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異世界恋愛ざまあ&溺愛短編集 傷ついた令嬢たちの幸せな逆転劇

「結婚するなら推し活をやめろ」と推しからの招待状を破られたので、婚約をやめたら、推しから溺愛されました――聖女様の寝室で、本物の浮気まで拝見しました

掲載日:2026/08/17

「きゃあああああああっ!」


 私の叫び声に驚いて、侍女のエマが飛び込んできた。


「お嬢様、何事ですか!」

「来たの! 推しから、お手紙が!」


 私はアリシア・フェルメール、十八歳。フェルメール侯爵家の令嬢で、二か月後には公爵令息クロード様と結婚する身だ。婚礼の打ち合わせを兼ねた茶会の最中、私は届いた手紙を読むため、侍女を連れて自邸の大広間に続く控えの間へ下がっていた。

 そんな私が婚約者ではない男性からの手紙を抱えて大騒ぎしているのには、もちろん理由がある。

 今朝、王立慰問局から届けられた封筒には、黒い蝋で剣と鴉の紋が押されている。


 北方戦線の英雄、黒騎士様の紋章だ。


 封を切る前から膝が震えた。長椅子へ座り、三度深呼吸して、ようやく中の手紙を開く。


『王都の青い鳥へ。

 五年間、手紙をありがとう。

 最後の凱旋式に、どうかあなたを招待したい』


 北方遠征で敵軍を破り、奪われた領土を取り戻して平定した軍が、王都へ帰還する。その勝利を祝う式典が凱旋式だ。

 もちろん、その中心に立つのは英雄である黒騎士様。

 その最後の凱旋式に、私は招待された。


 その下には、特別観覧席の番号と黒騎士様の署名。


「エマ。推しが私の手紙を読んでいたわ!」

「五年間、毎月お書きになりましたもの」

「お衣装を決めなくては! 濃紺に銀糸なら黒騎士様の隣でも――隣には立たないけれど! 髪には青い小鳥をつけてもいいかしら」


 私は、黒騎士様へのお手紙に名前を書いたことがない。

 その代わり、いつも便箋の隅に青い小鳥を描いていた。

 だから髪に青い小鳥を飾ったら、もしかして、私だと分かっていただけるかもしれない。

 そんな期待を抱くなんて、少し厚かましいだろうか。


「お招きになった方を見つけられないほうが、お困りになるのでは?」

「エマ、天才ね!」


 黒騎士様を知ったのは五年前、王宮から戻った父が夕食の席で北方戦線の話をしたのがきっかけだった。


 名も顔も年齢も分からない騎士が、退路を断たれた村人を逃がすため、たった一人で橋を守り抜いた。その話が頭から離れず、私は父に北方の話を何度もねだった。王宮から侯爵家へ届く戦況報告を読ませてもらい、王立慰問局で帰還兵の話を聞き、北方から戻った人がいると知れば父に紹介を頼んだ。


