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暗闇の裁き

作者: 橘 龍悟


 生あるものはやがて死に直面し、滅び、消え去ってしまう。どんなに逃れようとしても、それは確実に目の前にやってくる。そして、それがついに私の目の前に、この私の目の前に現れたのだ。

 「死にたくないよう」

 と叫んでみても、それは何も言わず、透き通るような目で私を見つめ続けていた。

 私は必死にそれから逃れようとして、全身でもがくのだが、体は一向に動こうとはしない。

 「助けてくれ!死ぬのはイヤだよう」

 声をふりしぼって叫んでいるのに、誰一人として気づくものはいない。

 私の意識は無意識の中を遊泳していた。      

 私がそれに気づいたのは、遊泳し始めてすぐだった。〈それ〉はただそこにあるだけだった。〈それ〉は私を見ても、微笑みかけもせず、手を差し伸べる風でもなく、ただじっと見ているだけだった。その異様な雰囲気に、私は身の毛もよだつ恐怖を覚えた。

―近づいてはいけない。

 私は直感的にそう思ったのだが、〈それ〉は強力な磁力をもっているかのように、私を瞬くままに引き寄せて行った。一度〈それ〉に引き寄せられてしまうと、二度と元の世界には戻れない。

 「私はまだ死ねない。死ねないんだよう」

 私はあらん限りの情熱をもって、〈それ〉に訴え続けた。

 「私にはやり残した仕事がある。それに、子供もまだ一人前とはいえない。今、ここで死ぬわけにはいかないんだ。頼むから元の世界へ戻してくれ!」

 私の必死の哀願にも〈それ〉は無表情だった。その刹那、私の体は冷たく突き放されて、暗闇の中へ落とされてしまった。いつまで続くのか、果てしなく、限りなく、私は落ち続けて行った。いつ止まるともなく、恐らく永遠に続くような錯覚に捉われながら、私は暗闇の中を落ち続けて行った。

 どうやら私も消え去ってしまった《モノ》の一つに数えられたようだ。その時からすべてのものに関与することができなくなってしまった。まだまだやりたいことや、やり残したことや、家族や子供のことも、叶えきれなかった様々な思いや想念が、私の目の前をよぎって行く。

 いつまでも落ち続けて行く中で、私はフト思った。私が関与すべきことなど、消え去る前に本当にあったのだろうか…

 私は落ち続けた。

 病院のベッドの上で、

 「ご臨終です」

 という言葉を、もっとも健康そうな医師から、厳粛に聞いたのはいつだったのだろうか。数時間前、いや数日前、もしかすると数年前のことだったのかもしれない。

 消え去ってしまった《モノ》が、はっきりと憶い出せる筈がなかった。もっとも今更そんなことを憶い出したところで、再び生き返れるわけでもない。まして誰かに尊敬の眼差しで見られるわけでもなかった。

 私は落ち続ける。

 死人という言葉が、紛れもなく私に与えられたのである。それだけは本人でさえも否定できない事実だった。

 私は死んでしまった。なぜ死んだ!と嘆いてみたところで、誰の耳にも届かない。届いたところで理由など分かる筈もない。そこには死という厳然たる事実しかなかった。

 それにしても、死への直接の原因くらいは分かる筈だ。待てよ、私が死んだ原因は…ええと…だめだ、いくら考えても、全く憶い出せない。

 所詮どうでもいいことだ。死人である私が関知することでもない。憶い出さなくてはならないことなど、今は何一つとしてある筈がない。

 私に許されているのは、自然の成り行きと運命に従うことだけだった。それに逆らうことも自然の成り行きと運命なら、逆らわないことも自然の成り行きと運命なのであろう。

 究極のところ、私には何も残されてはいなかった。自己主張すべき自我もなく、ただ泥濘と汚濁にまみれた個体があっただけである。そんなものに何の価値があるというのだろうか。私はただそこにあった《モノ》に過ぎなかったのではないだろうか…もしそうなら、死人という言葉を与えられようが、その実体は同質のものではないか。

 私は暗闇の中でスピードを増しているような錯覚に捉われながら、落ち続けている。

 生きていると表現されていた間に私が使っていた肉体は、その後どのようになってしまったのだろうか?

 恐らく一片の同情の涙とともに、焼き尽くされ、灰になり、跡形もなく始末されていることだろう。使用不能の肉体の処理などは、生きている暇人どもに任せておけばそれで充分だ。

 暇人どもは、涙の儀式の中に、私の肉体をうまく使うだろう。それですべてが終わる。私が残したものといえば、墓石に刻み込まれた名前、数枚の写真、それに人の脳裏に焼きついた私の幻影くらいだろう。それさえもいつしか完全に消え去ってしまう。五十年もすれば、誰一人として私のことなど覚えてはいないだろう。しかし、それでいい、それでいいんだ。死人がたとえ少しの間でも何かを残すなど、おこがましいくらいだ。死人は死人らしく、何一つ残さず、静かに消え去ってしまうものだ。

 私は落ち続ける。

 人が死ぬというのは、本当に悲しいことなのだろうか。もしかすると、肉体の消滅によって初めて様々な苦痛から解放される悦びかもしれない。その苦痛を共有できなくなった悲しみのために、人は涙を流すのかもしれない。

 死人という本人にとっては、すべてが悦びに通じている。目に見える虚偽の悦び以上のものが死人にはある。もしもこの虚偽と空虚と虚構に充ちた世界に未練があるならば、それは本来歩むべき人生に気づかない、愚かで無意味な人々であろう。もっとも歩むべき人生といったところで、それは何かの力で強制された鏡の道にすぎないのだが…

