私と宝くじ
私、高波茉莉絵という人間は、これといって面白味のない人間だ。毎日のタスクをこなし、仕事に追われ、特に趣味らしい趣味もなく日々を過ごしていた。
ふと、しこたま怒られた仕事の帰り道に、宝くじ売り場の前で足を止めた。別に前から興味があったわけでもなく、売り場の列に並ぶ人々を横目で見ることもなく素通りしていた。
でもその日は何故だか足を止めてしまった。特に誰も並んでいるわけでもなく窓口で愛想の良さそうなおばさんが手作業をしている。
「すみません」
気づいたら窓口に声をかけていた。
「宝くじ……一枚ください」
その日を境に、ひどく怒られる日は宝くじを一枚買った。
最初は宝くじが当たったら、仕事を辞めることばかり考えていた。次にまともな食事。その次は引越し。
一枚、また一枚。理不尽な叱責を受ける度にまた一枚買う。
ハズレばかりでも良かった。一枚買う毎に自由な夢を一枚買う。他の人は宝くじを買わなくても、もし当たったらと空想できるらしいが、自分にはできなかった。目に見える何かが無いと「何をしようか」と浸れなかった。
「あんたなんでしっかりチェックしておかないの!?後輩の分まで見るのは当たり前でしょ!」
今日はお局様から叱責が飛ぶ。彼女が可愛がっている若い社員のミスを咎められる。
「申し訳ございません」
「仕事量もあなたの方が少ないわよね!?」
確かに私の方が仕事量は少ない。しかしどれも複雑なものばかりで、後輩は普通より少し多いがどれも簡単なものばかり。
「申し訳ございません」
システム通りの機械のように頭を下げる。俯いた顔も、おそらくマネキンとさして変わらない。
「謝るなら学生でも出来るのよ!?」
「はい……申し訳ございません」
最初は自分も意見していたが、それをすると嫌がらせや当たりが強くなるばかりでいい事はない。周囲は上司や先輩、同僚も我関せずだ。
「申し訳ございません」
「ああもういいわ!次からは気をつけて!」
投げつけられた書類を手に取りデスクに戻る。
「すいません高波さーん。自分まだ慣れてなくて。今度からお互いチェック徹底しましょうね!」
ミスをした当の本人はニコニコと前向きな言葉と共に笑う。曖昧に頷き仕事に取り掛かると、出そうになるため息を飲み込んだ。
今日も宝くじを買おう。
この日は上役やお局様は他支店視察という名の観光巡りで、職場は珍しく穏やかで静かだった。仕事の量が減ったわけではないが、やることだけに集中できて処理も早い。これなら久しぶりに定時で帰れそう。
「ねぇ、高波さん」
「はい?」
同僚の女性が声をかけてくる。彼女は両手を合わせて申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんなさい。ちょっと具合悪くて…仕事お願いできない?」
「え?」
「期限が明日までのが八件あるの。でも頭痛くて、薬飲んだけど治らなくて…他の人には断られちゃって高波さんしか頼めないの」
「えっと…」
「今度高波さんの仕事手伝うから!お願い!」
彼女の熱心な頼みに押されて息を吐く。
「分かりました、やっておきます。書類と資料ください」
「ありがとう!本当にごめんね…!」
幸い今手持ちの仕事は早く片付けられる。彼女から必要書類を受け取ってパソコンに向かった。
「お先に失礼します」
定時になると彼女がそそくさと帰る。自分は黙々とキーボードを叩き、彼女の仕事を引き継ぐ。
「私もお先に失礼しますね。高波さん」
「お先に」
「お疲れ様でした」
ポツポツと人が減っていく。すると先輩が一人近づいてきて声をかけた。
「高波、お疲れ」
「お疲れ様です」
「今度からアイツの仕事断った方がいいぞ」
「え?」
そう言って先輩がSNSを見せてきた。そこには体調が悪くて帰ったはずの同僚が、レストランで食事をしている画像が載っていた。
「みんながアイツの仕事を断るのはこういう事。また利用されないように気をつけな。じゃあ、俺もお先」
先輩は早足に帰り、私は一人残された。
「……」
私は一度キツく目を閉じてから、またパソコン画面を見た。
帰り道にいつもの宝くじ売り場に行く。でも今日は臨時休業で開いてなかった。諦めて家路につきコンビニで半額のお弁当を買う。その時レジの宝くじの電子広告を見て気づいた。
