉は、既にこの世界で普通に会話出来るようになっております」
「日本語が使えると言うことですか?」
「いえ、そうではありません。先ほど経由いたしました『神の間』でございます。あの部屋に入室した際、簡易ながら言葉が理解、発音出来るようになっております。これは地球の神々との対話において、相互に不自由が無いよう調整されております」
今度は僕が頭を捻らせていると、歩いているだけでは退屈でしょうからと、異世界交流の事情を丁寧に教えてくれた。
始まりは神隠し。
異世界側から見ると、言葉が通じない人が突然現れて困惑した。
それが一人なら時間はかかるものの、何とか会話することで意思の疎通が図れるようになった。
しかし回数を重ねると、見たことの無い風貌の異邦人が現れ続ける事に住人が不安を訴えだした。
遂には言葉が通じない人々がこの世界を襲って来るんじゃないかと言う、流言すら出て来たそうだ。
ヴェストラの神様は人間同士の諍いには関与しないけど、異世界からの転移には注意しないといけないと思い始めた。
その後、地球側からの不意な転移に関しては、住人に接触する前に神様が拾い上げ、地球の神々に渡りをつけ、元の世界に戻していた。
そんな折、地球からの転移でやって来た人々が、ヴェストラに今までになかった刺激を与えていたんじゃないかと思うようになったらしい。
元の世界に戻らなかった彼らの一部は、会話が出来るようになると、住み易くなるように住環境を工夫しだしたり、新しい文化を生み出した。
これは神様にとっても予想外だったらしく、愛すべき人々が豊かに暮らせるようになるならばと、見つけ次第送り返していたのを見直すきっかけになったらしい。
勝手に転移で来られるのは困るが、友好的な人物を限定して、ヴェストラに招待してみるのはどうだろうか。
それが異世界交流、異世界おこしの始まりとなったらしい。
しかし、地球人をそのまま連れて来てしまっては、今までのように言語に、環境に問題が起こる。
それを解決する為、転移の際には『神の間』を経由させる。
そこでは簡易的な言語の理解、会話が出来るようにする能力を付与する事が必須となった。
「……それが、本来『神の間』で説明されることだったんですね……」
「左様です。今回に関しましては、こちら側が先触れもなく行った事、地球の神々も何らかご事情があったのでございましょう」
「会長さんに付き添ってもらえて助かりました」
初めに想像していたより、ずっと奥の深い事業らしい。
そもそも神隠しが頻発していたのは、口減らしも理由があったんじゃないかって言う時代だから、数百年、もしくは一千年以上前からって事になる。
そう考えると、ご先祖様が過去にいた事もあったのかもしれない。
旅行先で知り合いに会うよりもずっと低い確率だ。それでもこの世界に凄く興味が出て来た。
まずは会話に問題がなければ、旅行で過ごすには不自由しないと思う。
それにしても、地球の神様、何処へ行ったんだろう?
そんな話をしているうちに、街の正面入り口と思しき大きな門に僕達は到着した。
大きな門に圧倒されていると、会長さんはその間に衛兵さんの所に話に行ったようだ。
開かれた門の両脇には衛兵さんが槍を携え、胸当てや腹当、腕に金属の小手、膝から下にもロングブーツみたいな防具を身につけている。ちょっと格好良い。
通行料とか手続きが必要なのかな、と会長さんを見ると、一言二言話しているぐらいですぐに入る事を許可された。
会長さんとの話が終わると、奥にいた一人の衛兵さんが街の方へ走って行く。
「こちらの衛兵は領主より地球の方が来られる事を聞いていたようですね。領主に来訪を伝えるべく、走って行ったようです」
「僕の訪問って、そんなに大袈裟な事なんですか?」
「勿論でございます。特にこのアクアルムでは、長い間地球の方が来ておりません。他の街や都市との交流で知り得た事より、今回のような直接の訪問は貴重な機会と判断するでしょう」
「なるほど、後に来る人の事を考えると、失礼な事をしないように気を付けないといけないですね」
「諒真様のお心遣い、大変有り難く頂戴いたします。ですが、今回のご招待は神様が認め、用意したものにございます。ご自身を偽る事なく、お過ごしいただければそれで十分でございます」
会長さんは門の側で恭しく礼を執るので、周りの目を集めてしまい、照れくさい。
僕は領主様を待たせてしまうので、行きましょうと足早に門をくぐり抜けた。
くぐり抜けた先は、人が溜まる場所になっていた。そこには三十人ぐらいの人が集まっていて、門を出る人、入る人が順番を待っているような感じだった。
街の人達は、簡素な造りの衣服を着ているけど、貧相な感じは全くしない。沢山の色が使われていて、単色もあれば、斑らになってたり、ストライプに、あれは水玉?
比較的多いのが単色で、派手な色や模様の多い服を着ている人は少ない気がする。
服の色に目が奪われてたけど、顔付きは外国人……ここでは僕が外国人だ。
日本人とは違い、目鼻の凹凸がはっきりしたした人が殆ど、はっきり言うと美形や、愛嬌のある顔をした人がとても多い。平凡な顔つきをしている方が目立つかもしれない。
髪の色も欧米みたいに、金色、赤色、茶色、灰色と目に付くだけでも色んな色がある。
女の人の肌の色は薄い小麦色。
男の人は屋外の仕事が多いのか、濃い色で珈琲みたいな色をしてる人もいる。
人間観察していると、人が途切れた先には大通りが続いてるのが見えた。
大通りは道の両側に二階建てのぐらいの赤茶けた建物がずらっと並んでいる。軒先には露店が並び、それを求めて人が流れている。
果物や穀物、鳥や良く分からない四足の獣の肉が吊り下げられている、雑貨みたいな物が並んでたり、古着を扱っている店もある。
同じ物を置いてるお店もあれば、ここでしか買えない、と啖呵売りしている店、まるでお祭りのような露店の数々に圧倒されてしまう。
大通りの中央部分は人が通りやすくなっていて、先が見通せる。その先の方には噴水のようなものがあり、さらにその奥には大きな建物が見える。そこが領主の館なのかな?