 


 死後の暗黒の世界と呼ばれているところに、私はポツンと一ついた。私の肉体がなくなってしまった以上、一人の人間、目に見える物体というのもおかしい。

 人は霊魂というかもしれないが、私が生きていたころに培われた霊魂というイメージとも何だか少し違うような気がする。今の私を表現するのにふさわしい言葉が中々見つからない。

 ここは光もなければ、必然的に闇もない世界だ。私は必死になって辺りを見回して、何かを見ようとするのだが、もちろん何も見えない。どこかへ行こうとしてもどこにも行けない。私がここにいるという表現さえも矛盾になってしまう世界。その中を、数日間(いや数年間かもしれない)、私はさまよいつづけている。真の自分の姿を探し求めながら…

 しかし私には何も分からない。何一つとして真実というものが見つけられない。屈折し続けた真実の一片さえも手に入れることができないでいる。それは当然のことかもしれない。真実が存在するのか、存在しないのか、誰にも結論は出せない。それは存在ではなく、単なる創造にすぎないのだから。

 死という語が紛れもなく私に与えられた筈である。にもかかわらず、何を求め、何を明らかにしようとしているのだろう?

 恐らく自己の内部で、死というものを納得させ、その反射鏡で生を肯定したいためだろう。しかしここではそんな反射鏡など何の役にも立たない。映し出されるものはすべて暗黒の中に吸収されてしまい、何も残りはしない。それゆえに、死は何も与えようとはしない反面、何も奪わない。

 この暗黒の世界にいると、私が本当に死んでしまったのかどうかさえも疑わしく思えてくる。私が生きていた間には、間違いなくそこには私の『生』があった。それならば、死んでいる今には間違いなく私の『死』がここにあってもいい筈である。『生』こそが『死』の裏側、いや並列にあってしかるべきである。もし『死』がなければ、『生』は味気なく、みんなが路上に吐き棄てて行くことだろう。その歓迎すべき『死』の中にいる私こそ祝福されるべきである。

 それにしても、これが祝福を受けるにふさわしい『死』という状態なのだろうか? 何もないこの暗黒の中で、一体誰が誰を祝福するというのだろうか。それこそ笑止にたえない。もしそうなら、私の『生』も滑稽なものとなってしまう。いや、滑稽ささえも通り越して、無意味なものになってしまっている。

 死後、この暗黒の中をさまよい続けていると、いつのまにか私が男として生きていたのか、女として生きていたのか、分からなくなってくる。実際今はもう分からなくなってしまった。男と女のつながりがない以上、その判別は何の意味ももたなくなる。私が強くて逞しい男であろうとも、容姿端麗の美人であろうとも、ここでは一切関係のないことである。その評価を受ける対象物もなければ、評価する人もいないのだから。

 いつのまにか私は男と女という意識をもたなくなってしまっていた。そのときから、私は男でもなく、女でもなくなっていた。何かえたいの知れない《モノ》が、たださまよっているだけになった。

 冷厳な暗黒の中で、求めるべき物は何もない筈なのだが、それでも何かを求めようとして、私は闇雲にさまよい続けていた。不安、焦燥という、死後の世界にあってはならない矛盾した感覚が、私の内部から湧き起こってくる。死人の私に容赦なく襲いかかってくる様々な欲望を私は御しかねる。生あるうちに果たせなかった妄想が、楽しそうに私の周りを飛び交っている。欲望は私を廃墟として蝕むことを止めようとはしない。

 欲望と妄想は『生』あるものの特権としてのみ許されている。それが死後の世界まで侵略してくるとは、死者への冒涜である。もっともこの暗黒の世界では、名声も権力もお金も、手に入れることは絶対に不可能だからこそ、必要ではないものとなってしまう。ここでは何も必要ではなく、何も求めることもない。たとえ何かを求めたところで、それは虚像でしかない。

 それでも欲望と妄想は私への冒涜を止めようとはしない。それが『生』への強い執着というならば、私は私を苦しめている『生』を呪う。死後は『死』への執着こそが死人としての本分である。死に続けたいと願うことを妨げる『生』の存在は厭われても当然である。私は平穏無事に『死』を送り続け、二度と生きたくはない。

 やがて欲望も妄想も、私を蝕み尽くしたのか、私の周りから離れ去ってしまい、二度と戻ってこようとはしなかった。

 私は暗黒と静寂の中に再び一つ取り残された。そうなってしまうと、私を苦しめた欲望や妄想も、結構私を楽しませてくれたことに気づいた。何もない中で、欲望と妄想は私を退屈から救っていた。もう一度呼び戻そうとして、私はさまよいながらも、懸命に欲望と妄想を思い起こそうとしたが、一度離れ去ってしまうと、いくら呼び戻そうとしてももはやどんな欲望も湧かなくなり、どんな妄想も浮かばなくなってしまっていた。

 


 休むことを知らされずにさまよい続けていた私は、突然何かに行き先を拒まれたかと思うと、強い力で全身を襲われた。私はその力から逃れようと必死にもがき、助けを求めたようとしたが、私の無力な助けに応えるものはなく、変わることのない暗黒の世界が寂然と広がっているだけだった。

 私はすべてを諦め、その力がなすままに任せるしかなかった。その力は容赦なく私に襲いかかり、凄まじい勢いで私の内部に入り込むと、暗黒を駆け抜ける私の絶叫と共に、私を二つに引き裂いて行った。

