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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

コップを置いたら角だった

まず初めに、手の感触があった。

次に、足の熱が局所的に奪われる感覚があった。


順を追って話そう。

僕は先程、夕食を食べ終えて、食器を台所のシンクに片付けていた。そこではっと、デザートのフルーツポンチがあったことを思い出したのだけれど、何だかその時はもう、明日で良いかなと思ったので、お預けとした。

そうして僕は、食器棚に備え付けられたガラスの扉を開けて、中から一通りのサプリメントが入った箱を取り出し、次いでその下段に置いてあった箱に手を伸ばし、薬の入った袋を取り出した。

薬というのは、決して怪しい薬ではない。

全然、闇とか無い。

ただの抗精神病薬である。

それからはいつも通り、まずはサプリメントの入った箱から開けて、その場でどのサプリメントを飲むかを判断した。サプリメントとはこのように、その日に足りなかった栄養素だけを補うために使うというのが、本来の使い方である。

ただ、そこで僕はふと、まだコップに水を入れていなかったことを思い出した。別に、サプリメントやお薬を手の上に出してから、それを握り締めたままの状態でもう一方の手にコップを持って水を汲んでも良かったのだが、その日は特に何も考えずに、まず先にコップに水を汲もうと判断したのだ。

今思えば、もしかしたらその余計な判断こそが、僕を狂わせていた元凶だったのかしらという思いも、無いでもない。


「…!?」

その時、事件が起こった。

コップに水道水を入れて、さあ次はサプリメントから出そうか、薬から出そうかと考えていた時に、異常な事態が発生した。


まず初めに、手の感触があった。

コップを台に置こうとしただけなのに、そこで妙な感覚が、指から手首へ、手首から肘へ、そしてしまいには僕の脳へと、這い上がるように伝わってきたのだ。

何もしていないのに、ただコップを置いただけなのに、それだけのことで僕の手は突然、揺れ出したのだ。

ぐらぐらと、僕の手にかかる力の向きが右往左往の二転三転するような、あれは慌ただしい動きだった。


次に、足の熱が局所的に奪われる感覚があった。

局所的にとは、具体的には足の甲の小指付近の部分に、半径最大1センチメートル程の範囲が、急に熱を奪われたような感覚が生じたのだ。

冷たかった。

それは中学生時代、ひょんなことから僕が給食の味噌汁をこぼしてしまった時の、今は旧友にして当時の級友の、視線を想起させる冷たさだった。

しかもその感覚は、大小の異なる範囲で、複数の位置を中心点とした複数の範囲にて、感ぜられたのだった。


意味が解らなかった。

訳が判らなかった。

見れば、僕の足元に広がっていた床は、わずかばかり濡れている。それどころか、棚の上の、いや下と言うべきか、とにかく棚に備え付けられている台の上の、僕がコップを置こうとした位置さえも、透明な液体に濡れていたのである。

コップを置こうとしたと同時に、そう言えば今日は何日だったかなとカレンダーを見て、つまりはコップからほんの少し目を離しただけで、気が付けば起こっていた怪現象。


何が起きた?

誰がやった?

誰か、この空間にいるのか?

誰もいないように見えるのに、誰かいるのか?

僕に、見えていないだけなのか?


そうして訳もわからずその場に立ち尽くして、今に至る。

透明な液体は今にも床の木目に染み込んでいってしまいそうだが、そもそもこの液体は何なのだろうか?

透明な液体は色々あるが、例えばエタノールなら独特の匂いがある筈だ。それが無いということは、エタノールではないのだろう。

では、一体何なのだ?僕は化学にはあまり詳しくないから、よくわからないが……例えば、『ノベック』という呼称で知られる液体があると聞いたことがある。その液体は、表面張力が非常に弱いことから、その辺にこぼした場合に蒸発しやすいという特性を持つ液体で、確か無臭だったんじゃないかと思う。

では、これはノベックなのかと言えば、それも違うだろう。たった今言った通り、ノベックは表面張力が非常に弱い。だから水なんかと比べると、床にこぼれている状態では厚みが違うのだ。水深ならぬ、ノベック深が低いのだ。

今まさに、僕はこの液体に顔を近づけてじっと観察しているのだが、この液体はしっかり表面張力を持っていて、水と同じくらいの厚みになっている。だからこれはノベックでもないのだろう。

透明だし無臭だし、こうなると水に見えてくるな。


さて、また振り出しに戻った訳だ。

一体、何なのだ?この液体は。

考えてもわからないため、そこで僕は仕方なく、この液体のことは一旦考えないものとした上で、最初に感じた手の違和感について考えることにした。

あれは妙な感覚だった。ぐらぐらと手が揺れるような、まるで手を着いた先がテーブルの角だったかのような、やけに不安定なベクトルの力が、僕の手を支配していた。

繰り返しになるが、僕の周りには誰もいない。

さっきは変な憶測をしてしまったが、現実問題として、幻覚でいない筈の誰かがいるように見えることはあっても、いる筈の誰かがいないように見えるなんていうことは無いだろう。そんなの、透視能力みたいなものだ。非科学的で非現実的だ。

だからきっと、僕が正気だという仮定をする限りにおいて、誰かが本当は僕のすぐそばにいて、僕のコップを揺らしたということは無いのだろう。透明人間という可能性も考えたが、透明だったら眼という器官が使い物にならなくなって、周りがそのままの意味で視えなくなってしまうらしいからね。