テンションが上がってしまい、凄い凄いとしか言えなくなってる僕を、会長さんは微笑みながらゆっくり道を案内してくれる。
中央の噴水広場に到着すると、待ち合わせに雰囲気の良さそうなベンチや、絵描きがカップルの絵を描いているのが見えた。
噴水から流れ出る水は、濁りもなく心地良い温度で、少し汗ばんできた身体をそのまま飛び込ませてみたくなる。
水の街の名前通り、大小様々な水路が幾つもある。用途があるんだろうけど、不思議な光景だ。
あっちへフラフラ、こっちへとフラフラしつつ、時間をかけてようやく領主の館に到着。
館には衛兵と同じ格好の人が敷地の門前に二人、扉の前に二人が立っていた。
よし、初めが肝心だからこちらから声を掛けていこう。
僕は館の敷地に入ろうとしていた会長さんに先んじ、衛兵さんに声をかける。
「初めまして、本日地球より参りました渡部諒真と言います。ご挨拶に伺ったのですが、ご領主様にお会いする事は出来ますでしょうか?」
衛兵さんは声を掛けられると思わなかったのか、身体をピクリと反応させた後、両足を揃え、顎を引いて右手でドンと胸を叩いた。
「恐れ入ります! ワタベリョウマ様! 本日のご来訪は承っております。館前におります兵がご案内致しますので、どうぞ中へお進み下さい!」
「ありがとうございます。お勤めご苦労様です」
ペコリと一礼して、僕は再び会長さんと並んで歩き始める。
会長さんを見ると、ご立派でしたと言われ、優しい笑顔を向けてくれた。
社会人で必要な会話シリーズが役に立った……! ありがとう|お兄さん≪篠原さん≫。
先程のやり取りを見ていたのか、扉の衛兵さんは僕達が近付くと館の扉を開いてくれる。
「ようこそおいで下さいました。領主様がお待ちです。中へどうぞ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
衛兵との挨拶から会長さんは前に出ず、対応を僕に任せたようだ。
会長さんには失礼だけど、物語の主人公と従者みたいでちょっと楽しくなってる。
あれ、従者の方が先に進むんだっけ?
領主の館は結構広く、四階建てになっている。
入口入ってすぐはラウンジみたいな空間で、磨かれた石の床に藍色をした敷物が敷かれていた。
その藍色の敷物は中央の階段にも繋がっていて、ラウンジからは二階や三階に行く階段が見通せる。もう一つある四階へはどうやって行くんだろう?
衛兵さんに連れられて案内されたのは、ラウンジの横の大きな両開きの扉がある部屋だった。
さっきまでの固い石床じゃなく、こちらは絨毯みたいな柔らかさだ。
その奥に横長の机があり、その机を背に四十歳ぐらいの男の人が僕達の入室を待っていたらしい。
「ようこそ、ワタベリョウマ様、神使様。アクアルムの領主バレリオ・イエニスタと申します。どうぞ中でお寛ぎ下さい」
「初めまして、渡部諒真です。地球からの参りました。予定している滞在は後日ですけど、今日は下見で伺いました。ご迷惑をお掛けしないように努めます。えっと……」
この辺りで僕の丁寧語のメッキが剥がれる。この後どんな言葉を続ければ良いんだろ……
「御領主、諒真様の滞在は御家族との話し合いの後に決められます。アクアルムに来られた際には、改めてお願いします」
「はい、承りました。ワタベリョウマ様、リョウマ様で宜しいでしょうか?」
「あ、はい。諒真で結構です。あと、様は無くて良いです」
「わかりました、リョウマ……殿。滞在中の御不便は出来るだけ対応させていただきますので、遠慮無くお申し付け下さい」
「ありがとうございます」
大人達に敬語を使われ、気遣われ、居場所に困ってしまう。
地球の、日本のお店で丁寧に対応されることはよくあるけど、ここでは敬われてる感じがムズムズする。
微妙に思っている感情が顔に出ていたのか、会長さんが声を掛けてくれた。
「諒真様、私はこの後について御領主と話し合いを行います。今日は辺りを散策してはどうでしょう。御領主、どなたか一人、諒真様に付けてもらえますか」
「リョウマ殿、直ぐに向かわせますので、館の前でお待ち頂けるでしょうか」
「わかりました。本日はお時間を頂きまして、ありがとうございました」
軽く頭を下げて、応接室を出る。会長さんの話は気になるけど、今は少し息苦しい。
一人で領主様と対応出来ると思ってたけど、全然ダメだった。
……大人になったら、上手くやり取り出来るようになるのかな。でも、それって、何年後の話なんだろ……
僕はさっきの衛兵さんに付いて、館の前に戻ってきた。
風通しの良い場所まで進むと、身体をぐっと伸ばしたり縮めたり、固まった全身を解すように動かす。緊張で強張ってしまったように感じて、体を動かさずには居られなかった。
ふぅ、と一息ついて辺りを見回すと、衛兵さんの隣に僕と同じぐらいの男の子が立っていた。