 その力が私から去って行くと、私は二つの《モノ》になっていた。私から引き裂かれてしまった方が本当の私なのか、引き裂かれて残った方が、本当の私なのか、私には判別できなかった。いや実のところ、本当に引き裂かれて、二つの《モノ》になったのかどうかさえ私には分からなかった。今はただ残った私が本当の私であるような気がするだけだった。もっとも引き裂かれたもう一方も、同じように思っているにちがいない。

 しかしそんなことはどうでもいいことなのである。どちらが本当の私であるか、ということなど、この暗黒の世界では関係のないことである。たとえそれが分かったところで、何がどう変わるというのだろうか。残った私がここにある、ということだけで充分満足である。それ以上に必要なことは何もない。この闇さえない闇の中を、目的もなく、不安を抱きながらも、放棄することを絶対に許されない限り、現状に甘んじているしかない。

 一度死んでしまった私には、この世界から逃れるためにいくら『死』を望んだところで、死ぬこともできない。『生』ある内では、『生』を拒否し逃れるために、『死』という絶対的な切り札があった。だからといって、『死』ある内で、『死』を拒否し逃れるために、『生』という切り札があるわけではない。『生』に対してのみ『死』がある限り、『死』に対して『生』は絶対的な切り札になどなる筈がなかった。

 この暗黒の中に『生』があるならば、それは異端児として忌み嫌われるか、全く無意味なものにすぎない。『生』の中にある『死』が畏怖され、忌み嫌われている以上、それは当然のことである。もし『死』が『生』を否定し拒否する存在ならば、死後の暗黒の世界では、『死』は何ものにも変え難い偉大なものになり、『生』こそがおぞましく畏怖されるものになるだろう。そして『死』が『生』に対して意味あるものになるならば、『生』は『死』に何の意味も与えはしないだろう。

 この暗黒の状態から逃れる道も方法も分からない限り、私はここに留まるか、行き先も分からずさまよい続けるしかない。どちらにしたところで、私に変化が起こるわけでもなく、そこで私はしばらくの間逡巡を続けていた。

 その時に暗黒の奥底から恐怖を呼び起こすような声が這ってきた。

 私は一瞬何事が起こったのかと、声が這ってくる方を見つめたが、もちろん何も見つけることができなかった。辺り一帯の気配を慎重に窺ってみたが、何の気配もなく、ただ暗黒の暗闇が永遠と続いているだけだった。それでも私は何かを掴もうともがいてみたが、何も掴めず、相変わらず静寂と闇が私の周りを覆っているだけだった。

 うろたえた虚脱の中にいる私を嘲るかのように、無気味な笑い声が私の周りに突然響き渡った。

 「だ、だれだ!どこにいるんだ!姿を見せろ」

 一人取り残された《モノ》が味わう腹立たしさと不安に、私は闇の中に向かって叫んでいた。いや叫んだような気がするだけだったかもしれない。

 しかしそれに応えるものは何もなく、いつまで経っても暗黒の静寂が広がっているだけだった。得体の知れない無気味なモノに対する恐れと、孤独から逃れることができる悦びとが交錯している。

 「だれかいるのか?…いるのなら返事をしてくれ…」

 私は孤独から逃れたいために、か細く哀願するように言って、もう一度辺りを窺ってみたが、何も感じることができなかった。

 「気のせいだ」

 私が半ば諦めかけ、再びさまよい続けようとしたとき、急に私の周りで地獄を這ってくるようなあの笑い声が響き渡った。

―ハハハハハ…私の姿がお前には見えないのか。こんなにお前の近くにいるというのに…私にはお前の姿がよく見える。

 その声が私の上の方からするのか、下の方からするのか、私には一向に見当もつかなかなかった。

 見えないものに対する恐怖のイメージと闘いながらも、孤独から逃れて、自己主張ができる嬉しさが私の全体から込み上げてくる。死んでからというもの、この暗黒の中に一つ【ある】ことしか知らなかった私には、その声が暗黒を照らし出す光のようにも思えてくる。

 「あなたは誰ですか?一体どこにいるのですか?姿を見せて下さい」

 私は辺り一帯に向かって叫んでみたが、その絶叫は静かに暗黒の中に吸い込まれ、その後には静寂だけが残った。

 いつまで待っても、返事が返ってこない苛立ちと、再びこの闇の中に一つで取り残される不安が私の全体を襲った。

 「お願いです。何か言って下さい。私にはあなたの姿が全く見えないのです」

 私は期待を込めて、今度は小さな声で囁くように辺り一帯に向かって言った。

―ハハハハハ…それは当然のことだ。お前には見えるものがすべてであり、見えるものしか見えず、聞こえるものしか聞こえない。ここではお前がいくら見ようとしても見ることはできず、いくら聞こうとしても聞くことはできない。この闇の世界では、お前には見るべきものも、聞くべきものも、すべてがお前には必要とされていないからだ。

 「何ですって!私が必要としていないですって!冗談じゃない。何も分からないこの暗黒の中では、どんな小さなことでも私には必要です。確かにあなたの姿を私は見ることができません。しかしあなたが誰なのか、私に教えてくれたところで別にかまわないではないですか。私にだってあなたが誰なのか、知る権利くらいある筈です」