「そうだ。今日は抽選日……」
夢が終わる日だとぼんやり考える。
宝くじを買って、夢見て、抽選日がきたら夢が終わって、嫌な目に遭って、また夢を見るために宝くじを買う。それの繰り返し。
アパートに着いてすぐにシャワーを浴びた。いくらかさっぱりしてから、お弁当を食べて片付ける。自炊もいつからしなくなったか忘れてしまった。
歯磨きを終えてベッドに横になる。スマホを充電しながら宝くじの抽選発表一覧を開く。
一度だけ一万円が当たったことがあった。その日は嬉しいと言うより、その一万円をお守りがわりに持っていようか、少し高めの夕飯にしようか悩んだ。結局使わずにいて、棚の引き出しにしまっている。
いつものように買った宝くじの番号を探す。下の桁からまずは見比べる。一番下の当選金だけでも当たればまた宝くじが買える。そう思いながら当選番号を確認した。
「……ん?」
一度起き上がって買った宝くじの数字をメモに書き写す。それからまた画面の中の数字を見比べる。
「え……数字、合ってる?」
画面の数字を書き出して、先ほど書いた宝くじの番号を一つ一つ照合する。
「……一等……五億?」
意識が浮上して目が覚めた。
視界には見慣れた木目調の天井に円形の明かり。起き上がると窓の外は暗くて時刻を確認したら夜中の三時だった。
「なに……夢?」
机の上を見ると綺麗に片付けられ、なぜかゴミ箱にはティッシュの山ができていた。
「え?……何があったの?」
立ち上がって部屋を見ると、隅に空になった酒瓶が転がっていた。手にとってみれば、もらったは良いものの、飲むタイミングを逃して放置していたワインだった。
「私お酒飲んだの?」
口臭を確認するとアルコールの匂いがした。口を濯ごうと洗面台に向かうと鏡に映ったのは目と鼻を赤く腫らした顔があった。
「顔すごいむくんでる。花粉症みたいに目と鼻がすごいことになってる……」
あのティッシュの残骸はこれが原因だろうか。よくみれば涙の跡もあり、鼻もガビガビだ。
「なんでこんな事……」
顔を洗って歯を磨いて口臭ケアをする。心なしか体もむくんで指先もパンパンだ。
水を飲もうと冷蔵庫を開けると、がらんとした中に、入れた覚えのないタッパーが奥にしまわれていた。手にとって蓋を開けると、少しよれた宝くじが入っていた。
「なんでこんな所に」
酒に酔った自分が冷蔵庫に宝くじをしまったのだろうか。少しばかり自分の頭を心配しつつ、水を取り出して飲むと、スマホを手に取り宝くじの抽選発表のサイトを開いた。
そこには紛れもなく、自分が今手にしている宝くじの番号が一等に書かれていた。
「五億……当たった……当たったんだ……」
その時ぽろりと涙がこぼれて足元を濡らした。不思議な感覚だった。心はまったく動いていないのに、涙は止まらなかった。
「とりあえず……寝なきゃ」
電気を消して涙を拭きながらベッドに横になる。落ち着いているせいか、意外にもすんなり眠りについた。
仮眠のような睡眠時間をとって、いつものように出勤する。なんだか妙な気分がして、いつもより視界が広く感じた。
鬱屈とした車内や人混みも、一人一人の顔や様子が見てとれた。
職場につくとジロジロと周囲の視線が刺さる。少し引いたとはいえ、目はまだ赤くて顔もややむくんでいた。
「高波さん。昨日はありがとう〜」
顔を向けると、頭痛を理由に仕事を押し付けて帰った同僚が上目遣いで立っていた。
「私めちゃくちゃ頭痛かったから助かっちゃったー。それでねー、実は今日もまだ痛くてー、お願いしたいんだけど良いですか?」
彼女の顔を見ると昨日の先輩が見せてくれたSNSの画像が甦る。体調不良とは言い難い満面の笑みでレストランを楽しむ彼女の表情が浮かんでくる。
「ごめんなさい。私は今日、半休とるから仕事引き受けられないの」
「え?前から休暇とってたの?」
「ううん。急な予定があって。自分の仕事を終えたら上がります」
「えぇー!良いのそんな事してー!上の人に怒られない?」
「仕事の区切りをつけてから帰るから大丈夫。ごめんなさいね」
話は終わりとばかりに書類を取り出してパソコンを起動する。すると彼女はこれ以上は無駄と悟ったのか一度こちらを睨みつけて離れていった。