 そうして、彼が守った橋をパン職人が渡り、救った畑で葡萄が実り、帰還した兵が生まれた息子を抱いたことを知った。


 知るたびに、感謝と無事への願いを伝えたくなった。だから私は、王立慰問局を通して毎月手紙を送った。


 返事は一度もなかった。


 生きていてくだされば、それでよかった。


 でも、本当はずっと欲しかったのだ。私の言葉が届いたという、たった一言が。


「……浮気ではありませんのよ」


 私は二か月後、アルヴェイン公爵家の嫡男クロード様と結婚する。


 婚約者がいながら、別の男性から届いた一通にこれほど浮かれるのは、少しだけ後ろめたかった。


「何が浮気ではないんだ?」


 振り返ると、クロード様が開け放たれた扉の前に立っていた。その向こうでは、父と母、両家の親族や招待客までがこちらを見ている。


「いえ、これは――」

「前から思っていた。君との婚約は破棄する」

「はい?」


 大広間から、話し声が消えた。


「君は公爵夫人になる自覚が足りない。子供じみた飾りを好み、暇さえあれば手紙を書き、友人との茶会ばかり。注意しても、何一つ改めようとしなかった」

「それと、このお手紙に何の関係があるのですか」

「まだ分からないのか。それに君は、その手紙の男へ心を奪われている」

「いえ、それは……」


 そうだけれど、そうではない。


 黒騎士様のご無事を願い、ご活躍を知るたび胸を躍らせてきた。でも、会いたいとも、愛してほしいとも書いたことはない。


 クロード様が私の手首をつかんだ。


「痛っ……」

「見せろ」

「お返しください!」


 招待状が、私の手から奪われる。


「五年間も手紙を送った男から、逢引の誘いを受け取った。頬を赤らめ、着飾って会いに行こうとしている。これが浮気でなければ、何だ?」

「逢引ではありません。凱旋式への招待です」

「なら、こんなものは捨てても構わないだろう」

「やめてください!」


 びり、と厚い紙が裂けた。


「ああ……」


 もう一度。


 黒い封蝋が割れ、四つに裂かれた招待状が床へ落ちる。


 五年間待った、最初の返事だった。


 返事はいらないと何度も自分へ言い聞かせた。けれど手紙を出すたび、もしかしたら今月は、と配達馬車の音に耳を澄ませた。


 ようやく届いた。

 私の言葉を読んだと、初めて教えてくれた。


 その喜びを、クロード様は私を罰するためだけに破った。

 許せなかった。私が五年間大切にしてきた方の、初めて返してくださった言葉を、「こんなもの」と呼んで破るなんて。


「婚約破棄の正式な書面は、明日の朝まで待ってやる」


 クロード様は、床に膝をついた私を見下ろした。


「今夜中に自分の過ちを認め、私へ謝罪するなら、考え直してもいい」


 そう言い残し、クロード様は大広間を出ていった。


 誰も追わなかった。


 破れた招待状を拾う私へ、哀れむ視線と冷たい囁きだけが降ってきた。


***


 最後の客が帰るなり、父は私を執務室へ呼びつけた。母も青ざめた顔で隣に座っている。


「お前は何ということをしてくれたのだ。公爵家との婚約を、顔も知らぬ騎士への手紙で台なしにするとは!」

「ですが、私は浮気などしておりません」

「そう見える振る舞いをしたことが問題なのです」


 母の言葉に、胸が縮んだ。


「クロード様は、皆の前で招待状を破ったのですよ」

「それほどお怒りだったのだろう。十二歳から六年間続いた婚約を、このようなことで終わらせるわけにはいかない」


 父は深く息を吐いた。


「正式な婚約破棄の書面は、まだ出されていない。公爵家には私から取りなす。クロード殿は今夜、王宮西棟にいるそうだ。お前は直接出向いて謝罪しなさい」

「私が、謝るのですか?」

「婚約を戻していただきたいのなら当然だ」


 けれど、婚約者がいながら別の男性からの手紙に頬を赤らめたのは事実だった。父も母も、クロード様が怒るのは当然だと言う。


 大切な黒騎士様からの言葉を「こんなもの」と扱ったクロード様を、私は許せない。それでも、婚約者として間違っていたのは私なのだろうか。


 二か月後の結婚式。十二歳から決まっていた未来。クロード様の隣に立つために、我慢してきた六年間。


 それらを一夜で失うのが怖かった。


 私が幼く、間違っていたのだと認めれば、元へ戻れるのかもしれない。破られた招待状は戻らなくても、両親を失望させずには済む。


 その夜、私はエマを伴い、クロード様へ謝るため王宮西棟を訪ねた。


 父が出した先触れを確かめた侍従は、「クロード様はこちらです」と、ある部屋の前まで私を案内した。


 扉には、癒やしの祝福を示す白百合の紋章が刻まれていた。


 ここは、『清らかな聖女様』と呼ばれるミレイユ侯爵令嬢が、王宮から与えられた寝室だ。

 どうして、クロード様への謝罪に来た私が、ミレイユ様の寝室へ案内されたのだろう。


 扉が少し開いている。


 中からクロード様の甘い声がした。


「あれは家同士が決めた婚約だ。僕が愛しているのは君だけだよ」

「本当に、アリシア様とは終わったの?」

「皆の前で婚約を破棄した。フェルメール侯爵が取りなしに来ても、戻るつもりはない。凱旋式が終わったら、君を正式な婚約者にする」


 扉の隙間から、ほどけた衣服と白い寝台が見えた。


 白い寝間着姿のミレイユ様を寝台へ抱き、クロード様がその頬を撫でている。


 そして二人は、唇を重ねた。


 叫びそうになった口を、両手で塞いだ。


 これが、本物。


 私は黒騎士様の無事を願い、返事も求めずに手紙を書いただけ。それを浮気だと大勢の前で責められた。

 けれどクロード様は、私が婚約者だと知っている女性を抱き、愛している、妻にすると囁いている。


 両親が正しいのかもしれない。私が謝れば元へ戻れるかもしれない。そう思って、ここまで来た。


 でも、違う。


 私が幼かったのではない。私ばかりが我慢し、私ばかりが謝らされていただけだ。

 招待状を破ったのも、私を公然と捨てたのも、自分たちの裏切りを正しいものに見せるためだったのだ。


 こんな男との婚約を戻してもらうために、私は謝りに来たの?