―ほほう、知る権利ときたか…なかなか立派なことを言うが、ここでは権利など紙屑ほどにも役には立たない。お前の知る権利など一体何になると言うんだ。私がこのまま消え去ったところで、お前は今までと何一つとして変わらない。お前がどれほど喚き続けようが、この暗黒の中を再び一つの《モノ》としてさまよい続けるだけだ。それがお前に残されたただ一つの道ならば、それもやむをえないだろう。ここではお前が生きていた間の権利などは無用の長物にすぎなかった、ということがよく分かるだろう。そんなものに固執すればするほど、益々お前は疎外されていくだろう。いや疎外されるだけなら、まだ疎外されるものがあるだけ救いがあるが、この暗黒の世界では、疎外されるものさえなくなってしまうのだ。

 「分かりました。もう権利などということは言いません。ただ私は知りたいだけです。あなたが誰なのか、どうすればあなたの姿が見えるのか、それだけでも教えてほしいのです」

―私のことが相当気になるようだな。まあ、無理のないことかもしれない。今までこの暗黒の中をただ【一つ】だけでさまよい続けていたのだからな。すべてを閉ざされている世界では、私というものも新鮮に思えてくるらしい。前置きが長すぎたようだ。私が何者なのかそんなに知りたければ、教えてやろう。いいか、私はここの{単なる支配者}にすぎない。だから私には姿などない。お前達に姿を見せる必要もなければ、存在する必要もない。ここではすべてが私の思いのままだ。

 「えっ、ここの支配者ですって!この何もない暗黒の闇の中で…」

―そうだ。

 「私にはとても信じられません。この闇の中で、一体何をどのように支配するというのです。私には何も見えませんが、他にも私のような《モノ》が多く存在していて、それらをすべて支配しているということですか?」

―そうだ、私はすべてを支配している{単なる支配者}にすぎない。

 「私にはよく分かりませんが…」

―そんなことはたいした問題ではない。とにかく私は職務として、お前を裁かねばならないのだ。

 「私を裁く?…あなたはもしかすると地獄に君臨するという、あの閻魔大王様?」

―ハハハハハ…なんと愚かなことを言うのか。ここは地獄でも天国でもない。見ての通り何もないただの暗黒の世界だ。私はその支配者だ。俗世間に汚されてしまった地獄でもなく、恐怖という幻想を与える閻魔大王もここにはいない。

 「もしそうなら、どうして私が裁かれなければならないのですか?私はもうすでに死んでしまって、何も残ってはいません。死人を裁くことなどできませんし、たとえ裁いたところで、どうなるというのですか?この暗黒の世界が地獄にでも変わるというのですか?」

―そんなことはない。この暗黒の世界は永遠に変わることはない。

 「それでは私を裁こうと、裁くまいと何も変わらないということですか。この何もない世界で、ただ言葉の往復遊びをやって、無意味なことを重ねる必要はないのではありませんか?」

―お前の言うことはよく分かった。お前は裁かれることを拒むというのだな?それもいいだろう。私も好き好んで裁いているわけでもない。ここではすべてが自由であり、本人の意思を無理強いすることは決してない。そのまま、いつまでも、この暗黒の中をさまよい続けているがいい。何も見えず、何も分からず、考えることもなく、逃れることもできず、暗黒の中で一つの《モノ》として大人しくしていることだ。

 「待て、待って下さい」

 私は支配者が去っていくような気配を感じて、あわてて引きとめようとしたが、それっきり、支配者の声はなくなってしまった。暗黒の静寂が再び戻り、それが永遠に続き始めた。

 


 何もない暗黒の孤独から私は逃れたかった。それにはあの支配者が絶対に必要だった。私は待ち続けた。いつあの支配者が私の前に現れるかと、数日、数ヶ月、数年、関係のない無為な時が流れ去って行く。

 死人に考えることはなく、行くべきところもなく、もちろん何もすることなどない。しかし名状し難い不安・焦燥が内部から徐々に私を侵蝕していくようだ。死人の私に、絶え間なく襲いかかってくる重力感がどこからくるのか、私には分からない。

 私は何も求めてはいない筈だ。死んでしまった今では、何一つとして必要なものはない。この暗黒の世界には何もない。私さえ本当はいない筈だ。もし何かがあるとすれば、それは幻想か虚像にすぎない。だから私は苦しむ必要などない。そう思うのだが、私を取り巻いている重力感は一向に消え去って行かない。それどころか、益々強くなって私を締め付けようとする。私が半ば気を失いかけようとしているときだった。

―どうだ、少しは裁きを受けたくなってきただろう。

 すべてを見透かしているように、暗黒の支配者の声が突然私の周りに起こった。長い間待ち続けていたものが、ようやく私の前に現れた。私は気を取り戻して、その声に縋るように応えた。

 「ようやく、本当にようやく、私のところに現れてくれましたね。私はあれから、この前あなたと話した時からずっと長い間、あなたを待ち続けていました。もう二度と私の前には現れないのではないか、と心配をしていましたが、とうとう現れてくれましたね。実を言うと、もう諦めかけていたのです。それが、こうして、ようやく…」

 私は言葉の限りを尽くして、支配者に私の悦びと感謝の気持ちを伝えようとしていたのだが、支配者はすぐに素っ気無く私に返答を迫った。

―お前は私の裁きを受けるのか、受けないのか、その返答だけをしろ。お前と違って、私は忙しいのだ。お前のような《モノ》が沢山ありすぎて、私は休む暇もなく裁き続けている。もっとも私はここの{単なる支配者}だから、それも仕方のないことなのだが…