幸い直属の上司は先に本店に戻っていて休暇は無事に受理された。いつも事なかれ主義の上司だが、今日はまだお局様は出張から戻っていないので上司も承認しやすかったのだろう。
仕事を終わらせてすぐに帰り支度をすると、アパートに帰った。
部屋の掃除をして洗濯をする。ひと通りこなしてお茶を淹れると、改めて宝くじについて調べる。
銀行手続きができるのは五日後。そしてさらに約十日後に口座に振り込まれる。
「有給とらないと……」
お局様に嫌味を言われるだろうが、早めに有給休暇を申請しよう。それから銀行手続きに行けばいい。
翌日、予想通りお局様に嫌味を言われたが、他支店の視察が思いの外良かったのか、いくらか機嫌が良く嫌味も一言で済んだ。無事休暇を取り仕事を淡々とこなす。そして五日後、朝一番で銀行の本支店へ行き、窓口に向かう。
「おはようございます。今日はどのようなご用件でしょうか?」
「あの……これ……」
クリアファイルに入れた宝くじと『高額当選しました』のメモを見せる。
それを見た行員は一瞬だけ目を見開き、すぐにプロの顔に戻った。
「……かしこまりました。では、こちらの番号札をお持ちになって、少々お待ちください」
そう言って札を差し出した。
待っている間、不思議と緊張も高揚感も無かった。仕事をしているような、淡々とした感情しか湧かない。
「お待たせ致しました。お客様」
行員の女性に声をかけられ、奥へと促される。そして自分では経験したことのない格式高い応接室に通され、そこで初めて心臓が一際動いた。
高級そうな革張りのソファを勧められお茶を出される。するとすぐにカチッとしたスーツを着た男性が現れてにこやかに微笑んだ。
「お待たせ致しました。支店長代理の吉野と申します」
「こんにちは。高波と申します」
ソファから立ち上がり名刺を受け取る。
「では、さっそくですが、くじ券をお預かりしてもよろしいでしょうか」
「はい」
クリアファイルから宝くじを取り出して、支店長代理の吉野さんに渡す。
「では確認を致しますのでお掛けになってお待ちください」
吉野さんは美しい所作で頭を下げると部屋から退室した。
しばらくして、吉野さんが数人のスーツの方と戻ってきた。少し多い人数に顔がこわばると、吉野さんは微笑んだ。
「間違いなく一等、五億円のご当選でございます。おめでとうございます!」
「おめでとうございます」
口々にお祝いされてどこか居心地が悪くなった。どうにも慣れないシチュエーションで戸惑う。
そして机に差し出された、見たこともない重みのある書類。それを目にしてじわじわと今更現実味が出てきた。
様々な手続きの後、最後に冊子を渡されて資金繰りや投資の話をされる。しかしそれは「今は判断できない」と丁重に断り、後日考えると伝えた。
銀行を出る前に足を止める。
財布から、もう一枚の宝くじを取り出した。それはずっと引き出しにしまっていた、一万円の当選くじだった。期限は今日。私は踵を返し窓口に向かう。
「すみません、このくじを換金してください」
最寄駅についた帰り道。いつもは素通りするカフェに入った。コーヒーの香りにジャズの音楽に混じって人々の会話が溶け込む。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
マスターから声をかけられ奥の一人席に腰を下ろす。
「ホットのオリジナルブレンドをお願いします」
遠目からカウンターのサイフォンが見えて粉と泡が混じり合う様を眺める。程なくしてコーヒーが運ばれた。
一口飲む。そこでようやく、深く呼吸ができたことに気づいた。
「夢……夢はもう、夢じゃなくなった」
そう独言を呟いて熱いカップに映る自分を見つめた。両手の強張りが解けて、芳ばしい香りが鼻を撫でた。
ブレンドを飲み終えたあと、気になっていた別の豆も頼んだ。それからもう一杯。
いつもなら値段を見て諦めるはずのものを、今日は最後まで味わった。
「ご馳走様でした。美味しかったです」
「たくさん召し上がっていましたね。ありがとうございます。またいらして下さい」
私は頷いて財布からもらいたての新札の一万円を差し出した。
今日、私は初めて、しまい込んでいた夢を使った。