 その瞬間、ぐるぐると絡まっていた思考が、一本の答えにまとまった。


 今ここで扉を開ければ、クロードはまた私を悪者にするだろう。だから、今は開けない。

 でも、もうクロードのことなど、どうでもいい。


 私は破れた招待状を胸へ抱いた。


「推しに会いに行きますわ」


***


 帰宅すると、父が執務室で待っていた。


「謝罪は済んだのか」

「いいえ。公爵家へ取りなしていただく必要もありません」

「何を言っている」

「クロード様は、ミレイユ様の寝室にいらっしゃいました。彼女へ口づけをして、愛している、正式な婚約者にするとおっしゃっていました」


 父の顔から血の気が引いた。


「見間違いではないのか」

「この目で見ました。ですが、お父様に信じていただけなくても、もう構いません」


 私は父の机から薄い補修紙を一枚借り、四つに裂かれた招待状を自分で裏から留めた。


「どうするつもりだ」

「推しに会いに行きます」


 父は、気でも狂ったのかという顔をした。

 けれど、私の手にある招待状と、机に置かれた婚約書類を見比べると、何か言いかけて口を閉じた。


「本当に行くのか」

「五年も待ったのですもの。一番きれいなドレスで参ります」


 私は濃紺のドレスを選んだ。裾には銀糸の鳥。髪には、クロードが子供っぽいと言った青い小鳥。


 泣き腫らした顔のままでは行かない。

 もうクロードのために泣く時間はない。


 黒騎士様に、お帰りなさいと伝えるのだから。


***


 翌朝、王都は黒騎士様一色だった。


 大通りには黒い旗。パン屋には兜をかたどった黒騎士パン。


 黒いパンは少々どうかと思う。

 でも、もちろん10個買った。


 凱旋式の門で破れた招待状を差し出すと、後ろから「それで入るつもり?」と囁かれた。


 衛兵が招待状を銀盤へ載せる。


 黒い封蝋から青い光が走り、一羽の小鳥となって空へ舞った。


「王家の正式な招待状です。どうぞ」

「破れていても?」

「招待されたご本人が破れていなければ、問題ありません」


 真顔だった。

 私は好きですよ、そういう言い方。


 特別観覧席の最前列には、私の名札があった。

 あと少しで、本物の黒騎士様に会える。

 嬉しくて、膝の上の手をじっとさせるだけでも大変だった。


 ところが、黒騎士様の到着は遅れていた。


 観衆がざわつくなか、クロードと白い祝福衣のミレイユが近づいてくる。


「なぜ、君がここにいる」

「招待されたからです」

「昨日、婚約を破棄されたばかりだというのに、その原因となった男へ会いに来たのか。破れた紙までつなぎ合わせて。恥ずかしくないのか?」

「婚約を破棄したのは、クロード様です」

「あれは君に反省を促すためだ。父君からも取りなしがあった。君が心から謝れば、考え直してやってもいい」

「考え直してほしいなどと、お願いしておりません」


 ミレイユが、柔らかな声で割って入った。


「アリシア様。クロード様は、婚約者がいるにもかかわらず、見知らぬ殿方へ心を奪われたあなたを心配していらっしゃるだけです。これ以上、お困らせしてはいけませんわ」


 まるで、私を思いやっているみたいだ。