 自慢気に言うふうでもなく、支配者は抑揚のない声で淡々と言った。

 「あなたが単なる支配者というならば、本当の支配者は別にいる、ということですか?」

―なんと、愚かなことを言うものだ。ここは何もない世界だ。本当も嘘もない、あるものもない世界だ。だから本当の支配者などもいる筈もない。

 「しかし、あなたは単なる支配者なのでしょう?」

―そうだ。本当の支配者も何もないこの世界で、私は{単なる支配者}だ。

 「……」

―そんなことはどうでもいい。それより、お前が私の裁きを受けたいのかどうか、それを聞きたい。

 「裁きでも何でも受けます。この暗黒の中に、ただ一つ取り残された状態から逃れることができるなら、どんなことでもしたくなってきます」

―そうだろう。しかしお前は自分だけがこの暗黒の世界にいると思っているようだが、お前【一つ】だけいるわけではない。お前の周りには、おまえのような《モノ》がうようよしているのだ。

 「えっ、私のような《モノ》が、私の周りに沢山いるのですか?私のような死人が…」

―お前のように死んでしまった《モノ》が、お前の周りで、泣き喚いている《モノ》もあれば、静かにじっとしている《モノ》もある。しかしお前には目もなければ耳もないだろうから、何も見えず、何も聞こえはしないだろう。

 「どうしてですか?どうしてあなたには見ることも聞くこともできるのですか?私にはあなたの声しか聞こえない。あなたが見えるものも私には全く見えず、あなたが聞こえるものも私には全く聞こえない。この暗黒に閉ざされた静寂、それしか私には分からない。どうしてですか?」

―裁かれるものには当然のことだ。裁かれるものが他に与えることはいつも何もなく、ただ惰性に従うのみだ。

 「私が裁かれる側にあるから、何も見えず、何も聞こえない、というわけですか?それではあなたの裁きを受けなければ、私は裁かれる側にならないわけですから、私にもあなたのように周りが見えるようになるのですか?」

―まだよく分かっていないようだな。裁きを受けなくとも、お前には何も見ることができず、何も聞くことができない。この暗黒の世界は何もお前に与えもしなければ、許しもしない。お前はたださまよい続けるだけだ。永遠に、いつまでも。

 「どちらにしろ、私には見ることも、聞くことも絶対にできない、ということではないですか…」

 私は不服と失望を味わった。暗黒の孤独から抜け出す糸口が、無残にも支配者に閉ざされてしまったように思えた。

―もちろんそうだ。この暗黒の世界では、裁くものがすべてを許されるのだ。

 「分かりました。とにかく裁いて下さい。何をどう裁くのかよく知りませんが、気の済むように、存分に裁いてもらって結構です。どうせ一度は死んだのですから」

―私も好き好んで裁いているわけではない。本当は気が進まないのだが、自分の職務でもあるし、相手も裁きを望んでいる以上、仕方のないことだと諦めている。

 私は{単なる支配者}という意味を少しは理解し始めていた。何一つとして支配すべきものがない支配者が、何の意味ももたされてはいない死人を裁き続ける。永遠に尽きることなく、いつまでもそれは繰り返される。それほど滑稽で無意味で、そして哀しいことはない。

―それでは、これから裁きを始める。私の質問に対して、嘘・偽りで応えようとも、それはお前に許された正当な自由である。たとえお前が本心で応えようとも、あるいは虚偽で応えようとも、私には一切関係のないことである。それはお前だけに属することにすぎない。嘘を言おうと思って嘘を言うのも、本心を言おうと思って本心を言うのも、どちらも同じお前である。

 「分かりました」

 私は神妙に応えることにした。また変に逆らって、一人取り残されるのも困る。あるいはこの裁きの結果によっては、ここから脱出できるかもしれない、という一縷の望みが私の内に湧きあがっていた。たとえそれが地獄の涯であろうとも、何もないこの暗黒に比べれば天国に思えてくる。

―お前は人を愛することができるか?

 それは唐突で、それでいて常識的すぎるほどの質問だった。私が生きていた間の数々の行為に対して質問されるのではないか、そう思っていた私は、一瞬戸惑いを覚えた。

 「も、もちろんです。生きていた間、私は多くの人を愛しました。その気持ちは死んでしまった今でも変わりません。そしてこれからも変わることはないと思います」

―そうか、たとえどのような人間であろうとも、お前は愛することができるのだな?

 「もちろんです。どれほど不幸な人であろうとも、どれほど大きな罪を犯した人であろうとも、私には差別なく、すべての人を愛することができます。いや、愛さねばならないのです」

 私はすべての情熱を注ぎ込むように、模範的な応えをその支配者に返した。

―たとえお前の妻や子供を殺した人間であっても、お前は愛することができるというのか?

 「え、ええ…そ、そうです…」

 と応えながらも、本当に愛せるかどうか、私には自信がなかった。それでもこれが裁きである以上、私の理想的良心に従って応えなければならなかった。

―おお、なんと憐れみ深く立派なことだろう。もしもお前のような人間ばかりだと、『生』ある世界はつまらないものになるだろう。復讐・憎しみ・恐怖、怒りは生活を活性化する貴重なものだ。それを越すほどのエネルギーが愛から生じる筈はないだろう。すべての人間が愛し合えば、虚偽の世界しか生まれない。愛の範疇に反するものがあってこそ、真の世界がうまれてくる。