「まあ、考えても仕方ないか」

僕はおもむろに、置いたコップに手を伸ばす。

何が起こったのかわからないなら、一応念のため、再現性のある現象だったかどうかを確かめるほうが良いだろう。何が起こったのかを知るために、一定の意味はある筈だ。

従って、僕はもう一度手にしたコップを、再び台に置く動作を試行してみた。

「………」

あの感覚は、訪れなかった。

今度は普通に、極めて普通に、悲しい程に平凡に、コップは台の上に着地した。

しかし、収穫が無かった訳ではない。

その時、僕は見たのだ。

コップの中で、揺れ動く水面を。

何か一つでも条件を(たが)えれば、即座にグラスのダムを決壊させるであろう、猛々(たけだけ)しく荒ぶる水の躍動を。

条件を変えれば……

何か一つでも、ほんの少しでも条件を変えれば。

「……嗚呼」

見えてきた気がした。

突破口はきっとそこにあると、確信した。


だから僕は、コップを台に叩き付けた。


ぱりーん、と、大きく高い音が鳴り響く。

鋭角を成したグラスの破片が、四方八方に飛び散らかる。

そして、支えを失った水達は、その分子一粒一粒が各々の意のままに、エントロピー増大の法則に基づいた拡散性を以って身勝手に四散し。

僕の足に、飛びかかり。

僕の足の、熱を奪った。


「そうか…!」

僕は理解した。

再現性はあったのだ。

僕は、まんまと引っかかってしまっていたらしい。

それは、誰かが僕の手を揺さぶったのではなく、誰かが僕の足に化学物質をかけたのでもなく、僕はあろうことか、コップを置く場所をほんの数センチ間違えただけだったのだ。

僕はコップを、台の上に置いたつもりだった。

しかし、そうではなかった。実際には、そうではなかったのだ。哲学的には、そうと言っても間違いではないのかも知れないが、しかし『置く』という動作は、その結果として対象物が静止しなければならないものだろう?

断言する。

僕がコップを置いたのは、台の角だったのだ。

台の角。卓球台で言うところのエッジだが……否、置いてなどいなかった。僕はただ、台の角にコップの底を当てがっただけだったのだ。

初めに感じた違和感は、恐らく、角という極めて不安定な場所にコップを置こうとしてしまったことで、コップが右に倒れそうになり、かと思えば次の瞬間には左に倒れそうになり、あ、ああ、そう、そうしてこう、ああああああああああああ!!!!

という訳だったのだ。


何ということだ。

なんたることだ。

僕は、カレンダーをふと見遣(みや)ったばかりに、コップを台の角に当てがうだけ当てがい、(あまつさ)えその中に入っていた水を床にこぼしてしまったのだ。

どうしてだ。

どうしてこんなことになった。

誰の所為だ?誰がこんなことをした?

誰が悪い!?


この世は過酷だ。

この世界は残酷だ。

生きることは難しい。

生きるとは死ぬことだ。

諸行無常…かつ盛者必衰。

成る程、言い得て妙なり。人

は本来、例えば原始の時代にお

いて、綺麗な水を得ることすら難

しかった。我々現代人からしてみれ

ば汚いと言わざるを得ないような水を

煮沸(しゃふつ)消毒するなりして何とか飲んでい

た。そんな中で、こんな透明な水が、コッ

プ一杯に入っていたのだ。これが盛者でなく

て何だというのだろう?コップの中に、綺麗な

水が一杯に、文字通り一杯に入っているというこ

とは、それ即ち、このコップが繁栄し、繁盛してい

ることを意味するに他ならないと、気付くべきだった。

だが、諸行無常、盛者必衰。

春の夜の夢。

風の前の塵。

ならば、このコップの中の水は、いずれコップの中から無くなる運命にあったのだ。

それだけならまだ良かった。問題は、無くなる理由が、僕が飲んだからではなく、こぼれてしまったからだという点にあるのだ。

こんなことがあってたまるか。

どうして僕が水をこぼさなくちゃならないんだ!?


「はあ、はあ……ぐぬぬ…!」

ともかく、水だと分かれば遠慮は不要だ。そればかりか、早いところ、こうして拭き取ってやらなければ、床の木材に染み込んでしまって、木材を傷めてしまう恐れがあるのだから、何はともあれ僕は床を拭く。

ひとしきり拭き終わってから、ふと立ち上がって、そこで僕は台のほうを先に拭いたほうが良かったということに気付く。たった今床を拭いた雑巾は、床を拭いたことによって、さながら床でも拭いたかのように汚いではないか。

気分が悪い。


今日はこの後楽しい楽しい読書の時間が控えているというのに、どうしてこうなってしまったんだ。

仕方なし、僕は新しい布巾を持ってきて、台の上も拭いた。しかし、そこで今度は、割ってしまったコップの破片を掃除しなければならないということに気付く。

「……面倒だな」

面倒。

本当に、その一言に尽きた。

水をこぼしてしまって、それを雑巾や台用の布巾で拭き取って、おまけに割れたコップの破片も掃除しなければならないなんて……

そんなことをしていれば、もうじき(きた)る読書の時間に間に合わないかも知れないという可能性が脳裏をよぎって、気が滅入る。


だから僕は、破片を全て呑み込んだ。


一片残らず、と言えば嘘になるが、大きな破片は全て、僕の胃袋の中に収納した。

細かな破片は雑巾でかき集めたし、これでもう大丈夫だろう。おっと、もう読書の時間まで3分しか無い。

急いで自殺しなきゃ…じゃなくて自室に戻らなきゃいかん。

何故だか、こういう時に限ってお腹が物凄く痛くなってきたけれど、構うものか。胃もたれだろうが胃酸過多だろうが食中毒だろうが、関係ない。僕にとって、読書は絶対のルーティンワークである。


自室に這入(はい)って、自分の机に向かう。途中、ついうっかり嘔吐して床を汚してしまったけれど、そんなもん気合いでどうにでもなる。

さて、準備は整った。それじゃあ今日も、楽しい楽しい読書のお時間を始めるとしようか!


ああああああああああああああああああ!!!!!

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