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窓辺の備忘録  作者: 瑞穂
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愛情恐怖症





“愛情“というものに嫌悪感が湧いてしまうことがある。友達から向けられる親愛や、SNSで全く知らない人が誰かを推す言葉。全ての愛情というわけではないけれど、何か特定のものに対して湧き上がる嫌悪感は凄まじい。


なぜそんな感情が湧いてきてしまうのだろう?人が何かを愛するという行為は素晴らしいことで、嫌悪してしまう自分はおかしいのだ。私はそう考える。そんな自分と向き合いたくなくてこの感情からも目を逸らし続けていた。


だが先日この感情と向き合わねばならないと思わされる出来事が起きてしまったのだ。その出来事とは、長い付き合いの友人から向けられる親愛を嫌悪してしまったこと。その友人との付き合いは五年ほどになるだろうか。親友と呼べるほどではないが親しくしていた人だ。彼女から向けられる愛情が鳥肌が立つほど嫌だった。突然嫌になった訳ではなくて、友達になったばかりの頃から少しずつ感じてはいた。でもここまで大きな嫌悪が湧いたことは初めてだったのだ。彼女はとてもいい子で、嫌だと思ってしまった自分こそ嫌だった。


その出来事が起きたから。向き合わねばならないと思った。このままだと私は一生人を愛せないのではないかという不安も背を押してきた。


うんうんと唸り、考えてやっと腑に落ちる答えを思いついた。


私は『偶像崇拝』みたいなものがいやなのだろう。もちろんこれはただの例えであり、宗教などとは関係がない。


私の友人はかなりの人見知りだ。そのせいでなかなか友達ができず、私が中学で初めての友達だったと聞いたことがある。彼女にとって私は、“特別な友達”というものらしかった。


「こんな私にも声をかけてくれるなんて、この子はなんていい子なんだろう」


そう思っているらしいことを会話の端々から感じることがあった。自惚れだろうか。いや、でも本人が言っていたのだからあながち間違いでもないはず。


多分、そのせいだ。彼女にとって私は“すごくいい子で特別な友達”という偶像なのだ、と感じてしまった。彼女が本当に考えていることは私には分からない。でも私は、彼女が私を通して“すごくいい子で特別な友達”というものしか見ていないように感じてしまったのだ。私を見ているようで見ていない。私を本当に見ているのなら、私がただの嫌な人間なのだと理解してくれるはずだ。私は友達に対してこんなことを考えてしまうような、嫌な人間なのだ。それを聖人のように扱われ、人形のように扱われていると感じてしまって嫌だったのだろう。期待が重かった。


こんなことを推測で言ってしまうのも彼女に申し訳ない。でも湧き上がる感情を抑え込むことは不可能だ。長年の付き合いに誠意を示したい気持ちも、とてもいい子な彼女を傷つけたくない気持ちもある。だから私は彼女を傷つけないよう、距離を置かせてもらった。私を彼女から遠ざけた。


以前、キリスト教について教えてくださる先生が授業で喋っていたことがあった。(我が校はキリスト教のためキリスト教の教えについて授業がある)


キリスト教において偶像崇拝は認められていない。このことについて先生は、「自分に都合の良い神を作ること」はよくないよね、とおっしゃっていた。


それって凄く、今回のことに当てはまるな。そう思った。


もう一つ、最近同じ嫌悪を感じたところ。Xで誰か知らない人がしていた発信。


その文章はその人の推しの心情について言及したものだった。〇〇くん、辛かったよね。人間がごめん。みたいなポスト。


これもある意味『偶像崇拝』だよな、と思う。何故なら、その人が辛かったかどうかは本人にしか分からないからだ。


小説やマンガ、アニメなどの登場人物が何を感じているかは明言される。作者によって登場人物の感情は表される。しかし現実はそうもいかない。他人の感情を理解できる人間はいないからだ。本人すら戸惑い、理解できない感情だって現実に存在する。


それを他人が分かったつもりになる、ということは、その人の形を模した偶像を作り、押し付けることになるのではないかと考えた。


自分を通して別の物を見られる、そのことを嬉しく思う人ってなかなかいないのではないだろうか。本人が見る可能性のあるSNSで、不快感を与えかねない発信をするのって良くないのでは?


発信をした人はその人の推しが大好きだから、辛かったよね、と心配したのだろう。愛情由来のものを批判したくはない。その人の推しが本当に辛かったのなら、その発信は支えになる可能性の方が高いだろう。


それでも、偶像を作って本人に押し付けるのはよろしくないと思う。周りにこの意見を押し付けたいわけではないので、ここ以外にこの気持ちを発信しようとは思わない。ただ、私も無意識に行なってしまっている『偶像崇拝』をできる限りしないように気をつける。その意思表明のために、数年後この事を確実に忘れているであろう自分のために、ここにこの文章を載せさせていただく。


お読み頂きありがとうございました。



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