 婚約者がいると知りながら、クロードを自分の寝台へ引き込んでおいて、よくもそんな嫌味が言えたものだ。


 ――むかつく女。


 今度こそ、言う。


「父から、クロード様へ謝罪するよう命じられ、王宮西棟へ伺ったのです。侍従に案内された先が、あなたの寝室でした。そこで拝見しました。クロード様が、ミレイユ様を寝台へ抱き、口づけをなさっているところを」


 二人の顔が強張る。


 広場の一角が静まった。

 怖かった。声も震えた。


 それでも、これで皆に分かってもらえると思った。


「とうとう、そこまで言うのか」


 クロードは、かわいそうなものを見る顔をした。


「皆様、お騒がせして申し訳ありません。彼女は黒騎士への思い入れが強すぎて、私が止めると取り乱すようになったのです」


「違います!」

「わたくしのお部屋に、クロード様はいらしていません!」


 ミレイユの目に涙が浮かぶ。


「昨夜は一人で祈っておりました。どうして、そのような恐ろしい嘘を……」

「嘘ではありません。扉が開いていて――」

「女性の寝室を覗いたのか? 見てもいないものを見たと言い張るなんて」

「見ました!」


 周囲の人が、わずかに身を引いた。


「ほら、また感情的になる。君は婚約破棄されたショックで幻覚でも見たんだろう」


 周囲がざわついた。

 まるで私の方がおかしいみたいに見られている。


 クロードは落ち着いている。

 ミレイユは美しく泣いている。


 昨夜の寝台も、重なった唇も、私は確かに見たのに。


 どうして。


 どうして抱き合っていた二人が落ち着いて嘘をつけば、それを見た私のほうが嘘つきになるの。

 悔しくて、二人の顔を指さして全部叫びたかった。でも声を荒らげるほど、クロードの言う「感情的な女」に近づいてしまう。


 何を言っても、この人の思い通りにしかならない。

 六年間、ずっとそうだったのだと、こんな場所でようやく分かった。


「むしろ、浮気をしているのは君の方だ!」


 クロードが周囲へ腕を広げる。


「婚約者がいながら、見知らぬ男へ五年間も熱を上げ、破れた招待状で押しかけた。私とミレイユを疑う資格が、君のどこにある!」

「まあ、推しですって」

「婚約者がいるのに、はしたない」

「しかも、聖女様を陥れようとするなんて……」


 知らない人たちの囁きが、耳へ刺さる。


 泣けば、また感情的だと言われる。

 爪を掌へ食い込ませて耐えた。


「アリシア様。騒ぎが収まるまで別室へ」


 式典係の後ろから、護衛が私の腕へ手を伸ばす。

 正式な招待状を持っていても、本当のことを言っていても、清らかな聖女様が泣けば、出ていくのは私なのだ。


 悔しい。


 黒騎士様へ、お帰りなさいと伝えたかっただけなのに。


「その見知らぬ男なら、ここにいる」


 遠くから届いた声に、広場中の顔が上がった。


 黒い旗。

 鴉の紋章。

 先頭の黒馬には、傷だらけの黒い鎧。


 本物。


 黒騎士様だ。


 来た。


 生きて、帰ってきた。

 黒騎士様は、迎えに出た重臣たちも見ず、まっすぐ私の前で馬を止めた。


「待たせたな、アリシア」


 私の名前。


 推しが、私の名前を呼んだ。


 嬉しい。

 嬉しすぎる。


 でも、どうして?