 「しかし人を殺すには、殺す人間に理由があるのと同じように、殺される人間には殺される理由があります。そこには必然的因果関係が絶対的に存在します。それによって、人を殺したり、殺されたりしているのです。たとえ殺した人間がどのような人間であろうとも、その人間は愛すべき弱い人間でしかないのです。そんな人間を恨み、憎んだところで、一度死んでしまった人間は二度と息を吹き返すことはありません。それに、私がいくらその人間を殺してやりたいと思ったところで、私にはできません。なぜなら、もし私がその人間を殺してしまえば、その時点から私は殺した人間と同類になってしまうからです。たとえ殺さなくとも、殺してやりたいと思っただけでも、心の内ではその人間と変わらなくなってしまいます。憎しみという復讐心が自分に跳ね返ってくる泥濘でしかない以上、私はすべての人間を許すしかありません」

―なるほど、お前は慈悲深い敬虔な人間だったようだな。しかしすべての人間を許すと言ったところで、結局は自分の心の逃げ道でしかない。愛という言葉で、すべての人間を許すのではなく、己自身のすべてを許しているだけだ。

 支配者は侮蔑をこめながら、投げ捨てるように言った。

 「えっ?」

 私は自信を持って応えたつもりだったが、支配者には一向に理解されなかったようだ。私の理想的良心は、ここの支配者が待ち望んでいる応えに、相当な隔絶を生じさせている。しかし裁きである以上、私の返答以外にどんな応えがあるというのだろうか。

―うむ、そういう考えなら、もちろん神を信じているだろう。人を許し、愛するというのは、神という愚かなものの教えだろう?

 「何と恐れ多いことを…神が愚かなど、信じられない。私にはあなたの言うことが全く分からない。私が生きていた世界には、神がいればこそ、私達は安心して生き続けることができたのです。神は私の心の支えであり、私に進むべき道を教えてくれました。神のいない世界など私には考えられません」

―それでは訊くが、この暗黒の中で、神はお前に進むべき道を教えたか?

 「い、いや、それは…」

―ここに神がいると信じて、お前は安心して死に続けることができるのか?

 「私にそのように訊かれても、返答に困るだけです。」

―お前が信じているその神を、お前は自分の目で見たことがあるのか?その神と話をしたり、実際に触れたりしことがあるのか?

 「とんでもありません。神は偉大すぎて、私などには見ることも、話すことも、触れることも、絶対に不可能なのです。それでも私はそれを信じることができ、神を近くに感じることができるのです。しかし死人となった今では、神が私に教えるものは何もなく、ただ死人としてあることだけが神に許されています。だからこの暗黒の世界では、神は私に進むべき道を教えることはできないのです。私が死人としてここにある、それが神の意志ですから」

―それは、お前自身が勝手気ままなご都合主義で捏造した、神という名の単なる偶像にすぎない。お前自身の内に潜む不安が抱懐する虚像にすぎない。いみじくもおまえが言ったように、信じること、自分で信じることにすぎない。私にはそれが神と名づけられた悪魔の化身のように思える。

 「何ですって!神が悪魔の化身ですって!何ということを…神が悪魔の化身だなんて…そんなことは絶対にありえない。悪魔は悪魔であり、それは神に滅ぼされる運命にあるのです。悪魔こそが世にはびこる悪の権化であり、神は善の絶対的使者として、それを打ち滅ぼそうとされているのです。それは歴史が語る永遠の真実です。悪は必ず善によって滅ぼされてきました。それが神のご意志なのです。」

―それほどまでに信奉しているお前の神が、お前達の歴史の中で何をしてきたのかよく考えてみるがいい。何の罪もない善良な人々に、何の罪もない善良な多くの人々を殺させ、それを黙って見過ごしてきただけではないか。殺し合うのも神の意志、殺した人々を許し、殺された人々を受け容れるのも神というならば、善の使者よりは悪の使者の方がふさわしいではないか。お前の信じている神は、悪魔でさえ考えつかないことを平気で行い、人々を破滅のどん底に追い込む。そんな神を信じるなど、悪魔を信じるよりおぞましい行為だ。

 「……」

―お前の人生で、神を信じて行ったこととは何だ?

 「それは、人を愛し、思いやり、人からも愛される人間になるように、自分自身のよこしまな欲望を抑えてきたことです」

―人を愛し、思いやるだと、ハハハハハ…どうすればそんなに愚かで虚偽に満ちた言葉がでてくるのだろう。この偽善者め!人間という輩を愛するほどの価値があるというのか。思いやりをかけねばならないほど尊いものだというのか。愚かな人間共から、なぜ愛されるようにしなければならないのか。

 「それは恐らく…その方が人間として立派である、そういう評価が与えられるからだと思います。人が生きていく目的は、神と理性とが規定する人格の完成にあります。その目的に近づくために、人を愛するのです」

―なるほど…愚かな理性と、虚像にすぎない偉大な神とが、お前にそのように命じているようだ。しかし究極のところ、それはお前に内在する不安を打ち消したいための自己満足にすぎない。そのように思い込むことでしか、自分自身の『生』を肯定できないのだろう。ただそれだけの理由で、神が必要になり、理性が華々しく登場してくるわけだ。もしそうなら、人を愛さず、憎しみ、憤り、恨んだところで、それによって自分自身の『生』を肯定し、人生に満足を得ることができるなら、その人間もまた立派な人間ということになる。

 「それは違います。あなたは大きな間違いを犯しています。神や理性が導く道は、常に正しくなければならないのです。間違った悪の道で、たとえ自分自身の人生に満足を得たとしても、それは真の満足とはいえません。その人は正しい道を知り、そこで初めて真の満足を見出せるのです」

―どのようにして正しい道を知るのか?神と理性によって知るというのか?

