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憂い事  作者: 山神伸二
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別れ話

 庭に蝉の死骸を見つけ、菊一郎は何気なく、煙草を吸いながら見つめていた。いつもであったら、すぐさま片付けるのだが、そういう心持ちになれず、風化してしまうまでこのままで置いておこうと思った。

 なんの蝉かは菊一郎にはわからなかった。愛佳に聞こうかとも思ったがやめた。女の子には興味のない事であろう。

 朝日が登る時で、まだ日が差し込み初めて間もなかった。愛佳はまだ横になっているはずだった。

 外の道で自転車に乗っている学生が通り、その音に菊一郎ははっきりと目が覚めたように思えた。

「お庭にいらしたんですね。叔父様」

 愛佳がリビングから声を掛けた。

「おはよう。起きてたの?」

「ええ、早起きをしてしまいました」

 愛佳の笑みを見て、菊一郎は安心した。あれから数日が経ち、愛佳は悲しみの淵に立たされたままなのでないかと菊一郎は不安に思っていた。

 何気ない会話に喜びを見出せることが菊一郎は何よりも幸せであった。

 愛佳は化粧をまだしておらず、ここに来てから時折見せる化粧をしていない愛佳であった。

「あ、日暮」と愛佳が呟いた。

「日暮か、この蝉は」

「もう死んでいますね」

 愛佳は縁側へ歩み寄った。庭へは行かず、そこから日暮を見守っていた。

「埋めてあげよう。まだ夏になってないのに早いもんだね」

 菊一郎は死んだヒグラシを手に取り、土に埋めた。

「僕はなんの蝉かはわからなかったよ。愛佳ちゃんよくわかったね」

「この時期に鳴く蝉は日暮です。しかし、この時期に死んでしまうのも勿体無いというか悲しいですね」

 愛佳のその言葉には夏真っ盛りとなる前に命を終えたヒグラシの憐れみがあった。しかし、悲しいとはどういう事であろうか。蝉の最盛期を迎える事ができなかった悲しみか。だとすれば人間の勝手な考えだなと菊一郎はふと思った。

「死んだ日暮に悲しみがあったのかな」

「どうでしょう。私も言ってておかしいと思いました。随分と自分勝手な言葉だと」

 庭には水溜りが浮き出ていた。小さな葉が船のように浮き、これも水溜りが乾いたら先ほどの日暮と見間違えるような姿となるのだろうか。

 朝日が登る頃には菊一郎は家へと戻っていた。愛佳が家を出ると、菊一郎は十時までは家にいた。仕事は休みを貰い、家を出る準備をしていた。

           ・

家を出ると、駅へ行き、銀座へと向かった。銀座で静香と会う予定であった。

 銀座に着き、静香と会う頃には十一時を疾うに過ぎていた。

 スーツを着た菊一郎に静香は怪訝な顔を見せた。

「一瞬、誰かと思いましたわ。普段はそんな格好されないから」

 静香はドレスを着ていた。駅で会うには場違いであった。

「静香さんは電車でその格好を?」

「いえ、タクシーで来ましたわ」

「なるほど」

 それは悪い事をしたと菊一郎は思った。

 二人はレストランに行き、昼食を召し上がる事にした。

「驚きましたわ。菊一郎さんが電話を掛けてくることなんて一度も無かったから。只事ではないと思いました」

「僕にとってはそのつもりです。静香さん、単刀直入に言わせてもらうと、僕との関係を終わりにさせてください」

 静香は何を思っているかは菊一郎にはその表情からは想像がつかなかった。

「それは何故....」

「最近、自己嫌悪に陥る事がよくあるんです。姪の事です。あの子の父親は僕の兄ではなく父です。兄嫁との不貞で出来た子です。それを兄から聞き、姪には一生の傷が出来ました。知らぬが仏とは言いますが、一生知らないことは必ずしも難しくないとは言えません。きっとどこかで知ってしまいます。なので言ったのでしょう。まだ早いかとも思いました。そんな姪は僕の事を信頼している。姪の出生の事実を知らないと。姪がもし、その事を僕が知っていると今知ったら幻滅して、自殺でも考えたらと思うと....」

 静香は何も言わず聞き入ってた。菊一郎は酒を飲むと、その力を借りた。

「そして僕が父と同じ、行為を行なっている。僕はその事に姪を裏切っていると同然だと思いました。そして、姪に知られる訳にはいかない。そしてこんな自分を変えなくてはならないと僕はそう思いました。静香さんには申し訳ないですが、僕は本気です。静香さんだけでなく今までの自分と別れを告げる為にここに来たのです」

 菊一郎はそう言うと、改めて店の静寂さを知った。

「私も菊一郎さんに賛成です。この関係はよろしくないから終わりにしましょう。私も最近、旦那の連れ子が私達の姿を見掛けたそうで、私に詰め寄った事がありました。私は旦那程、隠れながら不倫をするのが上手くないので、白状しました。そして息子にはもうこんな事はしないと誓い、今日まで悩みに悩んでいました。ただ、やはり、簡単に関係を終わらすのは難しい事ですわね」

 静香の諦めの言葉に菊一郎は情け無さと行き場の無い憐れみを抱いた。

「これからどうされるんです?」

「また同じ事をしてしまいそうですね。新しい男の人と出会うのもいいけれど、でも、この際ですから、また旦那とやり直そうかしら。息子に恋人がいるんです。近いうちに家に連れて来たいと言ってて、だから私には怒ったのでしょう。息子は真っ当にお付き合いしているの。それなのに私達は随分と汚れとも似た事が言える事をしているのは酷いですわね。旦那と話し合って、また一度やり直しますわ」

「そうした方がいいですね。お互いに」

 そして菊一郎は静香と別れると今後、二度と会えないのだろうという気がした。

           ・

 愛佳は学校から帰ると着替えをして、再び出掛けて行った。恋人と鎌倉に行くらしかった。

 菊一郎は久し振りに一人の夜を過ごした。静香とは今日を最後に別れ、愛佳ともあと、幾日かで別れる。この生活はすぐに来るのに、菊一郎はまた騒がしさがやってくる心持ちであった。

           ・

夜になると愛佳は家へと帰った。菊一郎は愛佳の帰りが自然となっていた事に気づき、それが終わる事に寂しさを覚えた。

「おかえり、随分と遅くなったね。明日は休みだけど、子供が夜遅くは不良のようだね」

 菊一郎の言葉に愛佳は照れ笑いを浮かべた。大人のようなだと思えたのだろうか。菊一郎は後何年もしたらこんな愛佳を見る事はできないのだろうと思った。

「恋人の家に行きましたの」

「鎌倉にあるの?」

「ええ。彼、お金持ちですの」

「羨ましい限りだね。僕には縁のない事だよ」

 愛佳を見ると朝とは違い化粧をしており、女としての愛佳を垣間見た気がした。それは愛佳の恋人のために見ることのできるものである。

 騒がしいとも言えないが静寂でもない、今の愛佳との生活は菊一郎には慣れ親しみ、元のように戻れるか菊一郎には不安であった。

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