 頭の中では言葉が駆け回っているのに、一つも声にならない。


「その女性から手を離せ」


 護衛の手が止まった。


 黒騎士様が馬から下り、黒い外套を翻す。


「彼女は押しかけたのではない。私が捜した。私が招いた。そして、私が迎えに来た」

「婚約破棄は、まだ正式な書面になっていない。アリシアは私の婚約者です!」


 クロードが叫んだ。


「いくら凱旋の英雄でも、婚約者のいる女性を個人的に呼び出すなど――」

「彼女から恋文を受け取ったことは、一度もない」


 黒騎士様は、私が守った橋を渡ったパン職人や、救った畑の葡萄について書いたことを話した。


「彼女は会いたいとも、愛してほしいとも書かなかった。ただ生きて帰れと、五年間言い続けてくれた。それが、生きる力をくれた」


 兜の奥から、私へ視線が向く。


「彼女は誰も裏切っていない。手紙へ恋をしたのは、私の方だ」


 今、何と?


 推しが、私の手紙に、恋を?

 顔が一気に熱くなった。

 推しが私を捜し、皆の前で選んでくださった。


 先ほどまで、私は婚約者に捨てられた、みっともない推し狂いの令嬢だった。


 でも黒騎士様は、そんな私の手紙を五年間読んでいた。くだらないどころか、帰るために必要だったと言ってくださった。


 クロードが私から奪おうとしたものを、この人は宝物のように扱ってくれる。


 走り出したい。叫びたい。エマに今すぐ報告したい。


 きゃあああああ、と叫ぶのは、さすがに今ではない。


 たぶん。


 でも心の中では、冒頭より大きな声ですでに叫んでいた。


「それでも、身分も名も明かせない一介の騎士が侯爵令嬢を――」

「では、ここで明かそう」


 黒騎士様が兜を脱いだ。


 夜色の髪。青い瞳。左眉からこめかみへ伸びる細い傷。


 若い。

 顔がいい。

 しかも、私を見ている。


 待って。


 情報が多い。


「名はノア・レグルス。国王陛下の第二子だ」


 広場が、どっと揺れた。


「英雄の黒騎士様が、第二王子殿下……?」

「王族自ら、北方を守られていたのか」


 重臣たちが頭を下げ、遅れて観衆も膝を折る。


「王族の従軍を敵国に知られれば、私だけでなく、共に戦う兵まで標的になる。そのため前線では身分を伏せ、黒騎士の名だけを使っていた。ほかに、私の素性について確認したいことは?」