 「そうです」

―その神の教えと理性は、戦争という大量殺戮さえも肯定してきた。そこでは、多くの人間が同じ人間を敵として殺すことを正義だと教えていた。多くの人間を殺せば殺すほど、英雄という尊称が与えられた。

 「それはそうですが、一部の戦争賛嘆者を除けば、多くの人がやむを得ない気持ちで戦争に参加して、人を殺したのです。相手を殺さなければ、自分が殺される、そういう状況にあれば仕方のないことです。誰もその人達を非難できません。それはその人達が弱くて脆い存在だからです。そのような人達にこそ、神と理性による正しい道を学ばせなければなりません。そして人間本来の悦びに目覚めさせ、幸福になる道を教えなければなりません。それが人間として生きる本当の素晴らしさになるのです」

―多くの人間共が正しいと信じて行った戦争と殺戮、それをお前はその人間共が弱くて脆い存在だったからだというが、真に腐敗しているのはお前の方かもしれなかった。彼らは自分達の行為こそが正しかったと信じ、お前を否定するだろう。そうしなければ、彼らの良心は永久に救われないからだ。その時点では彼らの神と理性は、殺人も正しいことだと判断していた。お前の神や理性こそが拒否されるべきものだ、と信じなければならなかった。お前の正しい道を彼らに教えようとすればするほど、彼らの神や理性、その存在自身をも否定することになる。結局お前は彼らの『生』を否定してしまっていることになる。お前は自分の神や理性が下した結論を正しいと信じ、それを他の人間共にも強制しようとしているエゴイストにすぎない。お前のような人間には、地獄の底で自己の神や理性の傲慢さを押し広めるのがふさわしい。もっともそこには何もいないし、お前のことに耳を傾ける《モノ》もないが…

 それっきり支配者の声は途絶えてしまい、いつまで待っても静寂しかなかった。私は何度も支配者を呼び戻そうとしたが、何もない暗闇が広がっているだけだった。

 再び暗黒の中で一つ取り残されたかと思った刹那、捉えがたい力が急激に私に襲いかかってきた。私はその場で踏ん張り、あらん限りの抵抗を試みたが、ついに力尽き、その力に耐え切れなくなり、私は二つに引き裂かれてしまった。私は暗黒の中で、絶叫とともに辺り一面に砕け散ってしまったような気がした。本当のところ、私は元のままの状態でいるのか、粉々に砕け散ってしまったのか、はっきりとは分からなかった。

 あるべき筈もない不快感が私にまとわりついてはなれない。死人である限り、不快感など感じない筈だが、私が抱き続けるこのおぞましさはどこからくるのか、一向に見当さえつかない。

 善良な私がどうして地獄に堕ちなければならないのだろうか。どうしてこのような暗黒の世界に、さまよい続けなければならないのだろうか。支配者の裁きの中で、私は話す内容を間違えてしまったのだろうか。私には支配者の言葉を理解することができなかった。

 私にまとわり続ける不快感とともに、私は果てしなく、際限なくさまよい続ける。

 


 引き裂かれたもう一つの私が、今支配者の裁きを受けようとしていた。

 支配者の声が厳かに暗黒の世界に響き渡った。

―これからお前の裁きを始める。その前にもう一つのお前の裁きについて、その結果を知らせておこう。

 「ふん、そんなこと、知っちゃいないさ。俺の片割れがどうなろうと、俺にはこれっぽっちも関係のないことさ」

 俺は投げ捨てるように言ってやった。死んでしまってから、たとえ二つの《モノ》に別れようが、俺は俺でしかない。別れた方が地獄へ堕ちようがどうなろうと、それはそっちの勝手だ。

―そうか、それならそれでいい。では、裁きを始めよう。

 「ごたごたと御託を並べないで、早くやってくれ。こっちは退屈しきっているんだ」

―お前は人を愛することができるか?

 「人を愛することができるか、だって?ははははは、こいつはおかしいや。こんなところまで来て、そんなことを訊かれるとは…」

 もしも俺に体があれば、腹を抱えてそこら中を転げ回っただろう。何もないこの暗黒の世界で、これほど不似合いな質問はない。

―どうなんだ?

 支配者は怒りもせずに、俺の笑いが鎮まるまで気長に待ってから言った。

 「冗談じゃない。俺自身でさえ愛せるかどうか分からないのに、人を愛することなどおこがましっくて、話にならないさ。第一どうして人を愛さなくちゃならないんだ。愛するどんな価値だって与えられていない人間を、傲慢で憎まれてもおかしくない猥雑な人間を、一体どうすれば愛せるというんだい?そんなことを無理強いさせられるくらいなら、死んでしまった方がまだ俺の心は救われるというものさ。俺は偽善家ぶるのが一番嫌いなのさ」

―人には愛する価値がない、お前はそう断言するのか?どうしてだ?

 「そんなこと、俺の知ったことじゃない。俺がそう思うからそうなのさ。それより人を愛するものと決め付けているやつらの考えを教えてほしいくらいだ。あんたはここの支配者だから、それくらいのことは分かっているんだろ?

