祈らぬ聖女と、閉ざされた村
「レイナ・アルディスを、聖女の座から追放したのは……王太子、セドリック殿下だ!!」
その言葉が広まったのは、神殿が“沈黙”してから三日後のことだった。
疫病は蔓延し、貴族は屋敷を閉ざし、聖女クラリーチェは“偽者”だったと暴かれた。
王都の広場には怒声が渦巻く。
「俺たちの子どもが死んだのは、あんたのせいだ!」
「どうして本物を追い出したんだ!」
「返せ! レイナ様を返せぇ!!」
王宮を囲む民衆は、食糧庫を燃やし、衛兵に石を投げつけた。
もはや王都は“国家”ではなかった。信仰も秩序も、瓦解していた。
セドリックは、一人、馬を駆っていた。
髪は乱れ、鎧は脱ぎ捨て、ただ“追放した女”の名を叫ぶように。
(あのとき、信じていれば――!
幻を見せる闇魔法だと、気づいていれば!)
彼は知った。
“聖獣に最初に応えられたのは、クラリーチェではなかった”ことを。
王宮の禁書庫に残された写本には、たった一つの名が刻まれていた。
《レイナ・アルディス》――
唯一、神に選ばれし真の契約者。
辺境の村セラン。
その境界に足を踏み入れようとした瞬間――
セドリックの身体は、目に見えぬ力で弾き返された。
「くっ……なんだ、この……っ!」
馬が嘶き、彼は泥の中に崩れ落ちた。
その姿を、村の者たちが見下ろしていた。
「村に入れない? ああ、それが“証”さ。
あんたが神に拒まれたってことだ」
「ここは、聖女様が暮らす村……選ばれし者だけが入れる」
セドリックは、泥の中に額を押しつけ、叫んだ。
「レイナ! どうか……お願いだ、助けてくれ!!
このままじゃ国が滅びる! 俺は……俺は――っ!!」
その叫びは、礼拝堂の中のレイナに届いていた。
彼女は静かに目を伏せた。
側には、白く光る聖獣が寄り添っている。
「私を“偽物”と罵って追放した王太子が、今さら、私を頼るなんて。
皮肉ね。……でも、神は優しくない。私は、もっと優しくない」
彼女は微笑む。
「私はもう、祈らない。
善き人にだけ、聖獣は応えているわ。それで、十分よ」
村には今日も、病が癒え、作物が実り、子どもたちの笑い声が響く。
聖獣が守るその土地だけが、神に愛されていた。
そして、王都は静かに崩れていく。
王子の跪きは、ついに誰にも届かなかった。
それから、王都には王も、貴族も、神官もいなくなった。
暴動は三ヶ月に及び、焼かれた城の跡地には、疫病と飢えた民だけが残された。
残党を鎮める兵もおらず、都市はひとつ、またひとつと死んでいった。
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ある日、東の国境を越えた小さな交易街で、
薄汚れた身なりの男が、商人の後ろを無言で荷車を引いていた。
泥に塗れた足枷には、古い王都の刻印。
名は尋ねられず、誰も尋ねなかった。
けれど、見覚えのある者はいた。
「あれ……元・王太子じゃねぇか?」
「はっ、あんだけ偉そうだったくせに、今じゃ荷運びの奴隷か」
笑い声が背後で上がるたびに、男の背は少しずつ、さらに小さくなっていった。
そして、今日も聖女の住まう村には、奇跡が降る。
神に選ばれし者だけが与えられた、静かであたたかな日々。
かつての王都に、その光が戻ることは――もう、ない。