 第二王子。

 推しが第二王子だった。


 私より、たった二つ上。


 あの石橋を守ったときは、十五歳。


 驚きでいっぱいだった胸が、今度は痛くなる。


 十五歳の少年が、最後尾に立って村人を逃がしたのだ。


「王都の青い鳥。やっと会えた」


 ノア殿下が、素手を差し出した。


「あなたの手紙がなければ、私は帰ってこられなかった。ありがとう」


 もう無理だった。

 涙が頬を伝う。


「お帰りなさいませ、黒騎士様。お待ちしておりました」

「ああ。ただいま、アリシア」


 私は自分から、その手を取った。


 ノア殿下が私の手の甲へ唇を触れさせる。

 推しに手へ口づけされた。

 しかも推しは第二王子で、私の手紙へ恋をしたと言った。


 誰か、落ち着き方を教えてください。


「彼女の席は観覧席ではない。私の隣に用意してある」


 選ばれた。


 大勢いる誰かの一人ではない。

 王子だと知らず、返事さえ求めず、ただ無事を祈った五年間。

 その時間ごと、私はこの人に選ばれた。


 公爵夫人にふさわしい色も、妻なら捨てるべき趣味も、クロードの許可もいらない。

 好きなものを好きなままの私を、この人だけは見つけてくださった。


「殿下! 誤解です!」


 クロードが駆け寄る。


「私は彼女を騒ぎから守っていたのです。婚約破棄も、過ちに気づかせるための一時的なものでした。五年間手紙を書けたのも、婚約者である私が寛大に許していたからで――」

「昨日、大勢の前で招待状を破ったのに?」

「黒騎士が殿下だと知らなかったからだ。殿下だと分かっていれば、僕だって破りはしなかった!」


 周囲がざわめく。


「相手が一介の騎士なら浮気で、第二王子殿下なら許す、と?」

「事情が違う! 婚約破棄は撤回する。アリシア、こちらへ戻りなさい」

「では、私はどうなるのです!」


 ミレイユの叫びが響いた。


「昨夜、私を抱きながら、正式な婚約者にするとおっしゃったではありませんか! アリシア様とは終わった、侯爵様が取りなしに来ても戻らないと!」

「ミレイユ、黙れ!」

「私たちの関係は尊いものなのでしょう? アリシア様も承知しているのでしょう?」


 先ほど、一人で祈っていたと泣いた口が、昨夜の約束を並べていく。


「この女が私を誘惑したんだ!」

「あなたから口づけをなさったのでしょう!」

「お前との結婚など本気で考えるはずがない!」


 ミレイユが、クロードの頬を打った。


 二人で私を嘘つきにしたくせに、自分が疑われた途端、相手だけを悪者にする。


 腹の底から怒りが湧いた。


「違う、アリシア。今のはミレイユが勝手に言っただけだ。君の推し遊びも許す。おあいこにしよう」

「おあいこ?」


 怒りで声が震えた。


「どこが、おあいこなのですか!」


 もう、感情的だと思われてもいい。


「私は黒騎士様の無事を願っただけです。あなたは私を踏み台にして、ほかの女性を抱き、私には『清い関係』だと嘘をつき、挙げ句に『自分が悪い』とまで思わせた!」


 補修した招待状を突きつける。


「私の大切なものを破り、私が悪いと泣かせ、その夜には別の女性を抱いていた。それでも、ご自分が私を許す側だとお思いなのですか!」


 私はクロードをまっすぐ見返した。


「婚約を破棄すると、皆様の前でおっしゃったのはクロード様です。私はその婚約破棄を、喜んでお受けいたします」

「私は君のためを思って――」

「私のためなら、私の宝物を破らないでください!」


 六年間、言えなかった言葉だった。


「アリシア様、私は騙されただけです」


 ミレイユが泣きながら訴える。


「あなたも、私が婚約者だとご存じでしたね。本当に何も恥じることがないなら、私の目を見て、邪魔な婚約者を追い払えると少しも嬉しくなかったとおっしゃれますか?」


 ミレイユは私を見なかった。


「あなたも、私を踏み台にしていた一人です。清らかな聖女などと、もう誰も呼ばないでしょうね」

「でも私は、今クロード様を叩きました! 私も被害者です!」

「叩いても、昨夜のことは消えませんわ」


 私は婚約指輪を外した。


「これは、私のものではありません。私が間違って、あなたから預かっていただけです」


 クロードの胸へ押し返す。彼は指輪ではなく私の手をつかもうとした。


「指輪だけを、お受け取りください。汚れたものには触れたくありませんので」


 クロードの手を払いのけると、指輪が硬い床へ落ちた。


「待て、アリシア。君は感情的になっている。二人で話せば――」


 ノア殿下が私との間へ立つ。


「彼女に近づくな。二度と」


「あれが清らかな聖女?」

「自分たちが浮気しておいて、婚約者を浮気扱いして婚約破棄ですって?」


 人々が、クロードとミレイユから離れていく。


 ノア殿下は、私へもう一度手を差し出した。


「今度こそ、私の隣で凱旋式を見てくれませんか」


 私の席は、観覧席ではなかった。

 凱旋した黒騎士様の隣だった。


「はい。喜んで」


 涙を拭い、その手を取った。


 追いすがるクロードの声は、祝福の音楽と、ノア殿下の帰還を喜ぶ喝采に吞み込まれた。