―もちろんだ。支配者である私に分からないことなどない。それは、人を憎み、妬み、恨むよりは、人を愛する方が、お前自身の心が豊かになり、人生を有意義に過ごせるからだ。

 「ははははは、全くあんたはおめでたいヤツだな。ここの支配者がそんなことを言っちゃおしまいだな。死んでしまった俺に、いくら人生を有意義にかつ幸せに、と言ったところで同じじゃないか。今の俺は死人としてこの中をさまようしかないんだぜ。たとえ生きていたって、俺の心はそんな偽善的な言葉に騙されやしないさ。愚かで生きる価値もない多くの人間どもを、憎しみ蔑む方が、よっぽど俺の心は満たされるというものだ。傲慢で自己本位なやつらを、人から親しまれ愛されることばかりを望み、人を愛することなど胸の中に一片さえも残していないやつらを、どうして俺が愛さなきゃならないんだ。そんなやつらには、憎しみと軽蔑だけで充分だ」

―なるほど、どうやらお前の心の中は憎しみで満たされているようだな。

 支配者の声には、憐れみも賞賛もなく無色透明な響きがあった。

 「そうさ、俺の心は憎しみで溢れ出しそうだ。憎しみだけが生ある生を産むことができる。愛などは堕落と安逸の下に、偽善的な死せる魂を産む俗悪物にすぎない。しかもそれは無用の美辞麗句と、刹那的な気休めに覆われている。それによって、どれほど多くの人間共が腐敗させられ、堕落させられて行ったことか」

 俺はいつのまにか死んでしまった《モノ》ということも忘れて興奮していた。

―考える方向は間違っているが、お前は情熱家だな。お前の心の中は憎しみだけかもしれないが、その憎しみも愛という情熱からくるのではないか?

「とんでもない!愛という情熱など、体中に虫酸が走るくらいさ」

―ほら、それが自分でも意識している証拠ではないか。お前は愛という言葉を心の中に受け入れられなくなっている。それから逃れるために、憎しみを心の中に受け入れて満足しているのだ。

 「ふん、そう思いたければ、そう思うがいいさ。俺は俺、あんたがどう思おうと、俺の知ったことじゃないさ。そんなことを気にしちゃいないぜ」

―お前はどうしても愛を否定したいのだな?

 「いや、肯定しないだけさ」

―なかなか口の減らないヤツだな。それでは神も信じていないだろう。

 「神?…ははははは、愛の次には神ときたか…あんたには全く笑わせられるぜ。この何もない暗黒の世界で、しかもその支配者が愛とか神とかを持ち出してくるのだから、おかしいったらないぜ。ははははは…」

―よく笑うヤツだ。しかしこれがここの裁きだから、もし拒否したければ、拒否してもかまわない。私の裁きを待ち望んでいる《モノ》が沢山ありすぎるので、そうしてくれた方が私も助かる。

 「拒否なんてしないさ。どうせ退屈なだけだからな。拒否はしないが、あまりにもおかしな質問だったから、ははははは…もう少し待ってくれ、この笑いが止まるまで、ははははは……」

 俺が笑い終わるまで、支配者は何も言わなかった。支配者に必要なものは寛容な心と決められた常識である。

―さあ、もう一度訊こう。お前は神を信じるのか?

 「もちろん信じちゃいないさ。一体どこに神がいるというんだよ。もしいれば、俺の目の前に連れてきてもらいたいもんだ。第一何のために神が必要なんだ?悪と虚構に充ちた世界に、神などの俗悪物はお呼びじゃないんだよ。神という言葉は、善良なやつらからも魂を抜き去り、真理を奪い、倨傲の迷路に追いやって、自分は知らぬふりをする。全くいまいましい!」

―お前にかかれば、愛も神も俗悪物になってしまうのだな。お前の醜く歪んだ心も、神さえ信じれば、少しは救われるのだが…

 「俺は俺でしかない。いくらあんたが俺の心を醜く歪んでいると判断したところで、俺には関係のないことさ。それはまったくあんたの勝手さ。俺が自分で、俺の心は清浄で美しい、と思うことができればそれでいいのさ。もっともそんなこと一つも思っちゃいないけどさ」

―そう、お前の言う通り、すべてが個別的な問題にすぎないのだ。しかし考え違いをしないでもらいたのは、私がお前に神を信じさせようとしているのではない、ということだ。

 「分かっているさ。俺は何も信じちゃいないんだ。もしも神がいて、俺の心を満たしてくれたなら、それは俺に内在している傲慢さと自己保存が安逸さを求めているからなんだ。それに我慢できるほど、俺は悧巧でもなく、強い人間でもない。神を信じて、俺の心を救うくらいなら、俺は自分の手で生きることと絶縁したいくらいだ。その方が俺の心は救われる」

―ああ、なんとお前は哀しいヤツなんだ。それほどまでに自分を苦しめ続けて、その結果、お前が得たものといえば、心一杯に満たされた憎しみだけとは…

 「あんたに同情されようとは思っちゃいないさ」

―もちろんだ。私はここの支配者だから、どんな感情も持ち合わせてはいない。

 「それならいいんだが、俺はあんたが考えているほど苦しんじゃいないぜ。俺は胸に憎しみを抱きながら、生きるのを楽しんでいただけさ」

―そうか…そろそろ私の去るべき時がきたようだ。お前は自分が正しいと信じた道を歩み続けるがいい。

 その言葉を聞き終わると同時に、俺は暗黒の闇の中で、音も立てずに、粉々に砕け散った。

 後には何一つ残らず、闇の静寂が漂っているだけだった。すべてが完全に消滅して、無限の暗黒の世界が広がっている。

 


数年前にも一度投稿した作品です。

理由があり一度削除しましたが、再度投稿しました。

橘 龍悟の作品は他にも沢山ありますので、順次投稿していく予定です。

非常にユニークでマニアック的(?)かもしれませんが…^_^;)

こういった分野の小説があまりないので、結構好きな人には楽しんでいただけるかと…

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