恐ろしき善行
ある乱暴者が居た。
村を歩いている途中、人が横切れば呼び止めて因縁をつけて殴りつける。
かと言って、逃げるように避ければ、それに腹を立てて呼び止めて殴りつける。
ならばと姿を隠していると、物にぶち当たり、さらにそれを蹴り飛ばす。
そんな乱暴者に対し、誰もが困り果てていると一人の賢者が村へと寄って一計を案じた。
村人は賢者の言葉を半信半疑で聞いていたが、どうせ恐れ続けるばかりならばと結局彼の考えに乗った。
賢者は彼らに対して微笑んで言った。
「また来ます。その頃にはきっと解決しているでしょうから」
さて、翌日から乱暴者は奇妙な経験をするようになった。
村人がビクビクとしながらも、彼に穏やかに接するようになったのである。
それどこらか、村人は口々に言った。
「あの時、溝にはまった荷車を引き出してくれてありがとう」
「逃げてしまった山羊を捕まえてくれてありがとう」
「襲って来た狼から助けてくれてありがとう」
雨のように降りかかる感謝の言葉を聞いて乱暴者は混乱をする。
何故なら、村人達が言うようなことをした覚えは全くないのだ。
だからこそ、乱暴者は「そんなことはしていねえ!」と怒鳴り散らしたが、その声に怯えつつも村人達は感謝を止めなかった。
腹を立てた乱暴者は「うるせえんだよ!」と怒鳴りながら村人を殴った。
しかし、彼らは悲鳴こそあげたが、それでも感謝の言葉を止めることはなかった。
乱暴者は気味が悪くなり、そのまま家に引き返した。
そして、その奇妙で恐ろしい感謝の言葉は翌日も、その翌日も、そのまた翌日も……。
とにかく、ずっと続いたのだ。
乱暴者はやがて、自分がしたはずのない善行をしている『自分』が恐ろしくて仕方なくなった。
彼は村中を走り回って『自分』を探したが、当然ながら自分がこの場所に居る以上『自分』は見つかるはずもない。
一体、これはどういうことなのだ。
自分の知らない場所に『自分』が存在する……そんな馬鹿なことあるはずない。
「私たちは君を勘違いしていた」
「そうそう。君はこんなにも良い人だったなんて」
村人たちは自分に対してこう言ってくれるが、本当にそんなことをした覚えはないのだ。
乱暴者はやがて夜、眠れなくなった。
もしかしたら、眠っている内に『自分』が勝手に動き出しているのかも知れない。
そう思ったからだ。
しかし、生きている以上は眠らなければならない。
ふらふらとなりながら、男は時折眠り、そして慌てて起きると何とか眠らないように顔を水で洗う。
気づけば乱暴者の人生は毎日がその繰り返しとなっていた。
そして、当然ながらこのような生活をして生き続けられるはずもない。
やがて、乱暴者はやせ細り動けなくなり、程なくして亡くなった。
それから数日してあの賢者がまた村を通りかかった。
賢者は村人から乱暴者が死んだと聞いて微笑む。
「良かったですね。これでもう安心です」
そんな賢者に村人が尋ねた。
「しかし、何故あいつは死んでしまったのでしょうか?」
「そうですよ。私達はただ嘘をついていただけなのに……」
すると賢者は笑みを打ち消して答える。
「自分が自分でなくなるというのは想像以上に恐ろしいものなのですよ。考えてもごらんなさい? 自分のした覚えのない善行を周りがずっと口にする。それも一人だけではなく村全体で。そうなれば、自分が知覚している自分が本物であるか不安になるものなのです」
だから、その不安の果てに死んでしまったのですよ。
賢者がそう言葉を結んだ。
村人達は自分達のしたことに気づいたがそれをしっかりと捉えて罪の意識となる前に、村長が賢者の手を取って叫んだ。
「いずれにせよ、あなたのおかげだ! 今日はゆっくりとなさってください!」
賢者は頷いて、彼らの歓待を受けてその日を楽しく過ごした。