 もう、誰も彼の話を聞かなかった。


***


 凱旋式のあと、私は王城の応接室へ案内された。


 ノア殿下と二人きり――ではない。


 侍女が二人、近衛兵が一人。


 安心したような、少し残念なような。

 いえ、安全第一です。


 ノア殿下が革張りの箱を開く。


 中には、私が送った封筒がぎっしり詰まっていた。


「一通も捨てていません」


 その隣には、別の束。


「こちらは、あなたへの返事です。身分を隠すため、前線から個人へ送ることを禁じられていました。それでも書かずにはいられなくて、五年分になりました」


 一番上には、『王都の青い小鳥へ』。

 十五歳の文字で、守った橋の向こうに暮らしが続いていると教えてくれてありがとう、と書かれていた。


「私は、お返事をいただけなくてもよかったのです」

「私は、返事を書きたかった」


 ノア殿下は、つなぎ合わせた招待状を丁寧に畳んで返してくれた。


 クロードは、私から奪うために触れた。

 ノア殿下は、私へ返すために触れた。


「すぐに結婚を申し込むつもりはありません。あなたが憧れた黒騎士と、第二王子の私が同じ人間だと、ゆっくり知ってほしい。私も青い小鳥ではなく、アリシア嬢を知りたい」


 初めて私の名前が書かれた封筒を差し出される。


「これからは、返事を送ってもいいでしょうか」

「喜んで」


***


 後日、クロードは、王家の招待状を公衆の前で破り、第二王子の招待客を侮辱した責任を問われた。近衛への推薦は取り消され、アルヴェイン公爵家の後継からも外されたという。


 ミレイユも、神殿の聞き取りで昨夜の証言が嘘だったと認めざるを得なかった。王宮から与えられていた部屋を返し、公の祝福役から退くことになった。


***


 それから半年、私たちは何度も会い、それ以上に手紙を交わした。


 王城でお茶を飲み、街を歩き、フェルメール侯爵家の庭で日が暮れるまで話した。それでも、会った翌日には必ず手紙が届く。


「昨日お会いしたばかりですのに、もうお手紙ですか?」

「五年間、お送りできなかったお詫びです」


 そう言って、ときには差出人本人が手紙を届けに来た。


 黒騎士は寡黙だと思っていたけれど、実際に会っても、手紙でも、よく喋る方だった。


 甘いものが好き。馬には好かれるのに、犬には吠えられる。初陣の夜は怖くて眠れなかった。


 三日返事をしなければ、差出人本人が心配して訪ねてくる。五年間送れなかった反動らしい。


 凱旋式で皆を黙らせた第二王子が、私の返事一通にはそわそわする。その落差を知るたび、推しだった人を、少しずつ一人の男性として好きになった。


 私も、推しへの手紙では書かなかったことを伝えた。


 刺繍が苦手。怒ると食欲が増す。返事は要らないと思いながら、本当はずっと欲しかった。


***


 半年目の朝、黒い封蝋の手紙が届いた。

 差出人本人が、玄関に立っている。


「今日は、誰にも破られないよう直接持ってきました」


『親愛なるアリシア・フェルメール嬢へ。

 これから先の手紙を、同じ家で書かせていただけないでしょうか』

「返事を、今いただいても?」

「お手紙でなくてもよろしいのですか?」

「今、聞きたいです」


 可愛い。


 推しに対して、可愛いという感情まで追加されてしまった。


「お受けいたします。ただし、一つだけ条件がございます」

「何でも言ってください」

「結婚したら、推し活をやめろとはおっしゃらないでくださいませ」


 ノア殿下は笑った。


「むしろ、続けてほしい。あなたに推してもらえる男でいられるよう、努力します」


 そんなことを言われたら、もっと推してしまう。

 推し活をやめる日は、どうやら一生来そうにない。


 なお、推しへ送った次の手紙は、夫となる人へ宛てた最初の恋文になった。

週2〜3回ほど、このような短編を更新していく予定です。

「また読みたい」と思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけるとうれしいです。


前作:

靴も買わせてもらえなかった徴税官の妻ですが、「大事にしてね」ともらった靴のおかげで辺境伯様に溺愛されることになりました

https://ncode.syosetu.com/n4642mo/

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― 新着の感想 ―
言葉を届ける青い小鳥…… ――――Twitterじゃないですか!
アリシア様の素敵なお話、ありがとうございます♪ そして 〉どうして、クロード様への謝罪に来た私が、ミレイユ様の寝室へ案内されたのだろう。 誰だってそう思うよね、しかも夜! この侍従、侯爵様からの先触…
たいていの親ってのは子どもが夢中になってるものは分からないものだけど、娘の推しが王子で娘も認知されてるの知って一方的に娘に謝りにいかせた親はしばらく気まずそう。
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